短くもなくものを書くことを職として生きてきましたが、私は自分の意見をいま進行させているようなスタイルの文章で表明したことってほとんどなく、その一番の理由はそのようなニーズが全然なかったからですが、でっ、そのことはいつかきちんと文章にしたい、とも思いますが、それはまた別の機会にでも。でっ、そんな私ですが「世の中にはオレがもやもや考えていることを、オレよりはるかにきちんと書く人がいるなぁ」と感じていまして、栗原裕一郎さんもそんな書き手のひとりです。
雑誌で栗原さんの署名記事が気になり出し、「腐っても『文学』!?」「禁煙ファシズムと戦う」「<盗作>の文学史」などを買って読みました。自分の意見を文章で表明してこなかった私がなに言うか、って感じですが、受ける印象はつねに「きちんとしているなぁ」。批評対象の資料(文献/音源etc.)に可能な限りあたり、自身の評価を決定し、文章化していく。...栗原さん的にはあたりまえのことをあたりまえにやっているのでしょうが、その姿勢が一貫していて“不純物”が紛れ込まないところが清々しい。
こんな書きかたすると「じゃ、おまえの言ってる“不純物”ってなによ?」ってことになるわけですが、だから、それは「また別の機会にでも」...いや、ちょっとね...批評対象である作品やその背景にあるものと純粋に対峙せず“おらが村”っぽい言説ばかり垂れ流している輩を見かけると、私は「黙っているほうがまし」と強く憤る。いやいや、とにかく栗原さんと出会うことになっちゃった作品は、幸せだと思います。たとえその評価がけちょんけちょんだろうと、眉ひとつ動かさずスルーだろうと。
ウィッチンケア vol.3に掲載された「あるイベントに引っ張り出されたがためにだいたい三日間で付け焼き刃した成果としての『BGMの歴史』」は、辻本力さんが発行する「生活考察vol.03」掲載の「わたしの『Music For Dishwashing』/円堂都司昭×栗原裕一郎×蓮沼執太」と対をなす作品。今後は「webちくま」に連載した経済学や書き下ろしの歌謡曲に関する書籍が刊行予定とのことで読むのが楽しみです、栗原裕一郎さん!
後者に関しては、「イーノ以降」を前提とした三田格監修・編『アンビエント・ミュージック 1969-2009』(INFASパブリケーションズ、二〇〇九年)がある。「アンビエント・ミュージックをポップ・ミュージックとして成り立たせる条件」を意識した、時代性を強調したディスク・カタログという体裁を採っており、ザ・KLFの「チル・アウト」(一九九〇年)がいわばヘソに置かれている。『波の記譜法』で扱われている文脈も事実上吸収されていると言っていいだろう。なぜこれがアンビエント? というものも少なからず含まれているけれど、この本の編集方針自体が、地図あるいは歴史をつくることを目的にしている以上「なぜ?」と問うのは野暮だ。気に食わなければ別の歴史をつくればいいわけだから。
注目するべきはむしろ、アンビエント・ミュージックの前史が、ミューザックの登場したずっとあと、一九六九年から書き起こされていることだ。つまりサティからミューザックを経たイージーリスニング的なものはオミットされているということであり、実際、監修者は「ヒーリング・ミュージックやニュー・エイジをカルチャーとしては扱いたくない」と宣言しているし、「ミューザック」という言葉も見落としがなければただ一カ所を除いて登場しない。
続編として同じく三田格監修による『裏アンビエント・ミュージック』が翌年に編まれていて、コンセプトは「ブライアン・イーノを除外したアンビエント・ミュージックの歴史」というもので「1960-2010」という区切りになっている。こちらでは、ニューエイジ系や、その源流となったと考えられるエキゾチカやスペース・エイジ・バチェラー・パッド、スペース・ミュージックなど、ミューザック的イージーリスニングの延長線上に位置するようなものも取り扱われている。
Witchenkare vol.3「あるイベントに引っ張り出されたがためにだいたい三日間で付け焼き刃した成果としての『BGMの歴史』」(P054〜P063)より引用/写真:徳吉久
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Vol.14 Coming! 20240401
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