2022/05/31

私が言うのもなんですが(第12号編集後記)

ウィッチンケア第12号、予定どおり毎年恒例の《すべての寄稿者/作品紹介》〜編集後記へと辿り着きました。...ここまで長かった、というのが率直な感想。今号はかなり早めに制作準備を始めまして、まずデザイナーの太田明日香さんと最初の打ち合わせをしたのが昨年9月20日。その後、約1ヶ月かけて写真家が白山静さんに決まり、初打ち合わせが11月6日。併行して寄稿者とのやりとりがあり、前号の32名から10名増の42名と決定したのが、大晦日の紅白歌合戦の最中だった記憶あり。あっ、10月〜年末にかけては全国の(おもに独立系)書店様にも、見本誌持参(or送付)でお声がけさせていただきました。

全体の作業量は増えたはずなのに、終始楽しかったんですよね。私はルーティンワークが苦手で落ち着きのない性格だと自認していますが、今号に関してはそれが良い方向に出たのかもしれない。結果、これまでで一番「売れている号」にもなっていそうです、おそらく(今年10月に取次と精算をしてみないと正確にはわかりませんが)。

前号の編集後記をいま読み返すと、けっこう愚痴っぽい。まあ、今号でもほぼ同じ状況での作業だったものの、それでも開き直れたというか、やれることをやってみるしかないと思えたというか...ちなみに昨年“(その女性とは〜中略〜いまは「怪しいヤツ」とは思われていない、と思う)”と記したかたの作品は、今号にしっかり掲載されています。一喜一憂せず「時間をかける」ことも大事だな、とあらためて思いました。

明日(6月1日)には《ウィッチンケア第12号のまとめ》をブログ(&note)にアップします。ぜひ、アクセスしやすいかたちにした《寄稿者/作品紹介》をあちこち読んでみてください。私が言うのもなんですが、小誌は個人主宰誌なので「私がおもしろいと思った作品」しか掲載されていません。ですので、もし42名(42作品)のうちの誰か(あるいはどれかの作品タイトルetc.)に気持ちが動いて小誌を手にしたかたでしたら、それは私と同種のリアクションなので、ぜひ他の(できれば「全然知らない」)寄稿者の作品を読んでみてください! きっと、かなりの確率で「新たな良い出会い」になるはず。そしてまだ小誌を手にしていないかたには...ぜひぜひ、下記URLのリアル店舗Amazon等のネット書店で入手してくださいね。

引き続き今号の読者を増やすための活動を続けます。同時に、どんな次号がつくれるのかを考え始めます。次号を出せるとしたらVOL.13...「13」という数字をおもしろがるようなことができないかな、なんて、元来編集者気質の私は校了後すぐに思いを馳せていたもののそれをぐっと封印して「第12号を知ってもらうこと」「第12号を売ること」に注力してきましたが、ここからは二刀流で先に進みたく存じます。...なにはともあれ、みなさまウィッチンケア第12号をどうぞよろしくお願い申し上げます!

でっ、テキストだけの後記ではなんとも味気ないので今回もなにか1曲...最近は新しい曲に疎くなっていまして、もう初心忘れるべからず、みたいなのにしまーす。小誌創刊の動機でもある、これ。 



2022/05/18

VOL.12寄稿者&作品紹介42 小川たまかさん

今年2月に『告発と呼ばれるものの周辺で』を上梓した小川たまかさん。同書は性犯罪(...というか、性被害)にまつわる本で、2010年代半ば以降に小川さんが見聞きしたさまざまな立場の人の“声”を、過去の文献やご自身の体験も交え、現在の視線で考察した1冊です。タイトルには「告発」というゴツい言葉が選ばれていますが、私にはむしろ筆者が「周辺」のほうに重きを置いているように読めました。〈あとがき〉にある「本当はもっと近くで聞いてほしい声だった」というニュアンスを漏らさず伝えるために、粘り強く丁寧に執筆作業を続けたのだろうな、と。第4章の「構造への指摘はいつも意図的に無視される」(P151)という指摘、第1章最後の「こんなことがもうずっと繰り返されてきているのだと思った」には、小川さんが抱えているやるせなさが詰まっていると感じたなぁ。...それで、そんな小川さんが小誌今号に寄稿してくださった「女優じゃない人生を生きている」は、「女優」という言葉を軸に「自分をフェミニストだと思っている」という主人公・優里の、職場での日常のできごとを綴った一篇です。


『告発と〜』に通じる問題も扱われていますが、より多面体というかきめ細かいというか、優里と他者との関係性や心の揺れを描くだけに留めることで、「Yes or No」的な“結論”から自由になっていると感じました。たとえばあるインタビュー中に劇作家が使った「女優」という言葉。これを先輩のチコさんは原稿化するさいに「俳優」に修正する。そのことに優里は同意している。「緩衝材のプチプチを一個ずつ潰していくように、表現に染み付いた社会的性差を指摘していったらいいのだ」と。しかし他の場面では「女優って言葉には、「女医」とか「女流作家」とは違うリスペクトがある気がする。男優より俳優より、女優の方がメイン、みたいな」とも。でっ、なぜそう思うのかについては「うまく説明できないけど」で、止め。うまく説明することでこぼれちゃうものをすくっていると感じました。救っている/掬っている。

以前インタビューしたことのある19歳の俳優...彼女が平塚らいてうを演じた舞台を観て、優里は心をかき乱されます。この終盤でのたたみかけるような展開が圧巻でして、時空を越えた感情と理性の乱高下を、読者のみなさまはどう解釈するのでしょうか。とにもかくにも小誌今号のクローザーにふさわしい小川さんの書き下ろし小説を、ぜひぜひ、ご一読のほどよろしくお願い申し上げます。


「私、小さい頃、演技をする人になりたかったんですよね。変かもしれないんですけど、レッスンとかオーディションを受けるとか鍛えられることに憧れがあって」
 チコさんが聞いてくれているのを確認して、続ける。
「だから劇団に入りたいとか、オーディションを受けたいって思ってたんですけど、うちはそういう家じゃないって親に反対されて諦めちゃって」
 そう、だからこそ「女優」に憧れる。劇団に入れなくても、もっと外見が優れていればスカウトされて、その道を歩めるかもしれなかった。昔読んだ雑誌で、コラムニストが「美少女はどんなに嫌がってもとっ捕まって芸能界に入れられる、そういう運命なんだ」と書いていて、本当にその通りだと思った。「女優」への特急券を持っている同年代の美少女たちが羨ましかった。

〜ウィッチンケア第12号〈女優じゃない人生を生きている〉(P236〜P243)より引用〜

小川たまかさん小誌バックナンバー掲載作品:〈シモキタウサギ〉(第4号)/〈三軒茶屋 10 years after〉(第5号)/〈南の島のカップル〉(第6号)/〈夜明けに見る星、その行方〉(第7号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈強姦用クローンの話〉(第8号)/〈寡黙な二人〉(第9号)/〈心をふさぐ〉(第10号)/トナカイと森の話〉(第11号)

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2022/05/17

VOL.12寄稿者&作品紹介41 谷亜ヒロコさん

谷亜ヒロコさんの今号への寄稿作は「テレビくんありがとうさようなら」。 朝井麻由美さんに続きまたもやテレビ絡みの話になりますが、もう引導渡しちゃってるところが、谷亜さんらしいサバサバしさ(!?)。NHK放送文化研究所が実施した「2020年 国民生活時間調査」によると16~19歳の約半分が「ほぼテレビを見ない」らしく、私の乏しい人生経験に照らし合わせても、たとえば携帯電話が普及し始めた時期、当時の人はなんとなく「家庭(世帯)の固定電話との併用なんじゃないの」と思っていたと思うし、CD(というか、デジタル音源)が出始めたころだって、「フィジカルなメディアはいらない」までには思いが至らなかったと思うのです。いまテレビを見ている人って、おそらく電話とレコード(CDを含む記録媒体)の末路をリアルタイムに知っているはずなんだけれども、でも長年の視聴習慣に引き摺られているだけで、じつはもう、既存の放送局のタイムスケジュールにこちらのほうから生活を合わせてあげるの、かなりキツくなっているはずで、あとは電話→iPhone/音楽再生手段→iPod〜ストリーミング、みたいなイノベーションが...もう私には起こっちゃった、というのが今号の谷亜さんの一篇なんですよね。スイマセン、長々とつまらん講釈垂れまして。


かつてのテレビっ子(谷亜さん)がいまやすっかりYouTube視聴者へ。少しまえまでテレビとは「友達との会話の糸口」だった、と谷亜さんは書いています。でも最近は“「8時だヨ!全員集合」での細かい話、山口百恵は良かったなど、知らんがな、もう芸能界いないわよ、そんな語り尽くされた話には、興味がない。”とも。心当たりがありまして、あのぅ、むかしいた会社の同期会とかって、相互に現時点の情報がないから、その話をすれば有意義だったりもするのでしょうが、ついつい共通の昔話になって「なんか、いっつも同じ話してるな」みたいな。あと、私は20代後半で気づきましたが「懐かしい」は、飽きる。新たな「懐かしい」を頑張って掘り起こす、あるいは自分が発見していない「懐かしい」を知ってる人と交流しないと、テレビの「懐かしアニメベスト」みたいなのの餌食になってCM刷り込まれるだけ。

