2026/04/28

vol.16寄稿者&作品紹介08 美馬亜貴子さん

 美馬亜貴子さんの今号への寄稿作は、ご自身のキャリア(元シンコー・ミュージックで雑誌「クロスビート」の編集部所属)を活かした、21年後の未来を舞台にした小説です。主人公の「僕」はどうやら大学生で、ロックが好き。しかも〝特に好きなのは1990年代から2000年代初頭のロック〟ということなので、50年前の...今(2026年)から50年前だと考えると、グラム〜パンクあたりが好きな大学生男子、という感じでしょうか。いなくはなさそうだけれども、でも、昨今ですらすでに「ロックを聴いてるのは年寄り」みたいな風潮はあるわけで、2047年の世の中でも、果たしてロックは鳴っているのか?


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本作での設定では、〝渋谷にある、日本で唯一のコンサート再生専用シアター『リプロ』〟に行けば、〝名画座のような感じで毎日「歴史上の名演」を体験することが出来る〟とのこと。「僕」はここで1985年の『ライヴエイド』のクイーン、1996年のオアシスのネブワース公演、ザ・バンドの『ラスト・ワルツ』、1966年の日本武道館でのビートルズ来日公演、そして1997年7月26日の初回フジロックなどを体験するのですが、それらの感想がなかなか的外れ的に的を射ていて...というか、まさに美馬さんの専門分野であるがゆえに、ディテールを知ったうえでの「2047年の若者が言いそうなこと」になっていておもしろいのです。とにかく、全編に渡って粋な悪戯が散りばめられていて、音楽に詳しい人ほど気付きが多いはず。


タイトルの〈2047年のフジロック〉、私(←発行人)はダブルミーニングだと思いました。「2047年に僕(と隣席の老人)が『リプロ』で体験した初回フジロック」と「2047年に開催される、僕がこれから体験してみようと思うフジロック」の。そして作中ではレッチリ(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)が重要な役割を果たしていまして──そういえば先日原宿を通りかかったら古着屋に28万円のレッチリのTシャツが吊るしてあってびっくりでしたが──同バンドが伝説となった初回フジロックに対する「僕」と「老人」の見解の違いも、まさにディテールをご存知な筆者らしい落としどころに描かれています。

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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E
 レッチリのようにメンバーを変えながら何十年も続いているバンドやアーティストは結構いる。たとえばKISSやスリップノット、コールド・プレイ、ピンク・フロイド、ラモーンズ、レディ・ガガ、カニエ・ウエストなど。いずれも縁のある人物が存続させる権利を買い取って継承している。ちなみにビートルズとマイケル・ジャクソンだけは「止め名」になっていて誰も継ぐことは出来ないが、その代わり彼らの楽曲はパブリック・ドメインなので誰もが自由に演奏することが出来る。
 長く続いているバンドの良いところは、曲が共通認識されているので世代が違っても話しやすいこと。その一方で、同じバンドのファンでも好きになった時期が違うとメンバーも違うし、ライヴでよくやる曲も違うので、まったく話が合わないこともある。90年代〜2020年代のラインナップのファンが圧倒的に多いレッチリでは後者のようなことがよく起こる。
 僕に話しかけてきた件の老人も今のレッチリにはまったく興味がないそうで、「今のはキレイすぎる。いいところだけ継いだってダメなんだ」とわけのわからないことを言っていた。悪いところをわざわざ継ぐことはないだろう、と僕は思う。良くないところを改善していくからバンドは進化するし、長続きもするのだから。

~ウィッチンケア第16号掲載〈2047年のフジロック〉より引用~

美馬亜貴子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈ワカコさんの窓〉(第5号)/〈二十一世紀鋼鉄の女〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈MとNの間〉(第7号)/〈ダーティー・ハリー・シンドローム〉(第8号)/〈パッション・マニアックス〉(第9号)/〈表顕のプリズナー〉(第10号)/〈コレクティヴ・メランコリー〉((第11号)/〈きょうのおしごと〉(第12号)/〈スウィート・ビター・キャンディ〉(第13号)/〈拈華微笑 ~Nengemisho~〉(第14号)〈生存学未来論〉(第15号)

