2019/05/09

vol.10寄稿者&作品紹介09 宇野津暢子さん

今号で初めてご寄稿いただいた宇野津暢子さんは、フリーランスのライター/編集者。私は昨年秋の終わりに、知人を介してお目にかかりました。事前には〈玉川学園のフリーペーパー「玉川つばめ通信」の発行人〉との情報を得ていまして、さらにネット検索すると、三浦展さんの〈【玉川学園】理想の学園都市に、アラフォーのママたちが夜の娯楽を提供する〉なんて記事も見つかりまして、おお、これは会うのが楽しみだぞ、と。でっ、数人での食事会〜二次会、と時間を過ごし、さてお開きとなって、えっ、同じ路線バスなんですか、では一緒に帰りましょう、さらに、えっ、バス停もひとつちがいですか! なんと、ご近所さんとは!! さらにさらに、車中でいろいろ伺ったところ、宇野津さんが以前勤めていた出版社...あの、そちらにはあれ、とか、これ、とかで私、たいへんお世話になってきたのですけれど、と。世の中は広いんだか狭いんだかよくわかりませんが、とにかくこれはなにかのご縁にちがいないので、ぜひ小誌次号にご寄稿を、とお願いしたのでありました。そして届いた一篇は、自身が3歳のときから暮らしている玉川学園が舞台となった、私小説テイストのぐっとくる回想譚。

作品の冒頭には、国道16号線鵜野森交差点(渋滞の名所)近くにあった「すかいらーく」が登場します。「1976年。父55歳、私3歳のときのことだ」...そのころの私は、場所はちがうが同じ店で、生まれて初めてカニクリームコロッケを食べた記憶が(その少しあとに、「ロイヤルホスト」で生まれて初めてピロシキを食べた)。ファミリーレストランって、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなんかと同系列の、食の新しい文化って雰囲気があったんですよね、あのころは。おとうさま、55歳か。いまだと、孫みたいな年齢の一人娘が喜びそうだから、ちょっと頑張ってパンケーキやタピオカの店に連れていった、という感じかもしれないな。「私」がいかに愛されて育ったか(そしておとうさまを好きだったか)が、文章の端々から伝わってきます。それにしても、作中で描かれている中学生の宇野津さん...小田急線沿線には学校が多く、朝〜夕方には、おすまし系からワイルド系までさまざまな中高生が乗り合わせていますが、きっと真面目系だったんだろうな、と想像。辛いことがあっても表に出さずに頑張る姿が、とても印象的です。

私自身も「父親が多摩川の向こう側に家を持って住み始めた」というベッドタウン育ちです。ウィッチンケアの発行元は創刊号〜第4号までが世田谷区代沢(シモキタザワ)で、第5号〜今号(第10号)はマチダ。だんだん町田っぽく、というか、「前の東京オリンピック後に人口流入したところ」っぽい雰囲気を身にまとう媒体になってきているのかもしれません。そして宇野津さんの作品、「ターミナル駅から急行で数十分」な人には、共通する感覚がきっとあるはず。ぜひみなさま、小誌を手にとってみてください。



 私はその頃、小田急線の柿生という、私が降りる側には雑草とマルエツしかないような駅からバスで20分かかる、不便でやたら人数の多い進学校に通っていた。そして今じゃ考えられないような上下関係の厳しい剣道部に入っていた。毎日部活が終わるのは夕方6時15分。柿生駅のバス停に着くのは7時。駅前にある中村屋で友だちと肉まんを食べ、そこにいない友だちと部活顧問の悪口を言い、小田急線の下り電車に乗るのが7時15分。ふたつ先の、自宅の最寄り駅である玉川学園前駅で電車を降りるのが7時25分。私は駅の改札口を出て、玉川学園の南口方面に住んでいる友だちに「じゃあね」と言って、ひとりで北口の階段を一番下まで降りる。そして一度降りた階段を何事もなかったようにもう一度登り、定期券を改札口の駅員さんに見せて、また小田急線に乗るのだ。私にはこのあと、父が入院している病院にお見舞いに行くというミッションがある。でもそのことは絶対に友だちに悟られてはいけない。〝かわいそうな宇野津さん〟と思われるわけにはいかないのだ。

ウィッチンケア第10号〈昭和の終わりに死んだ父と平成の終わりに取り壊された父の会社〉(P052〜P056)より引用

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Vol.14 Coming! 20240401

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