東間嶺さんの小誌今号への寄稿作は、これは、戯曲に分類されるのかな? 今号では東間さんからデザイナー・太田明日香さんをご紹介いただきまして、その太田さんとも相談して、3段組のレイアウトでの掲載。発行人としては作品の緊張感がうまく読者に伝わること、願うばかりです。...でっ、私はネット動画ってほぼ座談会形式のアーカイヴ系のものしか見なくて、というのもいまは「ライヴに拘束される」ことが〈テレビ世代的な後遺症〉でキツくてキツくて。でも本作はライヴだからこそエスカレートするさまを戯曲として作品化しているんですよね。そうか〜、いまはこんなことが起こりうるんだ、と陰々滅々。これも美馬亜貴子さんが作品で取り上げていた“推し”の、なんらかの変異種の果てなんでしょうか? すいません、よくわからない。とにもかくにも、今号ではふくだりょうこさん、長谷川町蔵さん、柴那典さんの寄稿作も合わせ読んで、来たるべき(もう一部はすでに来てる)メタバース時代の様相が朧気ながら呑み込めてきて、老人(←私/発行人)には良い勉強になってます。とりあえず喫緊の問題は「生身の身体どうする?」ってことで、いいのかしら? これも医学分野の進歩でどうにかなっていきそうな話も聞いたような気がするけれども、正直、わからん。
作中の「カナ」と「男」の食い違い。私はこの設定ではカナを強者と捉えて読みました。↑でライヴ動画は見ないと書きましたが、このような力関係はTwitterでのバトルみたいなものでも観戦した記憶があって(吉本芸人某が活字畑の評論家をコテンパンにやっつけてた)、結局椅子取りゲームなんじゃないの、みたいな感想。YouTubeでもなんでもいいけれど、プラットフォームを「ホーム」にできた側が強者で、お客さんは(本人は対等に渡り合おうとしていても)雑魚。なんか、「ウンコもしないアイドル」と「ファン」が暗黙の了解を共有して楽しんでいた時代のほうが“安全”だった気もするんですけれども...あっ、作者は「そういう時代じゃないこと」を書こうとしているんですね。
作品内の「喋り言葉」。仮名が多用されていて、これは音をなるべく正確にテキスト化するとこうなるのでしょう。でも読んでいて、たとえば私が座談会形式ではないのについつい見ちゃう酒村ゆっけ、とか、やはりついつい(コノヤロウと思いながら)見ちゃうひろゆきの切り抜きとかの語感とは、違うもののように感じられました。縦書きの印刷されたテキストだから!? ネット上の横書きで流れたり点滅したりさせる(テレビの最新のテロップのように)と、より近づく? このへんは作者である東間さんに、オフラインで聞いてみたいと思いました(Zoomでやろうぜ、老人w)。
ああいう勘違いしたガチ恋のやつらの認知というか、世界観? が根本的におかしいのはさ、さっきの犯人にしても「他の男のものになるなら殺す」っていう行動の、「なら殺す」ってところが勿論もっともおかしいわけだけどさ、でもそれ以前に「ものになるなら」って、なんなんだよ? ってのがあるじゃん。「ものになるなら」って、なんなんだよテメー、「もの」って。あのライバーに犯人以外のほんとの彼氏がいたのかどうか知らんし、まあ、いたんだろうけど、多分、興味ないけど、でも、いようがいまいがあの子は誰かの所有物じゃない、つまり「もの」じゃないし、おんなじようにわたしも彼氏がいようがいまいが誰かに所有されてる「もの」じゃないわけ。