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2026/04/27

vol.16寄稿者&作品紹介07 武田徹さん

 前号(ウィッチンケア第15号)には詩人・茨木のり子のあまり知られていない一面にスポットを当てた一篇をご寄稿くださった武田徹さん。今号への寄稿作は茨木よりもう少し前の世代の詩人・草野心平(1903〜1988年)についての論考です。草野といえばカエルをモチーフにした擬音語やユーモアあふれる詩が多く、一般的には戦後民主主義を体現した昭和の代表的な詩人、というイメージで語られてきた人物。武田さんは、そんな〝草野心平という詩人が気になっている〟と冒頭で書き、続いて、その理由を以下のように──〝それは草野が実は極めて熱心な戦争詩の書き手でもあったからだ〟と。


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作中に引用されている「大東亜戦争第二年の賦」という詩には、たとえば「われら微塵も平和を思ふな。戦ひはつづく。戦ひはつづけ。」といった、かなりきな臭い言葉が連なっています。武田さんは瀬尾育生の『戦争詩論1910–1945』、井筒俊彦の『神秘哲学』などを参照しつつ、「詩」という文芸ジャンルに特有な「言葉」の力について考察しています。たんに草野を糾弾、というよりも、創作者(=詩人)が無責任に陥るやもしれない「詩」の超越性/神秘性について...このあたりは、ぜひ小誌を手にしてご一読ください。
作品終盤では、現在のネット空間に飛び交う言葉の危うさについても言及されています。〝ワンフレーズの賛美と断罪、バズるスローガンなど、短い言葉が周囲の余白の中で飛び道具のように使われる〟という筆者の一節から私(←発行人)が思い浮かべたのは、"Make America Great Again"とかいう、赤い野球帽...Anybody home?。…これまでの武田さんの寄稿作の中でも、今作にはかなり厳しい批評性を感じました。昨今の時代の風向きを鑑みれば、今後、令和の(戦時下の)草野心平が現れて、無責任に詩の言葉を拡散するかもしれない──そんな危機感ゆえ、なのかな。〝戦争協力した文学者は草野以外にもたくさんいた。しかし戦時中の活動をなかったもののようにして戦後に平和を謳う白々しさにおいて草野に勝る詩人は見当たらないのではと思う〟...厳しいです。

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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E



 しかし、そもそも詩はなぜ超越性を身に纏うことができたのか。たとえば井筒俊彦は『神秘哲学』で「言詮不及! それが神秘家の我々にたいする最後の言葉である」と書いている。言辞を弄して経典の類の言葉を解説する作業はむしろ真理から遠ざかる。言葉がそこにあること自体が神秘なのであり、ただそれに向き合い、受け入れるべきなのだ、と。こうした神秘に対するのと同じ姿勢をモダニズムの詩も求める。それは情緒や事実を叙する言葉ではない。その言葉がそこにあること自体が詩の奇跡なのだ。
 だが、そこには逆説があった。説明的言辞を伴わずに裸のまま示された詩の言葉は、前後の文脈によって縛られる散文の言葉以上に、多くの解釈を許す。散文でも前後の文脈に縛られた一連の言葉の連鎖からなる「行」と「行」の間に言語化しない思いが込められるが、詩文では行間だけでなく、語と語のつながりも自在であり、いたるところに解釈が入り込む余白が用意されている。
 特に草野は余白を積極利用した詩人だった。たとえば「冬眠」は●だけが印されたシュールな作品でもはや余白しかない。だからいかようにも解釈できる。
 もちろん、どの解釈も詩そのものからは遠ざかってゆくので、詩の超越性を真摯に極めようとする詩人であれば一切の解釈を拒み、徹底して孤高の存在であるべきだろう。しかし多くの解釈を誘う詩が多くの愛好者を得るのもまた現実であり、それに応えようとする詩人もいる。中には詩には多様な解釈がありえるので言葉の責任を取らされることはないはずだと甘えて、時代や政治が求める言い回しをだらしなく使う詩人もいよう。

