2026/04/30

vol.16寄稿者&作品紹介10 蜂本みささん

 ウィッチンケア第12号からの寄稿者・蜂本みささんの生み出す小説は毎回、なんとも「座りが悪い」というか「居心地が微妙」というか...あっ、これ、褒め言葉として表現していますが、とにかく独特の世界観をもとに描かれた作品が届くので、私(←発行人)はつねに面食らいつつも、楽しく拝読しています。なんと言いますか、決して「魔界が物語の舞台」とか「主人公が特異な能力の持ち主」とか、そもそもの設定が特殊なのではなく、むしろどの作品にも普通の日常を生きる「おれ」や「私」が出てくるんですけれども、でも、読み進めるうちに、主人公の生活している空間が異世界のように感じられる不思議。今号への寄稿作〈パッチワークの傭兵〉も、わかりやすく言えば「『私』のスキマバイト体験記」なのですが、なんでこんなことになるの、だ、か!?


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ネット上で好条件のアルバイトを見つけた「私」は、まず郊外にある◯◯社にて警備の仕事に就きます。警備員の制服を着たおじさんから棒を渡され、〝勤務中は支給のヘルメット着用のこと〟なのだそう。初日の四時間は何事もなく過ぎ、仕事のペアになった中里さんからは◯◯社と道向こうにある●●社との関係などについて聞いたが、「私」には〝が複雑すぎてよくわからなかった〟と...ええと、私なりに説明しますと、この◯◯社と●●社の関係は、本家と元祖で後継の正当性を争っている老舗の和菓子店、みたいな関係のようです。
タイトルにある「傭兵」の意味は作品中盤、物語が動き出すとわかってきます。でも本作が一筋縄でいかないのは「私」の立ち位置が...ほんと、筆者の生み出す小説の主人公は、つねに「独自の倫理観」で一貫した行動をとるので、それをここで書いちゃうともったいなくもあり、どうかみなさま、小誌を手にしてお確かめのうえ、作品をお楽しみください。

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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E


 中里さんはウィキペディアを参照したとおぼしき経営者一族の家族関係や経営会議で起きた流血事件を解説してくれたが複雑すぎてよくわからなかった。海外ドラマファンに最新シーズンのあらすじをまくしたてられているような感じで、もしかしたら中里さんもよくわかっていないのかもしれない。とにかく別企業になって関係が落ち着いたかと思いきや、かえって緊張感が高まっているらしい。
「だから、ほら」
 中里さんが向かいの敷地を指さした。その時まで道向こうの門は無人だと思っていたが、よく見ると両脇の塀から一つずつ、ヘルメットをかぶった頭が突き出ているのが見えた。プールの監視員が座るような高い見張り椅子に腰掛けて警備しているようだった。
「それを聞くと、この棒も物騒に思えてきますね」と私は言った。

~ウィッチンケア第16号掲載〈パッチワークの傭兵〉より引用~

蜂本みささん小誌バックナンバー掲載作品:〈イネ科の地上絵〉(第12号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈せんべいを割る仕事〉(第13号)/〈おれと大阪とバイツアート〉(第14号)〈編み物前線〉(第15号)

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2026/04/29

vol.16寄稿者&作品紹介09 宮崎智之さん

 ウィッチンケア第9号に掲載された〈極私的「35歳問題」〉以来、連続してご寄稿くださっている文芸評論家/エッセイストの宮崎智之さん。近年は〈随筆復興〉を掲げ、令和の〈エッセイ・ブーム〉を牽引する活躍が注目を浴びています。精選日本随筆選集「孤独」「歓喜」という随筆アンソロジー(いずれもちくま文庫)の編者を務めたり、文芸誌「随風」の中心メンバーとしてメディアやSNSでも積極的に情報発信。そんな宮崎さんの小誌今号への寄稿作は、おそらく最近のアクティヴさの核となっているご自身の思いを、かなり直球で綴った一篇です。


