さてさて、今回も自身での自作紹介。毎回同じこと書きたくなりますが繰り返しませんので、どうぞリンク先(→)「前回の最後の6行」だけでもお手数ですがご一読いただければ光栄でございます。あっ、でも今作については嬉しいメールをいただいたり、SNS/ネット上でも言及してくださったかたがいたので...とても感謝! それで、今作で私はいったいなにについて書きたかったのかと思い出してみると、ひとつは「仕事」についてかな、と。仕事とは何か? 就職ガイド的な説明、あるいはあるスキルに長けた人の成功譚ならネット上にも溢れていて、部分的には「そうだな」と頷けるところもあるんですが総じて「まやかし」めいていて、たとえば仕事の範疇のひとつではありそうな「ビジネス」という言葉。私には「スポーツ」と同義語に感じられて、それはどちらも戦争の代替(ホントの命まで奪いはしないけれど勝ち負けははっきりさせるぜ)を表しているのではないかと...って、こういうスタイルの文章ではからきしうまく説明できないのでわざわざおっさん2人を創作した一篇を書きましたので、どうかそちらでご忖度ください。
もうひとつ書きたかったのは「ほんとうにあったこと」でして、これを作中にうまく嵌め込むのはけっこう難しい。いま読み返してみても「なかったこと」の部分はすらすらと接続して流れているのに「あったこと」の部分になるとガタガタ揺れるというか、どうしても筆者の「だってほんとうにこういうことがあったんですから」感が強く押し出されているように思える。たとえば「やまがたすみこのファンで楽屋に押しかけてギターにサインをもらった」は事実なんだけれども、ここに無理して入れる理由は? と自問すると「ほんとうにあったこと」だから、としか。でっ、カンファレンス発言のくだりも「ほんとう」系です(これはうまく嵌め込めた、かな)。
終盤のホワイトアウト案件ですが、「いったい誰が発案者だったんだろう?」っていまでも思います。出演者ご本人もやりたくてやったわけじゃなくて、それこそ「仕事」の一環として引き受けたんだろうし。ということでみなさま、小誌今号には発行人・多田洋一も寄稿者の1人として参加していますので、ぜひお目通しのほどよろしくお願い申し上げます!
自身のスキルが活かせないとなると、いまの僕の生きる術は時給千円程度の「誰にでもできる仕事」……その現実を受け入れる選択肢しかないのかと思案していると、ではなんでそうまでして生き存えたいのか、という方向に思考は流れていき、ついにはそもそも自分、これ以上生き存える意味ある? みたいな、賽の河原の先で三途の川の水音、みたいな景観が脳裏に広がってきちゃうので、最近はひたすら寝るようにしている。人間、五十年でも長すぎるんじゃねえの、みたいな。
〜ウィッチンケア第12号〈織田と源〉(P120〜P129)より引用〜
多田洋一小誌バックナンバー掲載作品:〈チャイムは誰が〉(第1号)/〈まぶちさん〉(第2号)/〈きれいごとで語るのは〉(第3号)/〈危険な水面〉(第4号)/〈萌とピリオド〉(第5号)/〈幻アルバム〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈午後四時の過ごしかた〉(第7号)/〈いくつかの嫌なこと〉(第8号)/〈銀の鍵、エンジンの音〉(第9号)/〈散々な日々とその後日〉(第10号)/〈捨てたはずのマフラーどうしちゃったんだっけ〉(第11号)
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