吉田亮人さんとはこれまで、寄稿依頼の後に「今度はどんな方向性で書きましょうか」みたいな事前擦り合わせをすることが多く、そこでいくつかの案をやりとりしたりしてきたのですが、今号への寄稿作については、この方向でというのが一発で決まりました。表題からもおわかりのように、写真家としての話というより、物書き・吉田亮人さんとしての意思表明。やはり昨年2月に「しゃにむに写真家」を上梓したことが大きいのではないかと推察します。本作では同書が完成するまでの長いプロセスが率直に語られていて、物書きっていうのはときに真っ赤なウソを平然とものしたりするものですが、吉田さんに限ってはそんな方向に進む気配も感じられず、なんだかほっとしてしまいました。被写体と真摯に対峙して撮影するのと同じように、自身の心に写った思いを、文字に変換していく。“「撮りたい」という気持ちと同じく、「書きたい」という気持ちが自分の中に備わったことだ”という一文から、吉田さんの「書くこと」への決意のほどが窺えました。
作中では亜紀書房・斉藤さんとのことが多く語られています。そして不肖私のことにも触れてくださり、恐縮です。“「始まりの旅」と題して、2014年ウィッチンケア第5号に掲載してもらった。”...この年には2020年東京オリンピックの公式エンブレムが使用中止になったり、ISによって日本人人質が殺害されたり、ずいぶん長い時間が経ったなと、あらためて振り返ると感慨深いです。あっ、同作はいまでもnote版ウィッチンケア文庫の1作としてネット上で読めますので、みなさまぜひアクセスしてみてください!
「書くこと」だけではなく、やはり「撮ること」についても、吉田さんらしいお考えが記されています。“漫然と撮るだけではそこに写るのはただの像であって、写真がそれ以上の意味を持つことはない。やはり、撮るんだという強い気持ちを内在させて被写体に向き合った時に初めて、写真は意味と言葉と時間を獲得し語り始める”...「意味」「言葉」「時間」を「像」に獲得させるためには「強い気持ち」が必要、なんて、たとえば写真の専門学校とかで教えてくれるのかな? 私にはこのような(言葉による)表現、吉田さんならではのものだと感じられました。
その間に斉藤さんは晶文社から亜紀書房に移ったため、「就職しないで生きるには21」シリーズで書く機会は失われてしまったが、僕の本の企画はそのまま亜紀書房で生き続け、同社のWEBマガジン「あき地」での連載を経てようやく刊行されることとなったのだ。
ここまで随分長く待たせてしまった斉藤さんには申し訳なかったけれど、自分の内側から湧き起こってくる「書くんだ」という気持ちがなければ何を書いてもきっと読者に伝わらないだろうし、本の執筆という長期戦も戦い抜けない。だからその気持ちを持ち合わせるために僕にはこれだけの時間が必要だったのだ。