ほぼテレビ話の本作に少し挟まれている、谷亜さんの御父様のこと。お原稿を受け取ったときにはちょっと心が震えましたが、しかしこれも筆者の「書き手としてのスタンス」なのだと理解しました。表題の「ありがとう」はテレビだけに係っているんじゃないのかもなぁ、なんて思ったりも...でした。


 昔からテレビが大好きだった。最初の記憶は、五歳の頃、朝八時十五分から始まる朝ドラが見たくて、幼稚園に行きたくないと泣いた。学生最後という大事な高校卒業式の日も「笑っていいとも!」のゲスト本田恭章が気になりすぎて、友達の誘いを断って速攻帰ってきた。しかし私は特に本田恭章が特に好きなわけではない。「いいとも」という超マスなメジャーの場で、本田恭章がどれだけアウェイ感を醸し出すのかが見たかっただけ。テレビドラマの第一回目は全て録画して見て、そのうちの半分ぐらいは見て最後まで視聴した。朝だけじゃなく、帰宅してもまずはテレビを見ていた。

〜ウィッチンケア第12号〈テレビくんありがとうさようなら〉(P232〜P234)より引用〜

谷亜ヒロコさん小誌バックナンバー掲載作品:〈今どきのオトコノコ〉(第5号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈よくテレビに出ていた私がAV女優になった理由〉(第6号)/〈夢は、OL〜カリスマドットコムに憧れて〜〉(第7号)/〈捨てられない女〉(第8号)/〈冬でもフラペチーノ〉(第9号)/〈ウラジオストクと養命酒〉(第10号)/鷺沼と宮前平へブギー・バック〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介40 朝井麻由美さん

現在テレビ東京【水ドラ25】で絶賛放映中の「ソロ活女子のススメ2」。朝井麻由美さんが大和書房刊の「ソロ活女子のススメ」を上梓したのは2019年3月、同名タイトルのドラマが放映されたのが2021年4月〜6月。その後配信オリジナルのスピンオフドラマ「ソロ活女子のススメのススメ」が制作されたりもして、現在の「2」へという流れですね。江口のりこは「半沢直樹」の白井亜希子国土交通大臣もすごかったけれど「鎌倉殿の13人」での亀の『後妻打ち』もすごくて、今後どれだけ大化けするのか? そんな彼女の民放連続ドラマ初主演番組の原作者が朝井さん...これは、すごいことだ! そして、そんな朝井さんから今号に届いた寄稿作「ある春の日記」には〈今度の新作ドラマの原作者〉という人物が登場しているのですが、これは、きっと偶然だと思います。ええと、本作は〈性別女、制作会社勤務〉(テレビ関係)のかたの素っ気ない雑感メモみたいな体裁の一篇でして、サラリと読めるもののけっこう毒素も含まれているように感じられまして、まあ一番の問題は今作で筆者に毒を吐かれているその当事者が「それって毒を吐かれるようなことなの?」という認識のまま存在していることだと思いました。“会議で「価値観のアップデート」とよく言うくせに、〝アップデートしてるクリエイターな俺〟が好きなだけで、根っこの部分はただの昭和のおっさんなんだよな”...ガツーン!


「恋愛はドラマの基本じゃないですかァ?」と語るプロデューサー。私(←発行人)は2003年1月~2022年04月までの民放ドラマ高視聴率ランキングを調べてみました。あきらかにラブストーリーだと思えるものは「ラストクリスマス」(2004年/18位)と「電車男」(2005年/25位)くらいしかないぞ。ちなみに彼が想定していそうな「基本」のやつを拾ってみると「Beautiful Life」(2000年)、「ロングバケーション」(1996年)、「東京ラブストーリー」(1991年)、「男女7人秋物語」(1987年)...やはり困った存在です。

あと、作中の〈三月十七日〉のフッくんの件が心に残りました。私は十数年前、下北沢のたこ焼き屋のテイクアウトに1人で並んでいて、そのとき店内にいた女がなにかの拍子に振り返って目が合って、しばししてその女がもう一度確認するように振り返って、その後隣にいた男に「ダチョウ倶楽部かと思った」と言った声が聞こえて、この話のポイントは女は「ダチョウ倶楽部」としか言っていないのに私にはそれが「肥後でも寺門でもない」とわかったことで、やっぱりこんな時間にたこ焼き食べようとするからこんなこと言われるんだと落ち込んだことがある程度には親しみを感じていた人がつい先日なくなってしまって、いまや黄昏てるテレビ業界であのポジションを続けていくのはさぞかしつらかったんだろうな、とちょっと同情したことをここに記しておきます。



三月九日
 プロデューサーが怒っていた。今度の新作ドラマの原作者と揉めているらしい。プロデューサーはドラマの中で主人公に恋愛をさせたいらしいけど、原作者はそれを嫌がっている。原作に一切ない展開なのだから、当たり前だろう。
「恋愛はドラマの基本じゃないですかァ?」と気持ちの悪い顔して電話している。いかにもな昭和のプロデューサーで吐き気がする。しかも、カーディガンを肩で巻いてる。初めて見たとき、プロデューサー巻きする人って本当に存在するんだ、と驚いた。電話を切ったプロデューサーが「恋愛にしないと数字が取れない」とブツブツ言っている。

〜ウィッチンケア第12号〈ある春の日記〉(P228〜P230)より引用〜

朝井麻由美さん小誌バックナンバー掲載作品:〈無駄。〉(第7号)/〈消えない儀式の向こう側〉(第8号)/〈恋人、というわけでもない〉(第9号)/〈みんなミッキーマウス〉(第10号)/ユカちゃんの独白〉(第11号)

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2022/05/16

VOL.12寄稿者&作品紹介39 清水伸宏さん

 清水伸宏さんの小誌前号への寄稿作「定年退職のご挨拶(最終稿)」は昭和の時代を思い起こさせる、アイドルにまつわる一篇でした。今号への書き下ろし新作「つながりの先には」は、バリバリの令和ストーリー。ことの始まりは今作の主人公・ケンジがFacebookで“1990年代後半に人気が出たイギリスのロックギタリストC”について語り合うグループをつくったことなんですが...音楽好きが多いと思われる小誌読者、ここでもう惹き込まれません? 誰? Cって(ザワザワザワ)!  この後の説明では“Cが所属していたバンドは、イギリス本国では当時日本で大人気だったロックバンド、オアシス以上に評価が高かったが、いかんせん曲がポップではなかったため日本ではブレイクしなかった”と。私(←発行人)はクーラ・シェイカーのCrispian Mills! 一択なんですが、果たして正解は? それはともかく、このグループのメンバーである山口康夫、水上みなみとケンジとの関係性を軸に話は進んでいきまして、ええと、ネタバレなしてその後の展開を説明するのがなかなかむずかしいので、スイマセン、Cで胸がざわついたみなさま、ぜひ小誌を手に取って衝撃の結末をお楽しみください!


前作の主人公・「僕」は週刊誌の記者でした。今作のケンジさん、素性がはっきりしませんが、「僕」に負けず劣らずな取材力を身につけています。酒が好きで、多少の物事には動じない。東京五輪に熱狂するわけでもなく、新型コロナウイルスに過剰な反応を示すわけでもなく。作中で一箇所だけケンジの感情がバーストする描写があり(スマホを放り投げる)、おおっ! と波乱を期待したのですが、でもすぐクールダウンしちゃったので、これはやはり「沸点の低い人生慣れ」とでも言いますか、いにしえの刑事ドラマ「太陽にほえろ!」にたとえれば露口茂が演じた「落としの山さん」と、イメージがかぶる。

ケンジさん目線で語られる物語なので「ケンジさんの言動」はすべてケンジさん的に整合性がとれているのだと思います。ただ、客観的に見ると語られてないなぁと感じられることが一点あるんですよね。もし私がこの作品に割り込むことが可能なのだとしたら、ひとつだけ(できれば物語前半で)ツッコミたい。「ケンジさん、水上みなみのこと、まんざらでもないんでしょ?」と。...いや、筆者は「そんなこと言わずもがな」で、書いたのかも知れないけれど。


 翌日、メッセージが着信したマークがついていたので、すぐに開いてみたら水上みなみではなく山口からだった。昨日の今日のことなので、思わず身構えたが、時候のあいさつのような内容だった。
 その翌々日になってようやく水上からメッセージが来た。ケンジのアドバイスに従って山口をブロックしたこと、これからも頼りにしていいかといったことが書かれていた。ケンジはあとでじっくり返信の文章を考えようと思い、取り急ぎ「ハート」マークをつけた。
 山口はその後もケンジのグループはもちろん、水上みなみが所属しているすべてのフェイスブックグループで、彼女が投稿した記事にコメントをつけていた。相手からブロックされても、グループへの投稿は見られるらしい。

〜ウィッチンケア第12号〈つながりの先には〉(P230〜P237)より引用〜

清水伸宏さん小誌バックナンバー掲載作品:〈定年退職のご挨拶(最終稿)〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介38 ナカムラクニオさん