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タイトルは〈文学は社会の役に立つのか〉。...そもそも「社会の役に立つ」とはどういうことなのか、いや、そもそもそもそも、ここで言う「社会」とはなにを指しているのか? みたいな堂々巡りに陥りそうなテーマ設定でもありますが、さすが宮崎さん。小誌での数千字という枠内で、端的にひとつの論点を示しています。キーワードは「感受」(感受の幅、とも)。文学によってこれを身につけられる、という一点においてだけでも〝筆者はこの議論に対しては明確に、文学部で学んだこと(つまり文学)は役に立つと考えている〟と、きっぱり。ちなみにClaudeにも尋ねてみると、こちらは“これは古くて深い問いですね。結論から言えば、役に立つと思いますが、その「役立ち方」は功利的な意味とは少し異なります(以下略)”と。mmm、でもこの回答、多少なりとも私(←発行人)の属性を知ったうえでの、AI的な慮りも感じられるなぁ。
〝感受とは、多くは実体験によって得られる能力だが、残念ながら実体験は先取りすることはできない。そして、いくら知識や情報があっても、感受がその有用性に反応しない、感受の幅がそこに至らない場合には、社会にも人生にも役に立てることができない〟という宮崎さんの一文を読んで、私が思い出したのは夏目漱石の、あの有名な「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。」でした。さて、「精神的に向上する」と「感受の幅を広げる」に類似性を感じた私の読みは合ってるのか、否か。ぜひ小誌を手にとって、宮崎さんの論考を読み込んでみてください。

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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E
感受の幅を広げなければ、人は過ちをおかし続ける可能性があるのだ。その負のループから抜け出すために有効なのが文学である。まず言語芸術たる文学は、その芸術性に親しむことによって、感受の幅を広げる作用がある。もちろん語彙の獲得も、感受の幅を広げる作用がある。語彙や言葉の運用能力は、人間の思考に直結するから。大切なことなので強調しておくと、言葉は情報伝達のためだけに使われるわけではない。情報だけ伝達したいならば、回覧板だけで十分なはずである。情報伝達とは言葉の持っているごく一部の作用に過ぎず、言葉はもっと多様な側面を有している。単体の語彙を獲得することも大切であるものの、文学は言葉でつくられた世界である限り、作品でひとつの秩序を形成するる。音楽の場合、一音でもズレたらその作品の完璧性が損なわれるということもあるが、文学の場合も同様のことが起きる。

~ウィッチンケア第16号掲載〈文学は社会の役に立つのか〉より引用~

宮崎智之さん小誌バックナンバー掲載作品:極私的「35歳問題」〉(第9号 & 《note版ウィッチンケア文庫》)/〈CONTINUE〉(第10号)/〈五月の二週目の日曜日の午後〉(第11号)/〈オーバー・ビューティフル〉(第12号)/〈書くことについての断章〉(第13号)/〈人生の「寂しさ」について〉(第14号)〈補欠論〉(第15号)

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2026/04/28

vol.16寄稿者&作品紹介08 美馬亜貴子さん

 美馬亜貴子さんの今号への寄稿作は、ご自身のキャリア(元シンコー・ミュージックで雑誌「クロスビート」の編集部所属)を活かした、21年後の未来を舞台にした小説です。主人公の「僕」はどうやら大学生で、ロックが好き。しかも〝特に好きなのは1990年代から2000年代初頭のロック〟ということなので、50年前の...今(2026年)から50年前だと考えると、グラム〜パンクあたりが好きな大学生男子、という感じでしょうか。いなくはなさそうだけれども、でも、昨今ですらすでに「ロックを聴いてるのは年寄り」みたいな風潮はあるわけで、2047年の世の中でも、果たしてロックは鳴っているのか?


