「すでにデジタル・デバイス界隈でのヴィジュアル・イメージ・シンボルは(Twitter にせよ、Facebook にせよ)例のちっぽけな(個人ユーザを識別する)サムネイル大の「アイコン」に集約されつつある。」
木村重樹さんと今号について打ち合わせを最初にしたのは、昨年の秋。富ヶ谷小学校近くの「他人」でお昼をご一緒しましたが...その店もつい最近なくなったとのこと。代々木上原界隈にはむかしながらの中華屋さん、多かったのにな(中華丼がおいしかった「東洋」とか)...って遠い目しても時代は逆行しません。そして小誌第2号掲載「私が通り過ぎていった“お店”たち」、第3号掲載「更新期の〝オルタナ〟」に続く木村さんの寄稿作は、そんな逆行できない時代におけるプリンテッド・マターについての考察。いやぁ私、「他人」のもやしそば(現物)がどこかのサイトからDLできるんだったら絶対したいですが(画像はまだ「食べログ」にあるのが、なんともw)。...しかしビッグデータの時代って、デジタルコンテンツ化されていないものがとっても見つけにくくなっていません? いや、探す手間はむかしと同じなんだが、その手間が、えらくかったるく感じられるというか。
世の中はものごころついたころからずっと“便利”な方向に流れ続けていて、そのなかでも「アナログからデジタルへ」というのはかなり大きな変化、というのは感覚的にわかるのですが、しかしそのことに対して私は...とにかく落ちこぼれないようについていこう、くらいかと。紙媒体の発行人が言うのもなんですが、私、「本にはやっぱり本としての手ざわり云々」みたいな感覚、ほとんどないです。「音楽聞くならアナログ盤で」とか「映画は映画館で」とかも(別体験、という認識はあり)、ようはそのときどきの自分の生活に取り入れやすい形式であれば、まあそれでいいやって感じ。iTunesに表示されるジャケット眺めながらMP3音源聞いているのがデフォルトになって、もう数年。むかしは見知らぬ町の駅に降り立つと、どの方角に「チェックしなければいけないレコード屋」があるか、気配でわかったんですけどね。でっ、思いがけず名盤を発見したり...最近はそれもネットで済ましちゃうんですけど。あっ、でもさすがに古い人間なんで「セックスはヴァーチャルで」ほどには“進化”できてないと、たぶん思います〜。
かつてアナログ・レコードがコンパクト・ディスクにシフトしていった結果、カヴァー・デザインの妙やヴィジュアル・インパクトがみるみる衰弱していったこと、最大収録時間が(LP盤の倍近い)80分弱にまで増大したことで、アルバム単位の〝まとまり〟や完成度が、なんだかグダグダになっていったこと、A面・B面という仕切りもなくなり、「ひと粒で二度おいしい」的なお楽しみもなくなっていったこと……これらに相当するような〝喪失感〟を、ロートルな「印刷物フェチ」は、恐らくは今後日々年々まのあたりにしていかざるを得ないような予感がしてならない(事実、携帯端末の殆どが1画面構成である以上、「見開き裁ち落としで写真掲載」とか、旧来の左右一対のページ平面を表現の場としてきたデザインやレイアウトもまた、根本的に発想を改めざるを得ないのだろう)。
ところでデジタル・データの界隈にも、ある種の〝コレクター〟は存在するのだそうだ。いわゆる「(違法)ダウンローダー」と呼ばれる手合いは、高速通信回線の24時間常時接続が常態となったゼロ年代初頭以降、とにかく1年じゅう、ネットの大海に放流された(違法)アップロード・データを〝落としまくる〟ことに日夜血道をあげている、という。「そんなに落として、いつ観る(聴く・読む)のですか?」と尋ねてみると「老後の楽しみだよ!」と彼らはうそぶくらしいのだが、データ保存先のCD-RやDVD-Rといった光学メディアが、そんな将来までもつ保証は何もなく、その前に本格的な「クラウド・コンピューティング」と「超高速通信回線」が実現した暁には、箪笥預金よろしくメディアに焼き溜めておいたデータ群には、まだ何らかの〝アウラ〟が認められるのだろうか?(奇妙なもの言いかもしれないが、なにせそれらのデータは〝オリジナル〟ですらないのだ!)
ウィッチンケア第4号<マジカル・プリンテッド・マター 、あるいは、70年代から覗く 「未来のミュージアム」>(P150〜P155)より引用
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Vol.14 Coming! 20240401
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