ナカムラクニオさんの主宰する6次元(東京都杉並区荻窪)の公式ブログを拝見すると、最近はアート系の催しが目立ちます。《1日美術講座》、《金継ぎENGLISH》講座、《呼び継ぎワークショップ》etc.。またオンライン画像で販売されている絵画には以下の一文が添えられています。“作品の売り上げはすべてウクライナの隣国スロバキア、イギリス、アメリカでの美術活動費として使わせて頂きます”。そんなナカムラさんの小誌今号への寄稿作は〈妄想インタビュー 岡倉天心との対話──「茶の湯」という聖なる儀式について〉。やはり美術と所縁の深い人物を取り上げていて、最近のナカムラさんの、関心事の方向が伝わってきました。ちなみにこのタイトルは今号で一番長くて、これは小誌歴代の「タイトルが長い選手権」でも第1位かな、とふと思えたので遡って調べてみたら、第4位でした。3位が木村重樹さんの〈マジカル・プリンテッド・マター 、あるいは、70年代から覗く 「未来のミュージアム」〉、2位が須川善行さんの〈死者と語らう悪徳について 間章『時代の未明から来たるべきものへ』「編集ノート」へのあとがき〉、そして第1位は栗原裕一郎さんの〈あるイベントに引っ張り出されたがためにだいたい三日間で付け焼き刃した成果としての「BGMの歴史」〉...せっかく調べたので記録しておきます。 


妄想の世界に降臨した天心が説く、茶道の真髄。髭を蓄えた肖像写真を思い浮かべながら“茶道は、日常生活の俗なものの中に存する美しきものを崇拝することに重点を置いた一種の儀式であり、純粋と調和の神秘を教える思想となったのだ”なんて語りっぷりに接すると、よくわからなくても「御意!」と言っちゃいそうな迫力です。この後、茶は「衛生学」であり「経済学」であり「精神の幾何学」でもある、と持論はさらに展開。理詰めの人かな、と思うと“茶には、酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気さもない”なんて、うまくアレンジすればJポップの歌詞にでも引用できそうな、お洒落な言い回しも...硬軟併せ持った、一筋縄ではいかない人物像として描かれています。

作中の、茶器に関する天心翁のお言葉が、浅学な私(←発行人)にはとくに勉強になりました。茶と器の色的な相性については「茶道」に足を踏み入れたことのない私でも、なんとなく日常的に感じてはいたけれども...なるほどなぁ、“南部の青磁と北部の白磁”。茶道楽は身を滅ぼす、なんて言葉もありますが、淹れるお茶の色に合わせて家ん中にある陶器やら磁器やら、カップやらコップやらを選んでみるだけでも、けっこう心豊かな気分転換になるような気がしてきました。


──茶は、人にどんな影響を与えますか?

天心 象牙色の磁器に注がれた琥珀色の液体の中に人は「孔子の心よき沈黙」「老子の奇警(奇抜な発想)」「釈迦牟尼の天上の香」にさえ触れることができる。そして、自分の「ちいささ」を感ずることができれば、他人の中にあるささやかなものの偉大さにも気がつくことができるのだ。

〜ウィッチンケア第12号〈妄想インタビュー 岡倉天心との対話──「茶の湯」という聖なる儀式について〉(P216〜P219)より引用〜

ナカムラクニオさん小誌バックナンバー掲載作品:〈断片小説 La littérature fragmentaire〉(第7号/大六野礼子さんとの共作)/〈断片小説〉(第8号&note版ウィッチンケア文庫》)/〈断片小説〉(第9号))/〈断片小説 未来の本屋さん〉(第10号)/妄想インタビュー フロイト「夢と愛の効能」〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介37 久保憲司さん

この小説の主人公・クボケンって何者? なんでアンディ・ウォーホルやデヴィッド・ボウイとタメ口で話してるの!? なんでニューヨークの伝説のディスコ「スタジオ54」にいるの!?!? 読んだかたは誰でもそう思うでしょうね、久保憲司さんの今号への寄稿作「マスク」。つい先日、アンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー肖像画『ショト・セージ・ブルー・マリリン(Shot Sage Blue Marilyn)』が約250億円で落札されてニュースになりましたが、このクボケンなる人物、作中ではウォーホルさんのことを“アホちゃうと思っていた”、デヴィッドさんに対しては“俺はファンと思われたくなかったから、ゆっくりと近づいていって、「あんたボウイか」と訊いたら、ボウイは「はい」と言った。俺はボウイと一緒にノーコメンツを観た”ですと。こんな話し方...先日FMを聞いていたら藤原ヒロシが「それでエリックが〜」みたいなこと語っていたのでどこのエリックやねんと思いながら続けて聞いてたらどうやらクラプトンのエリックのことでびっくりしましたが、まあ、それに近い感覚。こんな話をさらっと書ける人は、めったにいるものではありません!


 作中のクボケンさんの現在の悩みは、YouTuberになったものの登録者/再生回数が思うように伸びないこと。自らディラン・トマスの好きな詩を和訳して朗読しても、100回前後しか聞いてもらえない、と。それでクボケンさんは“俺の小説に何回も登場する川崎さん”に電話をして相談するんですが、川崎さんはつれなく“「誰がおまえの詩の朗読なんか、聴くかよ」”と。これで火が点いちゃったクボケンさん、以後は日ごろの鬱憤を爆発させて喋り倒します。特別定額給付金のこと、日銀の金融政策について、さらに“アベノミクスは失敗ちゃうわ、足らんかっただけじゃ、もっともっとみんなの給料が増えるまで、お金を刷り続けるべきと言うべきやったんや”等々、etc.、等々。

“アンディ・ウォーホルは「人は誰でもその生涯で15分だけは有名になれる」と言ってたんや”...感情の乱高下を経てある啓示を受け、クボケンさんは決心します。どんな決心かはぜひ小誌を手に取ってお確かめください。しかし、ホントに人間は気の持ちようかもしれませんね。あと、本作には飯島愛も登場するんですが、ここで開陳されているエピソードの真偽のほどは...今度筆者にお目にかかったら、聞いてみようと思います〜。


 誰とも喋ってないから、ちょっと喋るとすごい喋りたくなるのだなと思った。レストランに行ってもこんな話を喋ってたら、気が狂ったおっさんと思われる。昔は俺の気の狂った話もみんな聴いてくれていた。でも今は「黙食でお願いします」と言われる。ワクチンを二回も打ったのに、静かに食事をしないといけない。こんな世の中だから、俺は動画を始めたのに、誰も俺の話を聴いてくれない、見てくれない、アンディ・ウォーホルは誰もが15分で有名になれると言ったけど、俺は有名になれない、いやいやさっき書いたやん、アンディ・ウォーホルは「人は誰でもその生涯で15分だけは有名になれる」と言ってたんや、あかん、あかん、あかん、あかん、だからあの電車で突然火をつけたりするような奴が生まれたりするんや。あかんぞ、あかんぞ、俺は有名になりたいからとそんな悪いことはしないぞ、いいことだけするぞ、重そうに荷物を運んでいるおばあちゃんの荷物を持ってあげたり。

〜ウィッチンケア第12号〈マスク〉(P208〜P214)より引用〜

久保憲司さん小誌バックナンバー掲載作品:僕と川崎さん(第3号)/川崎さんとカムジャタン(第4号)/デモごっこ(第5号&《note版ウィッチンケア文庫》)/スキゾマニア〉(第6号)/80 Eighties(第7号)いいね。(第8号)/〈耳鳴り〉(第9号)/〈平成は戦争がなかった〉(第10号)/電報〉(第11号)


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2022/05/15

VOL.12寄稿者&作品紹介36 我妻俊樹さん

 今年3月に竹書房から発売された『怪談四十九夜 病蛍』で「親子」などの作品を発表している我妻俊樹さん。小誌では創刊以来、私(←発行人)とともにコンプリート寄稿を続けていまして、これは以前にも書いたんだけれども新たな寄稿者や読者様も増えましたのでもう一度繰り返しますが、いまや書店(古書店含む)では幻のような存在になった「ウィッチンケア第1号」──今春某書店から「ほぼ新品」状態のものを数冊サルベージしたので月が改まったらWitchenkare Storeに出品しようかな──には我妻さんの第39回新潮新人賞最終候補作「雨傘は雨の生徒」が掲載されていまして...小誌創刊の動機には「この作品を紙で刷って世の中に出そう」も含まれていました。でっ、最近ひたひたと感じるんですが、我妻さんの作品が読みたくて小誌を買ってくださるかた、けっこういるなぁ、と。私(←多田洋一)の書いたものを読みたくて小誌を買う、という人にはいまだかつて一度たりとも遭遇したことありませんが(泣)、つい最近ではロマン優光さんがTwitterで“我妻さん読むのに読んだことある”とつぶやいてくださっていたし、昨年秋の営業旅のさいにも東京都某市の書店で「あっ、我妻さんが書いてる本ですね!」と。


さて、我妻さんの小誌今号への寄稿作は「雲の動物園」。なんか、可愛らしい響きのタイトルだし、冒頭書き出しも「わかりやすくいうと、雲の動物園にはわたししか行ったことがない。そこにいる動物をわたししか見た人がいない、という意味ではないよ。」とわかりやすく滑り出していて、これはとっつきやすい。ちなみに、前号寄稿作「猿に見込まれて」の冒頭書き出しは「まさかと思って部屋の窓を覗くと、ソファに座っている父親の肩の上に猿が座っている。ああ、そういうことかと一瞬でわかったような気になり、この場合父親がソファに腰かけていると同時に、父親が猿のソファなんだな、と声に出して云ってみると、自分の声が家の外壁に書いてある文字のように耳に聞こえてきた。」です。……どう?