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本作での設定では、〝渋谷にある、日本で唯一のコンサート再生専用シアター『リプロ』〟に行けば、〝名画座のような感じで毎日「歴史上の名演」を体験することが出来る〟とのこと。「僕」はここで1985年の『ライヴエイド』のクイーン、1996年のオアシスのネブワース公演、ザ・バンドの『ラスト・ワルツ』、1966年の日本武道館でのビートルズ来日公演、そして1997年7月26日の初回フジロックなどを体験するのですが、それらの感想がなかなか的外れ的に的を射ていて...というか、まさに美馬さんの専門分野であるがゆえに、ディテールを知ったうえでの「2047年の若者が言いそうなこと」になっていておもしろいのです。とにかく、全編に渡って粋な悪戯が散りばめられていて、音楽に詳しい人ほど気付きが多いはず。


タイトルの〈2047年のフジロック〉、私(←発行人)はダブルミーニングだと思いました。「2047年に僕(と隣席の老人)が『リプロ』で体験した初回フジロック」と「2047年に開催される、僕がこれから体験してみようと思うフジロック」の。そして作中ではレッチリ(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)が重要な役割を果たしていまして──そういえば先日原宿を通りかかったら古着屋に28万円のレッチリのTシャツが吊るしてあってびっくりでしたが──同バンドが伝説となった初回フジロックに対する「僕」と「老人」の見解の違いも、まさにディテールをご存知な筆者らしい落としどころに描かれています。

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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E
 レッチリのようにメンバーを変えながら何十年も続いているバンドやアーティストは結構いる。たとえばKISSやスリップノット、コールド・プレイ、ピンク・フロイド、ラモーンズ、レディ・ガガ、カニエ・ウエストなど。いずれも縁のある人物が存続させる権利を買い取って継承している。ちなみにビートルズとマイケル・ジャクソンだけは「止め名」になっていて誰も継ぐことは出来ないが、その代わり彼らの楽曲はパブリック・ドメインなので誰もが自由に演奏することが出来る。
 長く続いているバンドの良いところは、曲が共通認識されているので世代が違っても話しやすいこと。その一方で、同じバンドのファンでも好きになった時期が違うとメンバーも違うし、ライヴでよくやる曲も違うので、まったく話が合わないこともある。90年代〜2020年代のラインナップのファンが圧倒的に多いレッチリでは後者のようなことがよく起こる。
 僕に話しかけてきた件の老人も今のレッチリにはまったく興味がないそうで、「今のはキレイすぎる。いいところだけ継いだってダメなんだ」とわけのわからないことを言っていた。悪いところをわざわざ継ぐことはないだろう、と僕は思う。良くないところを改善していくからバンドは進化するし、長続きもするのだから。

~ウィッチンケア第16号掲載〈2047年のフジロック〉より引用~

美馬亜貴子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈ワカコさんの窓〉(第5号)/〈二十一世紀鋼鉄の女〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈MとNの間〉(第7号)/〈ダーティー・ハリー・シンドローム〉(第8号)/〈パッション・マニアックス〉(第9号)/〈表顕のプリズナー〉(第10号)/〈コレクティヴ・メランコリー〉((第11号)/〈きょうのおしごと〉(第12号)/〈スウィート・ビター・キャンディ〉(第13号)/〈拈華微笑 ~Nengemisho~〉(第14号)〈生存学未来論〉(第15号)

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2026/04/27

vol.16寄稿者&作品紹介07 武田徹さん

 前号(ウィッチンケア第15号)には詩人・茨木のり子のあまり知られていない一面にスポットを当てた一篇をご寄稿くださった武田徹さん。今号への寄稿作は茨木よりもう少し前の世代の詩人・草野心平(1903〜1988年)についての論考です。草野といえばカエルをモチーフにした擬音語やユーモアあふれる詩が多く、一般的には戦後民主主義を体現した昭和の代表的な詩人、というイメージで語られてきた人物。武田さんは、そんな〝草野心平という詩人が気になっている〟と冒頭で書き、続いて、その理由を以下のように──〝それは草野が実は極めて熱心な戦争詩の書き手でもあったからだ〟と。


