昨年8月、吉田亮人さんの個展「 The Absence of Two」(東京都墨田区にて)に伺いました。会場に展示されていたのは、吉田さんが小誌今号への寄稿作内で<宮崎県に住む88歳の僕の祖母と23歳の看護大学生だった従兄弟の生活を綴った「Falling Leaves」>と語っている作品。ネット上のメディアでも、ずいぶん紹介記事を拝見しました。ここで軽々に内容をまとめたりはしませんが、2人を撮影し続け、予期せぬ展開があり、その後吉田さんが写真集をつくるまでの経緯や心の葛藤が、飾らない筆致で記されています。ぜひぜひ、小誌を手にとって読んでいただきたいです。
タイトルにある「荒木さん」とは、吉田さんが大きな影響を受けた写真家・荒木経惟氏のこと。大学生の頃、京都の新風館にあった書店で『センチメンタルな旅 冬の旅』と出会った吉田さんは<書棚の前でむせび泣いた>、と。その後には<僕は荒木さんから間接的に写真を学び、勝手にその方法論を参考にしながら自分なりの写真を構築していった>との一文もあります。...じつはこの一篇を掲載した小誌第9号が発行された4/1、今世紀になって長く荒木氏のモデルを務めたKaoRi.さんがネットに文章をアップしました。私が詳細を知ったのは、ニュースなどを経由しての数日後。正直、多少複雑な気分になりまして、吉田さんの作品を紹介する際にはなに書こうか、などと1ヶ月ちょっとムズムズ(この一件をスルーするのはよくない、とは思いました)...でっ、自分自身のことを書きます!
私は1996年に荒木氏と大塚寧々さんの対談を雑誌で構成(文も)したことがあります。OKはもらったが当日どうなるのか...たしか出版社の誰かがタクシーで迎えにいって、氏は無事に対談場所へ到着したはず。1時間ほどでしたが、奔放で楽しくてエッチで、まさに当時巷間言われていた「天才アラーキー」という印象でした。いま思い返せばふなっしーとかくまモンとか「こりん星のゆうこりん」とかみたいなみごとに「天才アラーキー」な人物だったな、と(そして私はそのイメージを拡散する記事を書きました)。もうひとつ個人的な体験。Björkの「telegram」というアルバム(のジャケット)を最初に店頭で見かけたとき、これってもしやと思って買ったらやっぱり写真家・荒木経惟氏の手がけたものだった、という。「天才アラーキー」としての振る舞いも、写真家としての作品も、どちらも揺るぎないんだなぁ、と。
吉田さんの寄稿作は(人物や作品への毀誉褒貶等も含めて)荒木経惟さんと長く対峙して、自分が導き出した《答え》を文字にしたものと受け止めています。世の中は変化するし、世の中の物差しはいくつも存在する。...それでもある時期の荒木氏は、カメラを持つと個人として代えのきかない《強さ》を作品に埋め込める人物で、吉田さんが氏に惹かれたのは、その《強さ》の秘密を知りたいからではないかと思っています。
どちらにしろ、当時の僕は迷いの中にいたと言っていい。迷いながらもやはりどこか一条の光を求めて、写真集だけでなく、荒木さんがあの作品を作り上げた当時の映像や、著書なども読み漁った。
その中で荒木さんはこう言っている。
「これは俺自身のためのものなの。なんといっても第一の読者は自分なんだから」
当時、作品を発表したばかりの荒木さんはきつい批判を受けたようだった。「不謹慎」「あなたの妻の死なんて他人には関係ない」「不遜な写真」。しかし、荒木さんは「自分自身のため」とそれらの言葉を一蹴し、妻・陽子さんへの愛を写真作品へと昇華したのだった。とは言うものの、
「俺の写真家としての第一ラウンドはこれで終了したよね」
との言葉が物語っているように、きっと相当な痛みと悲しみを伴ったに違いない。だからこそ観るものに強く訴えかける何かが内包されたのだろう。最愛の人を写真によって見つめ続けた写真家の、最上の愛の形がこれしかなかったのだろうと思う。
ウィッチンケア第9号「荒木さんのこと」(P108〜P113)より引用
goo.gl/QfxPxf
吉田亮人さん小誌バックナンバー掲載作品
「始まりの旅」(第5号&《note版ウィッチンケア文庫》)/「写真で食っていくということ」(第6号)/「写真家の存在」(第7号)/「写真集を作ること」(第8号)
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Vol.14 Coming! 20240401
- yoichijerry
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