一度うまく入り込めたなら、あとは安心して読み進めましょう。おそらくほどなく「あれっ?」という箇所に引っ掛かるとは思いますが、そういうときはおのれの「あれっ?」を上手になだめて、とにかく落ち着いて先へ、先へ。「わたし」とともに四つん這いになって「トンネルのむこう」を目指しましょう。そこには動物たちが待っています。「黒くて左右不揃いな耳を持ち、背中が麦畑のように渦巻いている」やつとか、あと、アラカルナ・ヴトロンジーナ! こやつが何者なのかを知らずして「ウィッチンケア第12号を読みました」と言うなかれ、かな。


困ったな、という顔で立ち尽くしていたら、すごくあわてた感じの走り方で女の人が視界に飛び込んできた。作業着姿のその人は、ぺこぺこしながらわたしの肩からプロっぽい手つきで生き物の手をはずし、新しいお客さんなんて初めてのことで! と云った。初めてのことでびっくりしちゃって、助けに来るの遅れちゃいました! おねえさんの前髪が息でぱたぱたして、それが気になってわたしは「はあ」みたいな返事しかできなくて、おねえさんはわたしが怒っていると思ったようだ。もちろんわたしはおねえさんに感謝してたし、訊きたいことはいろいろあるし、トイレにも行きたかった。

〜ウィッチンケア第12号〈雲の動物園〉(P202〜P207)より引用〜

我妻俊樹さん小誌バックナンバー掲載作品:〈雨傘は雨の生徒〉(第1号)/〈腐葉土の底〉(第2号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈たたずんだり〉(第3号)/〈裸足の愛〉(第4号)/〈インテリ絶体絶命〉(第5号)/〈イルミネ〉(第6号)/〈宇宙人は存在する〉(第7号)/〈お尻の隠れる音楽〉(第8号)/〈光が歩くと思ったんだもの〉(第9号)/〈みんなの話に出てくる姉妹〉(第10号)/〈猿に見込まれて〉(第11号)

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2022/05/14

VOL.12寄稿者&作品紹介35 東間嶺さん

 東間嶺さんの小誌今号への寄稿作は、これは、戯曲に分類されるのかな? 今号では東間さんからデザイナー・太田明日香さんをご紹介いただきまして、その太田さんとも相談して、3段組のレイアウトでの掲載。発行人としては作品の緊張感がうまく読者に伝わること、願うばかりです。...でっ、私はネット動画ってほぼ座談会形式のアーカイヴ系のものしか見なくて、というのもいまは「ライヴに拘束される」ことが〈テレビ世代的な後遺症〉でキツくてキツくて。でも本作はライヴだからこそエスカレートするさまを戯曲として作品化しているんですよね。そうか〜、いまはこんなことが起こりうるんだ、と陰々滅々。これも美馬亜貴子さんが作品で取り上げていた“推し”の、なんらかの変異種の果てなんでしょうか? すいません、よくわからない。とにもかくにも、今号ではふくだりょうこさん、長谷川町蔵さん、柴那典さんの寄稿作も合わせ読んで、来たるべき(もう一部はすでに来てる)メタバース時代の様相が朧気ながら呑み込めてきて、老人(←私/発行人)には良い勉強になってます。とりあえず喫緊の問題は「生身の身体どうする?」ってことで、いいのかしら? これも医学分野の進歩でどうにかなっていきそうな話も聞いたような気がするけれども、正直、わからん。


作中の「カナ」と「男」の食い違い。私はこの設定ではカナを強者と捉えて読みました。↑でライヴ動画は見ないと書きましたが、このような力関係はTwitterでのバトルみたいなものでも観戦した記憶があって(吉本芸人某が活字畑の評論家をコテンパンにやっつけてた)、結局椅子取りゲームなんじゃないの、みたいな感想。YouTubeでもなんでもいいけれど、プラットフォームを「ホーム」にできた側が強者で、お客さんは(本人は対等に渡り合おうとしていても)雑魚。なんか、「ウンコもしないアイドル」と「ファン」が暗黙の了解を共有して楽しんでいた時代のほうが“安全”だった気もするんですけれども...あっ、作者は「そういう時代じゃないこと」を書こうとしているんですね。

作品内の「喋り言葉」。仮名が多用されていて、これは音をなるべく正確にテキスト化するとこうなるのでしょう。でも読んでいて、たとえば私が座談会形式ではないのについつい見ちゃう酒村ゆっけ、とか、やはりついつい(コノヤロウと思いながら)見ちゃうひろゆきの切り抜きとかの語感とは、違うもののように感じられました。縦書きの印刷されたテキストだから!? ネット上の横書きで流れたり点滅したりさせる(テレビの最新のテロップのように)と、より近づく? このへんは作者である東間さんに、オフラインで聞いてみたいと思いました(Zoomでやろうぜ、老人w)。



カナ 
 ああいう勘違いしたガチ恋のやつらの認知というか、世界観? が根本的におかしいのはさ、さっきの犯人にしても「他の男のものになるなら殺す」っていう行動の、「なら殺す」ってところが勿論もっともおかしいわけだけどさ、でもそれ以前に「ものになるなら」って、なんなんだよ? ってのがあるじゃん。「ものになるなら」って、なんなんだよテメー、「もの」って。あのライバーに犯人以外のほんとの彼氏がいたのかどうか知らんし、まあ、いたんだろうけど、多分、興味ないけど、でも、いようがいまいがあの子は誰かの所有物じゃない、つまり「もの」じゃないし、おんなじようにわたしも彼氏がいようがいまいが誰かに所有されてる「もの」じゃないわけ。

〜ウィッチンケア第12号〈「わたしのわたしのわたしの、あなた」〉(P196〜P200)より引用〜


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VOL.12寄稿者&作品紹介34 荻原魚雷さん

 SNSとは縁のなさそうな生活を送っている荻原魚雷さんですが、それでも新しい掲載号が出るたびに公式ブログ「文壇高円寺」になにか書いてくださっていて、今号では「化物」と題した4月3日の一文を拝読しました。今回の寄稿作「将棋とわたし」について“「創作」と「実話」の部分が半々の構成”とタネ明かしをしたうえでの、「実話」と「創作」に関する考察が非常におもしろいので、ぜひアクセスしてみてください。なるほどなぁ...テレビなんかで「この人いつも同じことばかり言ってる」と感じながらもそれがおもしろくてつい見ちゃう人ってときどきいるんですが、荻原さんの言葉を拝借すると「あくが抜ける」ということもあるのか! そうするとそこで語られていることは鰘とくさやのように(こっちはあくも臭みも増すけどw)別物になる、と。逆に考えると「実話」というあくが抜けていない「創作のふりしたもの」ってのもありそうで、両者の境界線は、じつは曖昧なのだと気づきました。あっ、それから今回の荻原さんの作品を意外なかたが読んでいたこと、ここで紹介したいです。〈車谷長吉「忌中」は葉書で交互に一手、送りながら将棋を指す男が主人公の物語だが、荻原魚雷は20代の頃、バイトで羽生vs森内の対局の会場から大盤解説の会場にFAXで一手一手送る。それを機に将棋を再開し、ニンテンドー64と「最強羽生将棋」を買い…「将棋とわたし」(witchenkare vol.12)がいい〉と書いてくださったのは、urbanseaさん。じつは今号、「えっ、読んでくださってたんですか!」なこと、少なくないんです。


将棋...私は非常に弱いです。駒の動かしかたを知ってるだけ、としか言えないくらい弱い。相手の王将をとろうと思ってぐんぐん前に出るとすぐに防戦一方になってコロッとやられちゃうので、悔しいので今世紀になって一度もやってないと思う。麻雀のほうがもうちょっと勝負になるけれども、こちらも「自分の上がりたい役」めがけてズンズン切っていくだけなので、東南のどこかで致命的な振り込みをして勝てない。荻原さん、作中でアマチュア四級と仰っていますが、少なくともそれがどのくらいのレベルなのかくらいわからないと私、藤井聡太さんのニュースは永遠に「なにを食べた」しかわからんよな〜、恥。

作品の後半では羽生善治さんのすごさについて触れていますが、それがご自身の生活に反映されていく展開が...おっと、これ以上はぜひ小誌を手に取ってお確かめください! って、この紹介文をFacebookやインスタグラムやnoteにアップしても、荻原さんファンの目に触れるものなのかはなはだ不確定ですが、みなさま、どうぞ何卒よろしくお願い申し上げます。



