先月末に新刊『闇で味わう日本文学 失われた闇と月を求めて』を上梓したばかりの中野純さん。おそらく同書の最終校正と小誌の〆切が重なってたいへんなことだったでしょうが、きっちりと書き下ろしの一篇を届けてくれまして大感謝です。中野さん、今月は出版記念イベントがいくつもあり、そのなかのひとつ《Twitterスペース「南陀楼綾繁の今週の新着本」》でのトークでは、自著の紹介だけでなく、なんとウィッチンケア第12号についても言及してくださったらしく──らしくというのは私その日は先約があり外出していて前週分もアーカイヴがネット上にあったので戻って落ち着いて聞こうと思ってたらなんと録音しなかった回だと! ──伝聞では死ぬほど褒めてくれたみたいで、聞きたかったなぁ。でもほとんど褒められたことのない人生なので、聞いてたらたぶん死んだ。さて、そんな中野さんの今号への寄稿作は「完全に事切れる前にアリに群がられるのはイヤ」。寄稿者の皆様におかれましては長いタイトルを好むかたと短いタイトルを好むかたに別れる傾向がありますが、今号での中野さん、長いほうの第4位。そして内容はというと、まず冒頭13行の疾走感が尋常ではなく、もし同作を先日亡くなったあのかたに読ませたら間違いなく「つかみはOK!」と言いそう。要は「私はセミが好きです」ということなのですが、どのくらい好きかを伝えるためにあんな「セミ」こんな「セミ」まで引き合いに出して...ネタバレは惜しいので、ぜひ小誌にてご確認ください!
前半のセミ狩りの話。とても納得しました。確かにカブトムシやクワガタは捕まえると誇らしいんですが、彼奴等はこちらが見つけたらほぼ勝ち、ですもんね。遊びとしては「かくれんぼ」で、音無しの構えでじっとしているのを「見ーつけた」で、ジ・エンド。しかしセミは見つけてからが戦い。空中戦ありの「鬼ごっこ」...捕まえ損ねてオシッコかけられたときの悔しさは「缶蹴り」で缶蹴られたとき級の「バーカバカ!」屈辱感。あっ、私、超高難易度のセミ狩りに挑戦したことありましたよ。虫取り網の、攩のところがないのを用意して、まず蜘蛛の巣を探す。でっ、蜘蛛の巣をうまく攩のところに貼り付ける。これをいくつか重ねて、見つけたセミに被せると...たいがい巣が破れて逃げられるんですが、何匹かは捕れた。しかし、そんなことに夢中になってられたころが懐かしい。
博学な中野さんらしく、セミ話は多方面へと広がっていきます。食べる話は、オレは無理。もしセミが海のなかを泳いでいたら、食べられるかも(以前どこかでエビやカニが森にいたら食べるか? みたいな話を聞いて、たしかに海にいるから食べるんだなと思った)。そして、蝉の鳴き声を五月蠅いと感じるかどうかの話は、とても興味深かったです。先日北関東をクルマで夜に走っていて、田んぼ沿いで降りたら蛙の五月蠅いこと! 日本の田舎は閑静ではなく、私たちはいろんな音を風流に聞き取っているんだと思いました。
そばをズルズル啜る音に関しては、頓着ないどころか逆に「大きな音を出して食べてこそ美味い」と積極的に肯定する(最近はそうでもなくなってきたが)。せんべいをバリバリ食べる音もそんな感じだし、雨戸の音も布団を叩く音も、風趣があると肯定してもあまり違和感がない。それどころか、候補者の名を連呼しまくる選挙カーに対しても、うるさいと感じる人は少なくないものの、かなり寛容だと思う。
こんなふうに日本人が騒音に無頓着なのは、結構、蝉時雨や秋の虫の大合唱を愛でる感性によるのではないかと思う。日本人の耳はセミに鍛えられている。それは日本の自然が豊かな証拠だ。