~ウィッチンケア第16号掲載〈蛙たちの戦争 〜草野心平と詩的無責任をめぐって〜〉より引用~

武田徹さん小誌バックナンバー掲載作品:終わりから始まりまで。〉(第2号)/〈お茶ノ水と前衛〉(第3号)/〈木蓮の花〉(第4号)/〈カメラ人類の誕生〉(第5号)/〈『末期の眼』から生まれる言葉〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》〉/〈「寄る辺なさ」の確認〉(第7号)/〈宇多田ヒカルと日本語リズム〉(第8号)/〈『共同幻想論』がdisったもの〉(第9号)〈詩の言葉──「在ること」〉(第10号)/〈日本語の曖昧さと「無私」の言葉〉(第11号)/〈レベッカに魅せられて〉(第12号)/〈鶴見俊輔の詩 ~リカルシトランスに抗うもの~〉(第13号)/〈立花隆の詩〉(第14号)〈いくじなしのむうちゃん!〉(第15号)

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2026/04/26

vol.16寄稿者&作品紹介06 姫乃たまさん

 今年2月に「なぜかどこかに帰りたい」を上梓した姫乃たまさん。ウィッチンケアには掌編小説〈クランベリージュース〉を掲載した第12号以来の登場でして、おかえりなさい。じつは姫乃さん、小誌第6号と第7号にも小説をご寄稿くださっていまして(下記《姫乃たまさん小誌バックナンバー掲載作品》欄ご参照)、いまではめったに書店に出回らないその2冊、発行人直営のBASESTORESでなら残部少ですが入手可能。もちろん、某マーケットプレイスみたいなことはなく、定価/新品でございます。両作品とも時流に左右されない名作なので、ご存知なかった方はぜひぜひ!

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さて、姫乃さんのウィッチンケア第16号への寄稿作は〈負けないで 〜閉鎖病棟入院日記〜〉。あの、東京2020オリンピックが1年延期となった、コロナ禍の真っ只中の夏のできごとを、日記形式で綴った一篇です。冒頭に〝地下アイドル卒業後、双極性障害をこじらせていた私は度重なる自傷や救急搬送などを経て、2020年の夏を精神科病院の閉鎖病棟で過ごしました〟との説明があり...ええと、私はたしか、姫乃さんの活動10周年記念公演「パノラマ街道まっしぐら」(2019年4月30日)の少し前に、LOFT9 Shibuyaでのイベントでお目にかかって写真集「私小説」を買った記憶があるのだが...とにかく、記念公演が大盛況だったことはネットで知っていたものの、その後の経緯は、本作で初めて詳しく知りました。


それにしても、ご自身の尋常ではない体験、とくに7月30日と31日の「ご自身そのものが尋常ではない」状況を、ここまで冷静(冷徹!?)にテキスト化できてしまう、筆者の「表現者としての業」に感銘を覚えています。しかも、本作中の「私」はこんなにエキセントリックなのに、怖ろしい...もとい、素晴らしいことに、とってもチャーミングでポジティヴな生命力さえも感じさせるのですから。7月30日の日記にさり気なく挟み込まれた〝ギャグとホラーが紙一重であるように、シリアスな状況もまた笑いと紙一重だ〟という一文に、私(←発行人)は姫乃さんが無事帰還できた理由の一端を垣間見たような気がしています。
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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E

 8月4日

 夜が怖い。厳密には消灯時間が怖い。
 デイルームのほうから患者さんたちの賑やかな声や、テレビの音が遠くに聞こえてくる時は、病室のベッドでうとうとしているのだけど、消灯時間が近づいて21時に廊下の電気が消え、22時にデイルームの電気が消え、さあ寝ましょう! となると緊張してしまって、同じベッドの上で完璧に目が覚めてしまう。
 病室には時間を知る道具が無いのでわからないけど、毎晩電車の音がしなくなった後まで、だいたい二時間くらいは猫のぬいぐるみを抱いて、暗闇で目を閉じたまま寝返りを打っている。時折泣いてしまう。
 こんな弱虫でよくいままで働いてこれたなと思う。同時に、こんなに弱虫だから働いてきたのだとも思う。
 子どもの頃、時折訪れる眠れない夜の恐怖は今でも鮮明に覚えている。
 いつもは起きている家族たちが眠っていて、窓明かりに照らされたシーツの影が皺だらけの老婆に見えて恐ろしかった。夜は私が眠らなければ、永遠に続くように感じられた。
 あの夜の恐怖を踏みつけるように、たくさんの夜を遊び、働いて、生きてきた。
 そしていま、またあの夜の中にいる。