 バイト先の新聞社は将棋のタイトル戦を主催していて、ひまそうなわたしは大盤解説会の会場(たしか三ヶ所)に棋譜をFAXで送る係を任命された(夜七時以降)。対局が終わるまでは帰れないが、どちらかが一手指すまで何もすることがない。バイト代は一対局(二日制)あたり八千円だったか。
 このときの対局は羽生善治さんと森内俊之さん、二人が二十五歳のときの名人戦である。一九九五年から九六年にかけて、羽生さんは史上初の七冠をかけて戦っていた。いわゆる〝羽生フィーバー〟のころである。棋譜をFAXで送るだけの仕事とはいえ、そんな時期の棋界の雰囲気を味わうことができたのは幸運だった。

〜ウィッチンケア第12号〈将棋とわたし〉(P192〜P195)より引用〜

荻原魚雷さん小誌バックナンバー掲載作品:〈わたしがアナキストだったころ〉(第8号)/〈終の住処の話〉(第9号)/〈上京三十年〉(第10号)/〈古書半生記〉((第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介33 かとうちあきさん

かとうちあきさんの今号への寄稿作を、私(←発行人)は「苦い恋愛小説だなぁ」と思いながら読みました。天性のストーリー・テラーであるかとうさんの描く物語は、これまでつねに主人公の「わたし」が引っ張っていく感じだった記憶が。いろいろ問題を抱えている「わたし」なんですが、でも結局は「わたし」が主役として強くて他の登場人物は翻弄される、みたいな。ところが今回の「鼻セレブ」では主人公のアッコさん、非常に不安定な立場に置かれていて、それが苦みを醸し出していると感じました。好意を持って接しているユリカさんが「自分にはわからないもの」を抱えていて、その「わからないもの」を問うてみることもできないまま受け止めることで関係が成り立ってきたから、ユリカさんが自分抜きである決断をしたとしても、その決断をそのまま受け止めることしかできない。読み手としても、作者の提示したその状況設定をそのまま受け止めることしかできず、さらにこの作品には「LGBTQ」「ポリアモリー」という要素も明確に含まれていまして、さらにさらにもうひとつ言えば、いわゆる「アベノマスク」絡みの一連の政治に対する強いNOも示されていて、語り口はマイルドですが、かなり「辛い」に近い苦さ。


 というわけで、なかなか一筋縄ではいかない2人の交際模様が描かれているのですが、印象的なシーン、数多し。2人とも酒が好きで、酔っ払うと楽しそうに世の中に毒づく感じとか、恋愛と友情と同志感がごちゃ混ぜになっているようでおもしろいのです。“「そもそも『ファミリーマート』って名前からして家族主義が過ぎるから、滅びるべき」”と言ったユリカさんに同意して、その後ファミマ滅亡計画を話していたら酒が足りなくなって、買いにいった先はファミマ。...おいおい、って感じですが、それはそれでリアルっぽい情景。

終盤近くに書かれた“「もっと」への飛躍は、どの時点でもたらされたのだろう”という一文が重いです。このお話、たとえばユリカさん目線で書かれていたら、かとうさんのこれまでの作品テイストに、もしかしたらすごく近かったりして。...とすると、かとうさんはなぜに今回、こんなにもやもやの残る一篇を書こうとしたのか気になるわけですけれども、まあそれを問うてもかとうさん、「あはは」という感じで教えてはくれないと思いま〜す。それでも、今作はちょっと「かとうさんの中のどこかが着火してる」感が漂ってきて刺激的でした。




 デルカップの空き瓶に注いだビールをちびちび呑みながら、ユリカさんは熱心に色んな話をする。わたしは常になにかしら試みているユリカさんの話を聞くのがおおむね好きだったし、生きやすくなるための試行錯誤や、取り組みへの真面目さを、自分にないものとして眩しく思っていた。ユリカさんは酔っぱらうとどんどん陽気になって、毎回わたしのほうが先に潰れてしまう。だいたい一緒のベッドに眠って、何度かキスをしたりした。

 年末、「やっぱり一度、話しましょう」と連絡があって久しぶりに会ったユリカさんは、わたしの派手な色のコートを見て、
「真面目に話をする格好とは思えない」って怒った。
 公園のベンチに座ると、
「傷ついた」と言う。

〜ウィッチンケア第12号〈鼻セレブ〉(P186〜P191)より引用〜

かとうちあきさん小誌バックナンバー掲載作品:〈台所まわりのこと〉(第3号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈コンロ〉(第4号)/〈カエル爆弾〉(第5号)/〈のようなものの実践所「お店のようなもの」〉(第6号)/〈似合うとか似合わないとかじゃないんです、わたしが帽子をかぶるのは〉(第7号)/〈間男ですから〉(第8号)/〈ばかなんじゃないか〉(第9号)/〈わたしのほうが好きだった〉(第10号)/チキンレース問題〉((第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介32 中野純さん

先月末に新刊『闇で味わう日本文学 失われた闇と月を求めて』を上梓したばかりの中野純さん。おそらく同書の最終校正と小誌の〆切が重なってたいへんなことだったでしょうが、きっちりと書き下ろしの一篇を届けてくれまして大感謝です。中野さん、今月は出版記念イベントがいくつもあり、そのなかのひとつ《Twitterスペース「南陀楼綾繁の今週の新着本」》でのトークでは、自著の紹介だけでなく、なんとウィッチンケア第12号についても言及してくださったらしく──らしくというのは私その日は先約があり外出していて前週分もアーカイヴがネット上にあったので戻って落ち着いて聞こうと思ってたらなんと録音しなかった回だと! ──伝聞では死ぬほど褒めてくれたみたいで、聞きたかったなぁ。でもほとんど褒められたことのない人生なので、聞いてたらたぶん死んだ。さて、そんな中野さんの今号への寄稿作は「完全に事切れる前にアリに群がられるのはイヤ」。寄稿者の皆様におかれましては長いタイトルを好むかたと短いタイトルを好むかたに別れる傾向がありますが、今号での中野さん、長いほうの第4位。そして内容はというと、まず冒頭13行の疾走感が尋常ではなく、もし同作を先日亡くなったあのかたに読ませたら間違いなく「つかみはOK!」と言いそう。要は「私はセミが好きです」ということなのですが、どのくらい好きかを伝えるためにあんな「セミ」こんな「セミ」まで引き合いに出して...ネタバレは惜しいので、ぜひ小誌にてご確認ください!


 前半のセミ狩りの話。とても納得しました。確かにカブトムシやクワガタは捕まえると誇らしいんですが、彼奴等はこちらが見つけたらほぼ勝ち、ですもんね。遊びとしては「かくれんぼ」で、音無しの構えでじっとしているのを「見ーつけた」で、ジ・エンド。しかしセミは見つけてからが戦い。空中戦ありの「鬼ごっこ」...捕まえ損ねてオシッコかけられたときの悔しさは「缶蹴り」で缶蹴られたとき級の「バーカバカ!」屈辱感。あっ、私、超高難易度のセミ狩りに挑戦したことありましたよ。虫取り網の、攩のところがないのを用意して、まず蜘蛛の巣を探す。でっ、蜘蛛の巣をうまく攩のところに貼り付ける。これをいくつか重ねて、見つけたセミに被せると...たいがい巣が破れて逃げられるんですが、何匹かは捕れた。しかし、そんなことに夢中になってられたころが懐かしい。

博学な中野さんらしく、セミ話は多方面へと広がっていきます。食べる話は、オレは無理。もしセミが海のなかを泳いでいたら、食べられるかも(以前どこかでエビやカニが森にいたら食べるか? みたいな話を聞いて、たしかに海にいるから食べるんだなと思った)。そして、蝉の鳴き声を五月蠅いと感じるかどうかの話は、とても興味深かったです。先日北関東をクルマで夜に走っていて、田んぼ沿いで降りたら蛙の五月蠅いこと! 日本の田舎は閑静ではなく、私たちはいろんな音を風流に聞き取っているんだと思いました。


 かつて日本を訪れた欧米人は、日本人が雨戸をガタガタ閉てる音や、干した布団をパンパン叩く音に驚いた。大森貝塚の発見で知られるモースは、美しい所作で静かに襖を開け閉めする日本人が、朝、雨戸をガタガタと大騒音を立てながら戸袋にしまうそのギャップに驚愕した。繊細な感性を持つ日本人が、音に対して突然とんでもなく無頓着になる。せんべいをバリバリ食べる音やそばをズルズル啜る音もそうで、いったん頓着なくなると、まったく気にしない。
 そばをズルズル啜る音に関しては、頓着ないどころか逆に「大きな音を出して食べてこそ美味い」と積極的に肯定する(最近はそうでもなくなってきたが)。せんべいをバリバリ食べる音もそんな感じだし、雨戸の音も布団を叩く音も、風趣があると肯定してもあまり違和感がない。それどころか、候補者の名を連呼しまくる選挙カーに対しても、うるさいと感じる人は少なくないものの、かなり寛容だと思う。
 こんなふうに日本人が騒音に無頓着なのは、結構、蝉時雨や秋の虫の大合唱を愛でる感性によるのではないかと思う。日本人の耳はセミに鍛えられている。それは日本の自然が豊かな証拠だ。

〜ウィッチンケア第12号〈完全に事切れる前にアリに群がられるのはイヤ〉(P180〜P184)より引用〜

中野純さん小誌バックナンバー掲載作品:〈十五年前のつぶやき〉(第2号)/〈美しく暗い未来のために〉(第3号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈天の蛇腹(部分)〉(第4号)/〈自宅ミュージアムのすゝめ〉(第5号)/〈つぶやかなかったこと〉(第6号)/〈金の骨とナイトスキップ〉(第7号)/〈すぐそこにある遠い世界、ハテ句入門〉(第8号)/〈全力闇─闇スポーツの世界〉(第9号)/〈夢で落ちましょう〉(第10号)東男は斜めに生きる〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介31 藤森陽子さん

藤森陽子さんの今号寄稿作に登場するふたつの甘味屋さん。巣鴨のお店はご縁がなかったのですが、最初に登場する銀座の「おかめ」。こちらはご縁ありまくりでした。私(←発行人)は社会人人生の最初の3年だけは勤め人でして、そのうちの2年強が銀座1丁目のオフィス。「おかめ」は、自分ひとりで入ったことはなかったですが、女性との打ち合わせではよくいきました。もちろん平日の日中なんで仕事の打ち合わせ(あるいは打ち合わせ後のちょいサボり)で。...なんというか、仕事相手ではあるのだが「ちょっと、一緒にいると楽しいな」くらいには思ってて、でもいずれ仕事抜きで会ったりもするのかというとそれはないだろー、くらいの距離の人と、あけすけに言いますと「仕事にかこつけて経費で落とす」みたいな(おもに20世紀末)。でっ、藤森さんとも長いお付き合いなので、もしかすると1回ぐらいはご一緒してませんかね(多人数でとかも含めて)? それはともかく、藤森さんは映画関係の仕事を多くこなしていた時代、試写会の後に遅いお昼を食べる場所がなくて、よく「おかめ」のおはぎを2個食べていたと。スタバ上陸以前の銀座の話、とあるので「〜1996年」か。たしかに、華原の朋ちゃんが「つゆだく」を流行らせた(というか、「えっ、若い女が吉野家食うのか」という驚きがあった)のが1990年代終わりあたりで(皮肉なことについ最近も「生娘を」...以下略)、あのころのそんな時間帯、男なら立ち食い蕎麦とかいけそうだったけれど、女性はたいへんだったかも。


 平日午後3時ごろの、「おかめ」店内の描写が、これはなかなか男は気づかないなという感じで素敵です。“ほうじ茶を啜りながら周りを見渡すと、「三越」や「松屋銀座」「和光」の紙袋を横の席に置いたご婦人たちがあんみつや茶めしおでんを楽しんでいる。きっとデパートで用事を済ました後に、家で晩ごはんの支度をするまでのひと時を過ごしでいるのだろう。”...たしかに、そういうマダムがいましたな。1985年の男女雇用機会均等法成立以前に一流企業に就職してすぐに家庭を持ったっぽい、キラキラ系のママさんたち。紅茶やビールに「お」を付けるのが似合いそうな。お紅茶、おビール。。。

本作の終盤、藤森さんは当時の自分を振り返って“男の役割、女の役割という、今でいう〝らしさの呪縛〟に支配され、やがて共依存に陥っていく男女間の負のループを見かけるにつけ、息苦しくて仕方がなかった”と書いています。小誌前号は原稿〆切時期がちょうど森喜朗さんの例の発言と重なっちゃって誌面もエラいことでしたが、平成前期なんて、そういう〝世間〟からのプレッシャー、半端なかったよなぁ。ええと、現在の藤森さんがどんなお考えなのかは、ぜひ小誌を手にしてお確かめください!



 そうか、一人で食事がしづらい世代のお母さん方にとって、デパートの大食堂と甘味処は誰に気兼ねすることなく一人の時間を過ごせる聖域なのだ。確か向田邦子だったか、嫁と姑でデパートへお遣いに行き、帰りに遠慮がちにこっそり外食をする。そんな一篇があったなぁ……などと考えているうちにふいに泣きそうになる。
 そうして思ったのだ。自分があのお母さんたちの世代になる頃には、気兼ねなんかせず一人で飲み食いできる世の中になっていますように。そして自分も、いつかの旅で見かけた、シャンゼリゼ通りのカフェで悠然とオムレツを食べていたパリのマダムのように、カッコよく一人で食事ができる大人になれますように、と。

〜ウィッチンケア第12号〈おはぎとあんことジェンダーフリー〉(P176〜P179)より引用〜

藤森陽子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈茶道楽の日々〉(第Ⅰ号)/〈接客芸が見たいんです。〉(第2号)/〈4つあったら。〉(第3号)/〈観察者は何を思う〉(第4号)/〈欲望という名のあれやこれや〉(第5号)/〈バクが夢みた。〉(第6号)/〈小僧さんに会いに〉(第7号)/〈フランネルの滴り〉(第9号)/〈らせんの彼方へ〉(第10号)上書きセンチメンタル〉(第11号)


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2022/05/13

VOL.12寄稿者&作品紹介30 吉田亮人さん

吉田亮人さんとはこれまで、寄稿依頼の後に「今度はどんな方向性で書きましょうか」みたいな事前擦り合わせをすることが多く、そこでいくつかの案をやりとりしたりしてきたのですが、今号への寄稿作については、この方向でというのが一発で決まりました。表題からもおわかりのように、写真家としての話というより、物書き・吉田亮人さんとしての意思表明。やはり昨年2月に「しゃにむに写真家」を上梓したことが大きいのではないかと推察します。本作では同書が完成するまでの長いプロセスが率直に語られていて、物書きっていうのはときに真っ赤なウソを平然とものしたりするものですが、吉田さんに限ってはそんな方向に進む気配も感じられず、なんだかほっとしてしまいました。被写体と真摯に対峙して撮影するのと同じように、自身の心に写った思いを、文字に変換していく。“「撮りたい」という気持ちと同じく、「書きたい」という気持ちが自分の中に備わったことだ”という一文から、吉田さんの「書くこと」への決意のほどが窺えました。 


作中では亜紀書房・斉藤さんとのことが多く語られています。そして不肖私のことにも触れてくださり、恐縮です。“「始まりの旅」と題して、2014年ウィッチンケア第5号に掲載してもらった。”...この年には2020年東京オリンピックの公式エンブレムが使用中止になったり、ISによって日本人人質が殺害されたり、ずいぶん長い時間が経ったなと、あらためて振り返ると感慨深いです。あっ、同作はいまでもnote版ウィッチンケア文庫の1作としてネット上で読めますので、みなさまぜひアクセスしてみてください!

「書くこと」だけではなく、やはり「撮ること」についても、吉田さんらしいお考えが記されています。“漫然と撮るだけではそこに写るのはただの像であって、写真がそれ以上の意味を持つことはない。やはり、撮るんだという強い気持ちを内在させて被写体に向き合った時に初めて、写真は意味と言葉と時間を獲得し語り始める”...「意味」「言葉」「時間」を「像」に獲得させるためには「強い気持ち」が必要、なんて、たとえば写真の専門学校とかで教えてくれるのかな? 私にはこのような(言葉による)表現、吉田さんならではのものだと感じられました。



 しかし相変わらず僕の本を「書く」歩みはのろまで、遅々として進まず、結局書き下ろすまでに7年もの時間を要することになる。
 その間に斉藤さんは晶文社から亜紀書房に移ったため、「就職しないで生きるには21」シリーズで書く機会は失われてしまったが、僕の本の企画はそのまま亜紀書房で生き続け、同社のWEBマガジン「あき地」での連載を経てようやく刊行されることとなったのだ。
 ここまで随分長く待たせてしまった斉藤さんには申し訳なかったけれど、自分の内側から湧き起こってくる「書くんだ」という気持ちがなければ何を書いてもきっと読者に伝わらないだろうし、本の執筆という長期戦も戦い抜けない。だからその気持ちを持ち合わせるために僕にはこれだけの時間が必要だったのだ。

〜ウィッチンケア第12号〈撮ることも書くことも〉(P172〜P175)より引用〜

吉田亮人さん小誌バックナンバー掲載作品:〈始まりの旅〉(第5号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈写真で食っていくということ〉(第6号)/〈写真家の存在〉(第7号)/〈写真集を作ること〉(第8号)/〈荒木さんのこと〉(第9号)/〈カメラと眼〉(第10号)/対象〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介29 久山めぐみさん

久山めぐみさんの小誌今号への寄稿作「壁の傍」では、佐藤寿保監督の映画『αとβのフーガ』(公開題『変態病棟 SM診療室』、1989年)における、《壁》の意味や役割を考察。本作について、久山さんはSNSで「好きな映画のことを、楽しく、一筆書きのようにして書きました」とコメントしています。前号への寄稿作「立てた両膝のあいだに……一九八〇年代ロマンポルノの愉しみ」は、映画作品内においてのジェンダー、フェミニズム的な論考も含まれていましたが、今作は「好きな映画」に一点集中しての作品論。これは私も該当作を、とネットで調べてみるといくつかの動画サイトで正規に視聴可能でした。ただ、問題は、私(←発行人)が、「痛いの」苦手、なこと。とくに「切る」系の痛そうなのは、むかしガマの油売りの実演を縁日で見てて刀で腕を斬るところで貧血起こしたり、あと『パピヨン』という映画で死体の首が切れていたのを観てて館内の椅子席で貧血起こしたりと...それでも粘り強く各サイトをまわっていたら2分間だけお試し視聴できたところがあって、それでも充分痛そうでしたが雰囲気は伝わりました。また静止画像もアップされていて、壁も久山さんが「白いコンクリートブロックの経年劣化による黒ずみやざらついた質感」だなぁ、と。