~ウィッチンケア第16号掲載〈負けないで 〜閉鎖病棟入院日記〜〉より引用~

姫乃たまさん小誌バックナンバー掲載作:21才」(第6号)/「そば屋の平吉」(第7号)〈クランベリージュース〉(第12号)


 
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2026/04/25

vol.16寄稿者&作品紹介05 稲葉将樹さん

 ふと気づけば、私は今月もディスクユニオンで至福の散財をしてしまっているわけですが(吉祥寺店でJon Brionの「Meaningless」のアナログ盤を適価で発見!)、そのユニオンさんの出版部門であるDU BOOKSの編集長・稲葉将樹さんのウィッチンケア第16号への寄稿作は、ご自身の身体にまつわる不具合を題材に、視覚についての考察を巡らせたエッセイ。初夏に斜視の手術が控えていることもあって冒頭から「気が重い」と...序盤はかなり痛そうなトピックが続きまして、心中、お察し致します。しかしながら、本作がいわゆる「闘病記」的な苦労話ではないのは、筆者の卓越した教養と洞察力の賜物ではないでしょうか。

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眼科医のアドバイスで手術を受ける決心をした稲葉さんは〝今回はじめて斜視について調べてみると、「立体視ができない」「物が二重に見える(ピントが合わない)」が主な症状〟だとあらためて知ります。そういえば、と過去の自分に思い当たるフシがいくつも。たとえばキャッチボールが苦手だったとか、6年間やっていたサッカーでも、タイミングよくボールを蹴れなかったとか。それだけでなく、東京ディズニーランドの「超遠近法」による書き割り的風景に癒されていた二十代頃の自分のことも思い出し...このあたりからの視覚に関する考察の展開が、とても興味深いのです。


映画「グランド・ブダペスト・ホテル」等のウェス・アンダーソン監督、小津安二郎。写真家のエリン・オキーフ、アンドレアス・グルスキー、安藤瑠美。そして、レオナルド・ダ・ヴィンチ。ご自身の視覚体験に引き寄せて、錚々たるアーティストの作品や技法の特徴を語っていくくだり、ぜひ小誌を手にとってお楽しみください。そしてなによりも、手術が無事終わることを祈念致します。夏以降、筆者の〝奥行把握が困難ななかでのグラフィカルで平らな喜び〟にもなにがしかの変化があるのか? いつの日か、後日談もぜひぜひ、どこかで。
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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E


 五十年近く生きてきて、ようやく気づいたのだが、絵画やグラフィカルな映画が好きなのは、斜視の見え方と無関係ではないのかもしれない。映画だと、ウェス・アンダーソンが好きだ。一般的には「お洒落な箱庭的演出」と評されるあのド正面の視点と人工的なシンメトリーは、私にとっては単なる美学を超えた、脳が余計な奥行きを計算しなくて済む親切設計なのかも。内容はともかく心安らかに鑑賞できる。日本映画だと、もちろん小津。手前に人物を前後に置き、奥には障子を配し、さらにその奥に別の居間や庭が続く。小津も空間を「連続的な奥行き/深さ」としてではなく、何枚ものレイヤーが重なり合った「層」として構成してくれている。立体視がしづらい私の目にとっては、小津映画は世界を自動的に切り絵のようなレイヤーへと分解し、それぞれの層が持つグラフィックの美しさを抽出するフラットな断片の集積としての映画体験なのであった。