調べていく過程でおもしろかったのは「ピンクサイドを歩け」というサイトの主宰者・hideさんのご意見。「佐藤寿保のメタリックで冷徹な映像感覚と夢野史郎の妄執的なドラマツルギーが、限界まで暴走したようなアンダーグラウンドでアヴァンギャルドなピンク映画の極北」「もはや、これをピンク映画と言ってしまっていいのかとさえ思い半ば呆れてしまった」「本作は、SM嗜好の強い人やバイオレンス映画好きの方くらいにしか性的高揚をもたらさない実に佐藤寿保した実験作」と。その後、久山さんの寄稿作をあらためて読み、本作の結論となる《壁》の意味が、おぼろげながらも理解できたのでした。

『αとβのフーガ』を離れた、ロケーション主体の低予算映画に登場する壁についての考察もおもしろかったです。「それはどこにでもあるものである。なんの変哲もないものである」「スタジオシステムの映画ではさまざまな色をし、的確な装飾を配置させつつもどこか抽象的であったそれとは正反対の空間性を伝えている」と。最近は映画を2倍速で観る人が増えているようですが、映像作品って情報量が多いんですよね。久山さんのように丁寧に鑑賞して、そこから独自の思索を組み立てるかたが小誌へご寄稿くださること、頼もしく嬉しいです。



 注目すべきは、ここでSMシーンが二つ連続している点である。女はこのとき責められながら、白昼夢をみる。その幻想のなかで、女はメスを握った手術着姿の男に責められている。しばらくこの幻想的なSMシーンが続いたのち、最初の責めの場に戻る。つまり最初の責めと、責められている最中に女がみる白昼夢としての責めが入れ子構造になっているのである。
 女性の性的妄想を扱う映画で、女性が責められるさまを白昼夢としてみる描写はみかける。しかしこのように、責めの夢から醒めて戻る場もまた責めである、というのは珍しい。最初の責めはマゾヒストの女にとって十全な欲望充足とはなりえず、責めが責めの夢を呼び込む。映画冒頭では視点人物だった男の欲望物語は、ここで女の欲望物語に呑み込まれ、ヘゲモニーの逆転が起きている。

〜ウィッチンケア第12号〈壁の傍〉(P168〜P171)より引用〜

久山めぐみさん小誌バックナンバー掲載作品:〈神代辰巳と小沼勝、日活ロマンポルノのふたつの物語形式〉(第9号)/〈川の町のポルノグラフィ〉(第10号)/〈立てた両膝のあいだに……一九八〇年代ロマンポルノの愉しみ〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介28 宮崎智之さん

 宮崎智之さんが晶文社のWebにて一昨年から連載していた「モヤモヤの日々」は、現在書籍化のための加筆修正が大詰め。宮崎さんのSNSによると「驚きのタイトル案が浮上」したりしつつ、「夏ごろには発売できる予定」とのこと。どんな本になって世に登場するのか、とっても楽しみです。そんな多忙のなか宮崎さんが小誌に書き下ろしてくださった作品は、前号への寄稿作「五月の二週目の日曜日の午後」とはがらりと作風の変わった密室小説。主人公の「僕」はライターというかエッセイストというか作家というか、とにかく「物書き」(編集者の中山からは「先生」と呼ばれていたりも)。作中からその人となりを探ってみると「僕は六年前から酒をやめている。アルコール依存症になり入院したからだ」「それまでは文化人や経営者のインタビュー記事を専門にするライターだったが、エッセイの依頼がくるようになり、これまで合計で四冊の本を刊行した」「知り合いが出しているインディー文芸誌に、掌編小説をいくつか書いていた」...筆者のことをご存じのかたは“あの人”のことを思い浮かべそう、っていうか、思い浮かべさせたうえで物語を進めようとしているわけで、世の中には「映画についての映画を撮る映画監督」とか「歌うことについて歌う歌手」とかもいますが、この一篇は「物を書くことについて書く物書き」の話で、筆者はその「素材」として、“あの人”を差し出しているのだろうと理解しました。


「中山なる編集者」の存在が妖しいです。妖しいというか、そもそも物語の舞台設定自体がウソかマコトかわからない感じ。どう読むかは読者に任されていますが、少なくとも私は、この密室(ホテルの一室)に「中山なる編集者」がいるのかどうかからして疑っています。中山、じつは、たとえば「僕」の蝸牛あたりにいたりして。いや、作中の中山はマスクをしていたり、アルコール液で手を消毒したりもするし、身なりだって「紺のジャケットに黒光りするローファーを履いた中山」と細かく描かれてはいるんですけれども。

「オーバー・ビューティフル」というタイトルも謎めいています。ヒントになりそうなのが「ひつしち」「らろれら」という小道具。このへんのネーミングは宮崎さんの詩人的素養や独特な語感への繊細さから生み出されているようにも思えて...そういえば宮崎さんのコラムに「ラーミアンでバーメン」(の語感)をおもしろがる、って話があったな。「ひつしち」と「らろれら」...それがなんなのかは、ここでは伏せます。どうぞ小誌を手にして宮崎さんの最新作を読み解いてみてください!



「打ち合わせでもお話しましたが、私は先生の文章の大ファンなんです」。中山は大袈裟な口調で話す。中山と話していると、どうも上手く乗せられてしまうというか、本当に「先生」のような気がしてきて、この身の丈に合わない依頼を受けてしまったのであった。「細かい生活の描写が鮮やかで、すでにそこにあったのに、意識にのぼらなかった事柄たちが立ち上がってくるような感じがします」
 この男はいくつ褒め言葉を用意しているのだろうかと、僕は感心した。打ち合わせでも散々、おべっかを使われたが、今の褒め言葉は初めてである。なんだか余計に居た堪れなくなってきてしまった。缶詰するなんて、とんだ勘違い野郎のすることだと思えてきた。それでも中山は力説をやめなかった。「先生のその言葉で、随筆ではなくフィクションを書いてもらいたいんです。過去の作品はすべて素晴らしかったです。まるで情景がつぶさに浮かんでくるようでした。さすがはエッセイの名手と言われる先生の文章だと感激しました」

〜ウィッチンケア第12号〈オーバー・ビューティフル〉(P160〜P167)より引用〜

宮崎智之さん小誌バックナンバー掲載作品:〈極私的「35歳問題」〉(第9号 & 《note版ウィッチンケア文庫》)/〈CONTINUE〉(第10号)/五月の二週目の日曜日の午後〉(第11号)

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2022/05/12

VOL.12寄稿者&作品紹介27 山本莉会さん

 山本莉会さんとは宮崎智之さんのご紹介で知り合い、今号への寄稿をお願いしました。ライターとして数多くの記事を手掛けてきた山本さん。2010年代のものを拝読すると、恋愛や人間関係などの分野で依頼されることが多かったようで(...それにしても、ネット時代のライターさんの記事はアクセスしやすくてちょっと羨ましい。私が雑誌やフリーペーパーに書いたものなんて、もはや誰にも読まれないものがほとんどだし)、いくつか読んでいくうちに、気がつくと山本さんワールドに引き込まれていたのです。慎ましい感じなのに、ときどき赤裸々...ご自身のTwitterに固定している「本を読む、川を見る。一人だけの暮らしですこしずつ自分を取り戻した話【大阪・北堀江】」に記された独身時代の焦燥感とか、サラリとした文章でけっこう激しいことを。あと、インタビュー系の記事だとふいに「素」が覗けるような場面もあって、スイマセン、佛教大学民俗学教授・八木透さんを取材した記事(「盆踊りが婚活パーティ 民俗学からみる日本の結婚文化」)、「えっ......。」の箇所がツボにはまって思わず笑ってしまった。でっ、そんな山本さんはかねてから創作系作品似も興味があると伺い、それではぜひ小誌を発表の場に、と話がまとまったのでありました。


届いた作品は、なんとタイムスリップもの。芥川龍之介と彼の無二の親友・小穴隆一が現世で偶然再会して東京見物するという、洒落た設定。2人がむかしの言葉(旧仮名遣い)で会話していて、新宿での伊勢丹をめぐる両者のやりとりなどは仮想リアル感(!?)が伝わってきます。小学校に忍び込んだくだりもおもしろくて、これはうまく説明できないので、引用文でじっくりお楽しみください!

物語の中盤になると、新たなタイムスリッパーが登場します(時が流れて芥川と小穴のセレブ度に差がついちゃったこと...小穴さんちょっと気の毒)。この人物、どうやら私と同年代のようで、そうか〜、筆者の世代が“オレたち”をイメージするとこんな感じに描かれるんだな、と感慨深いものが。じつは↑でボヤいた「書いたもの」って、この人の消費行動を煽るためのタイアップ広告記事だったりもするから、なかなか気恥ずかしい。物語はさらに続き...この先はぜひ小誌を手に取ってお確かめください。



 授業では、心情の変化がテーマとなっているらしく、下人の行動に賛同できるか、という質問の返答に窮している生徒がいた。物語に賛成も反対もないだろうという生徒の憮然とした気持ちが、龍之介にはよく分かった。教師は授業の終わりに「芥川が残した『ぼんやりとした不安』という言葉は、その後突入してゆく戦争の時代を憂いたものだったのです」と発言した。膝から崩れ落ちそうになった。「君は随分高尚な人間だつたのだね」と笑う小穴の隣で、自分は死してから教育的道具になつたのだなぁと思った。給食の時間が近いのか、廊下からは鰹出汁の匂いがした。

〜ウィッチンケア第12号〈ゴーバックアゲイン龍之介〉(P154〜P158)より引用〜

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VOL.12寄稿者&作品紹介26 柴那典さん

昨年11月に「平成のヒット曲」を上梓した柴那典さん。私は11月19日に開催された柴さんとスージー鈴木さんの対談イベント(at 下北沢の本屋B&B)に参加してこの本を入手しました。同書は平成元年から30年までの、その年を代表するヒット曲を解説したもの。読み方によっては「懐かしい!」と感じる人もいるんじゃないかと想像しますが、でもイベントで生の話を聞けて良かったなと思うのは、筆者の視点が常に「今」にあることが、確認できたこと。柴さんのブログ「日々の音色とことば」の2021年12月31日には、“ただ、こういう本を書いておいてなんだけど、自分のテーマとしては「ノスタルジーに絡め取られるな」ということに強く意識的であろうと思う。40代を半ば過ぎて、懐かしいものが増えてきて、それに触れたときの心地よさもわかっていて。でも、それにひたるのは怠惰だなあとも思う。やっぱり、今が一番おもしろい。”という一文があって、ああイベント時の発言と同じだなと、あらためて思ったりしました。...私なんて柴さんに+20年分「懐かしいもの」を抱えていて、「それに触れたときの心地よさ」だけで余生を送ってもオツリがくるくらいなんですが、でもそこに浸っているのって、それこそ昨今問題視されている「老害」の元凶じゃないか、とも。まっ、無理して若ぶるつもりはありませんが、でも多少無理してでも「自分のものさし」をアップデートすることぐらいはしないと、怠惰なのだろうなと。


 というわけで柴さんの今号寄稿作。やはり懐古的なものではなく、世の中の様々な事象を現在〜未来へと見通すように考察しています。作中に「わくわくディストピア」という言葉が出てきまして、この発想は個人的な未来への心構えとして、ちょっと見習いたいなとも思うのです。紹介されている、NTTドコモが報道発表した6Gの技術的なロードマップの内容とか...私は柴さんとは逆の意味で「鳥肌の立つような話」に思えなくもないんですが、でもこの手の進化が止まることはないんだろうし。

お原稿をいただいた後、なんと戦争が始まってしまいました。それも最新テクノロジーによる情報戦が進行しつつ、同時に市街地で生身の人間が対戦車ミサイルをぶっ放つとか、時計の針が20世紀半ばに戻ったような。本作の後半は飛蝗(群生相)とセロトニンの関係、さらにアメリカ海軍のLOCUST(軍事ドローンシステム)、自律型致死兵器システム(LAWS: Lethal Autonomous Weapons Systems)の話へと進むのですが、この戦争がさらにエスカレートし、人間が技術の端末として駆動させられるようになったら...まさに「人類にバチが当たった」みたいなことにならぬことを願うばかり。柴さんが今作で言及しているトピックの数々、こんな状況だからこそ必読だと思います。


 人を言葉によってコントロールしようという意志はすべからく「呪い」として機能する。『呪術廻戦』が画期的なのは、日本古来より連綿と続く呪術というモチーフを題材としつつ、オンライン化による社会の再魔術化が進行しつつある現代に則してそのイメージをアップデートしていることにある。
 神仏の力を借りずとも、藁人形や五寸釘といった古典的な呪法に頼らずとも、人は人を呪うことができるようになった。誰もが小さな災厄をもたらすことができるようになった。そのことはすでに常識となり、多くの人は注意深く、慎重に暮らすようになった。
 その一方で、相互に影響を与え合う興味や関心の波は、それ自体が電流のような力を持つようになった。意図的に不安を掻き立て、恐怖と憎悪を巻き起こすことによって利得を獲得する勢力が蠢くようになった。

〜ウィッチンケア第12号〈6G呪術飛蝗〉(P148〜P152)より引用〜

柴那典さん小誌バックナンバー掲載作品:〈不機嫌なアリと横たわるシカ〉(第9号)/〈ブギー・バックの呪い〉(第10号&《note版ウィッチンケア文庫)/ターミナル/ストリーム〉(第11号)


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VOL.12寄稿者&作品紹介25 宇野津暢子さん

 前号では「水野さんとの15分」というエモい恋愛小説をご寄稿くださった宇野津暢子さん。この2人いったいどうなるんだ!? と密かにさらなる“危険水域”な続編を期待していた発行人でしたがぁ、……諸般の事情が重なりまして、今号では私のほうから「次作、秋田しづかさんの選挙戦について記録を残してもらえませんか?」とお願いしたのでした。ええと、寄稿作を読めばおわかりのように、発行人の政治的思想信条云々とかそういうことではなく、生活に身近な一般選挙(地方の議会)がどんなものなのか、宇野津さんならきっとわかりやすく書いてくださるんじゃないかな、と思いまして。秋田さんはFacebookの「友達」で、同SNS内のいくつかのコミュニティを介して活動の様子を拝見していました。立候補表明後は拙宅の近所の神社前で立ち会い演説しているところに「頑張ってください!」とお声がけしたり(作中にも描かれていますが、ほんとうに「ややアニメ声」w)。とにかく、市政にはいろんな立場の人の声が反映されればいいと思います。


秋田さんの選挙戦の話なのですが、宇野津さんのお人柄が伝わってくるのも、この一篇の魅力。「チラシ1000枚配ろう大作戦」の箇所に“(私はこういう「みんなで」みたいなのは大の苦手なので、応援演説をしました)”との一文が挟み込まれていて、個人的には「ですよね〜」と激しく共感しました。宇野津さんはフリーランス・ライターとして仕事をしていて、「玉川つばめ通信」という個人主宰メディアの発行人。私も20代半ばからプーで小誌発行人。このタイプの人間は“「みんなで」みたいなの”、ホントに苦手というか、こそばゆいというか、そんなことに参加すると自分が崩壊しそうな気がするというか(※多田個人の感想です)。20代のころ、某社で先輩フリーランスのかたから「フリーの立場を向上させるための組合があるから参加しないか」と誘われて、そのときはその《一匹狼の集団》的発想が理解できなかった。...いまはちょっと違う考えかたができますよ、はい。でも若かりし日のオレは「それって豚の群れじゃない?」と毒づきそうなのをぐっと堪えて黙ってた、みたいな性根の痕がまだどこかに残っているかもしれず...とにかくいまだに“「みんなで」みたいなの”は苦手。

冒頭に紹介されている〝2連ポスター〟など、たしかに選挙って謎なことが多いなと思いました。選挙のプロらしき人の、選挙カーや公選ハガキに関する発言も嫌な感じで、政治なんてできれば関わりになりたくないって気持ちになってきちゃいます。だけど、だからこそ、“でも、しづかちゃんはそんな世界に入ろうとしている。いろんな人の顔を思い浮かべて、「青いねえ」と言われようと純粋な気持ちで地域の役に立ちたいと思っている”という、宇野津さんの友人を思いやる気持ちに、ぐっときてしまいました。ちなみに本日のネット炎上トピックNo.1は細田博之衆院議長の「毎月もらう歳費は100万円しかない」発言。


 それにしても、うちもしづかちゃんちも今度の2月は子どもの高校受験。よくそんなタイミングで……とも思った。
「しづかちゃん、今じゃなく4年後じゃダメなの?」
「うん。Aちゃんの自殺のこともあったしさ。風化させないためには4年後じゃ遅いんだよ」としづかちゃん。
 Aちゃんとは私たちの地域の小学校で亡くなった女の子。いじめだ、いやいじめじゃないと、多くのいじめ話と同様、今もすっきりしないままだ。しづかちゃんの荒削りな進め方は「ええ? そんなに直球で?」とハラハラしたりもするけれど、純粋で猪突猛進で実行力も共感力も持ち合わせているのは彼女の長所で、政治家向きだと私は思っている。

〜ウィッチンケア第12号〈秋田さんのドタバタ選挙戦〉(P144〜P147)より引用〜

宇野津暢子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈昭和の終わりに死んだ父と平成の終わりに取り壊された父の会社〉(第10号&《note版ウィッチンケア文庫)/水野さんとの15分〉(第11号)

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Vol.14 Coming! 20240401

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