~ウィッチンケア第16号掲載〈斜視と平面世界〉より引用~

稲葉将樹さん小誌バックナンバー掲載作品:人工楽園としての音楽アルバム 〜ドナルド・フェイゲンとケニー・ヴァンス〜〉(第14号)〈下妻〝書店〞物語 1980年代〉(第15号)

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2026/04/24

vol.16寄稿者&作品紹介04 絶対に終電を逃さない女さん

 昨年11月に発売されたご自身にとって2冊目の著書「虚弱に生きる」が増刷を繰り返している、絶対に終電を逃さない女さん(以後「終女」さん)。私はこれまで「ヒットした本」にスタッフとして関わったことはある(ふりかけの裏面に表示されている〈原材料:海苔〉みたいなクレジットで...)ものの、自ら「ヒットした本」を書いたことなどないので、ただただ「素晴らしい! おめでとうございます」と感服してしまいます。そんな終女さんがウィッチンケア第16号にご寄稿くださったのは、〈今「売れている」私の現状〉と題された、まさに今だからこそ書いておきたかったのであろう、おカネと人間関係、そして信念にまつわるエッセイ。(こういうこと、小誌は大歓迎です!)


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作品冒頭から、かなり具体的な印税収入額などが書かれています。ここで筆者が(たぶん、敢えて)文字にして列挙した「百万円」「五百万円」「一千万円」「五千万円」という金額(の価値?)をどう捉えるのか。筆者は後段で「物差し」という言葉を使っていますが、ここに並べている金額を、終女さんはあくまでも「自分の物差し」で計って値踏みしているのです。一見、挑発的な物言いでありながら、じつはかなり冷静で、しかも用心深い。「虚弱に生きる」が多くの読者の共感を得たのは、この「自分の物差し」で自らと率直に向き合い、丹念に対処法を探り、世の中との折り合いをつけてきた姿勢があってこそ、だと思えるのです。


「売れた」ことによる人間関係の変化についての記述も、私には「攻めてるようで謙虚」に読めました。「先生」という言葉をリトマス試験紙に自分が人として見られているのか商品として見られているのかを測りつつ、では「商品としての自分」は誰がどうやって生み出したのかについても思いは至っているし。あっ、終女さん特有のユーモアも、本作全般に含まれていて思わずくすりと笑ってしまいます。〝この一ヶ月の間で私は、うっかり依頼と違う内容を書いた原稿を送り、イベントの告知文案で名前を「終電を絶対に逃さない女」と間違えられているのに気づかずOKを出し〟...これって、いわゆるキャパオーバーの典型例ではないですか! とにかく、「虚弱に生きる」読者にはぜひ読んでもらいたく、筆者を終女先生と呼ぶ方には、ちょっと隠しておきたい一篇です。そして終女さん、じつは小誌前号に虚弱をテーマにした小説を寄稿しています。ご興味のある方は、ぜひぜひ!!

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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E
 若い頃から続く原因不明の身体の不調や体力不足を「虚弱」という切り口で語ったことが画期的だと言われているが、そのアイデアは私のものではない。そのアイデアへの賞賛は、虚弱体質についての対談を提案してくれたライターのヒオカさんや、虚弱体質についてのエッセイを企画してくれた担当編集さんなどにまず向けられるべきものではないか。虚弱の原因を探るでもなく、虚弱を治す方法でもなく、ただ虚弱であることについて語ることの、潜在的な需要を見抜いた人たちに。私はまったくもって、見抜けなかった。
 確かにその上で、内容は私にしか書けない本である自負はあるし、そこをちゃんとわかって褒めてくれるのは嬉しい。だが、「売れている」というだけですごくて偉いみたいな扱いをされると、途端に私の心はさ──っと遠くに逃げていく。私が持っていない、持たないようにしてきた物差しで測られることから、咄嗟に距離を置こうとする。

~ウィッチンケア第16号掲載〈今「売れている」私の現状〉より引用~

絶対に終電を逃さない女さん小誌バックナンバー掲載作品:〈二番目の口約束〉(第14号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈ちょっと疲れただけ〉(第15号)

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Vol.16 Coming! 20260401

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