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作中に引用されている「大東亜戦争第二年の賦」という詩には、たとえば「われら微塵も平和を思ふな。戦ひはつづく。戦ひはつづけ。」といった、かなりきな臭い言葉が連なっています。武田さんは瀬尾育生の『戦争詩論1910–1945』、井筒俊彦の『神秘哲学』などを参照しつつ、「詩」という文芸ジャンルに特有な「言葉」の力について考察しています。たんに草野を糾弾、というよりも、創作者(=詩人)が無責任に陥るやもしれない「詩」の超越性/神秘性について...このあたりは、ぜひ小誌を手にしてご一読ください。
作品終盤では、現在のネット空間に飛び交う言葉の危うさについても言及されています。〝ワンフレーズの賛美と断罪、バズるスローガンなど、短い言葉が周囲の余白の中で飛び道具のように使われる〟という筆者の一節から私(←発行人)が思い浮かべたのは、"Make America Great Again"とかいう、赤い野球帽...Anybody home?。…これまでの武田さんの寄稿作の中でも、今作にはかなり厳しい批評性を感じました。昨今の時代の風向きを鑑みれば、今後、令和の(戦時下の)草野心平が現れて、無責任に詩の言葉を拡散するかもしれない──そんな危機感ゆえ、なのかな。〝戦争協力した文学者は草野以外にもたくさんいた。しかし戦時中の活動をなかったもののようにして戦後に平和を謳う白々しさにおいて草野に勝る詩人は見当たらないのではと思う〟...厳しいです。

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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
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ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E



 しかし、そもそも詩はなぜ超越性を身に纏うことができたのか。たとえば井筒俊彦は『神秘哲学』で「言詮不及! それが神秘家の我々にたいする最後の言葉である」と書いている。言辞を弄して経典の類の言葉を解説する作業はむしろ真理から遠ざかる。言葉がそこにあること自体が神秘なのであり、ただそれに向き合い、受け入れるべきなのだ、と。こうした神秘に対するのと同じ姿勢をモダニズムの詩も求める。それは情緒や事実を叙する言葉ではない。その言葉がそこにあること自体が詩の奇跡なのだ。
 だが、そこには逆説があった。説明的言辞を伴わずに裸のまま示された詩の言葉は、前後の文脈によって縛られる散文の言葉以上に、多くの解釈を許す。散文でも前後の文脈に縛られた一連の言葉の連鎖からなる「行」と「行」の間に言語化しない思いが込められるが、詩文では行間だけでなく、語と語のつながりも自在であり、いたるところに解釈が入り込む余白が用意されている。
 特に草野は余白を積極利用した詩人だった。たとえば「冬眠」は●だけが印されたシュールな作品でもはや余白しかない。だからいかようにも解釈できる。
 もちろん、どの解釈も詩そのものからは遠ざかってゆくので、詩の超越性を真摯に極めようとする詩人であれば一切の解釈を拒み、徹底して孤高の存在であるべきだろう。しかし多くの解釈を誘う詩が多くの愛好者を得るのもまた現実であり、それに応えようとする詩人もいる。中には詩には多様な解釈がありえるので言葉の責任を取らされることはないはずだと甘えて、時代や政治が求める言い回しをだらしなく使う詩人もいよう。

~ウィッチンケア第16号掲載〈蛙たちの戦争 〜草野心平と詩的無責任をめぐって〜〉より引用~

武田徹さん小誌バックナンバー掲載作品:終わりから始まりまで。〉(第2号)/〈お茶ノ水と前衛〉(第3号)/〈木蓮の花〉(第4号)/〈カメラ人類の誕生〉(第5号)/〈『末期の眼』から生まれる言葉〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》〉/〈「寄る辺なさ」の確認〉(第7号)/〈宇多田ヒカルと日本語リズム〉(第8号)/〈『共同幻想論』がdisったもの〉(第9号)〈詩の言葉──「在ること」〉(第10号)/〈日本語の曖昧さと「無私」の言葉〉(第11号)/〈レベッカに魅せられて〉(第12号)/〈鶴見俊輔の詩 ~リカルシトランスに抗うもの~〉(第13号)/〈立花隆の詩〉(第14号)〈いくじなしのむうちゃん!〉(第15号)

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2026/04/26

vol.16寄稿者&作品紹介06 姫乃たまさん

 今年2月に「なぜかどこかに帰りたい」を上梓した姫乃たまさん。ウィッチンケアには掌編小説〈クランベリージュース〉を掲載した第12号以来の登場でして、おかえりなさい。じつは姫乃さん、小誌第6号と第7号にも小説をご寄稿くださっていまして(下記《姫乃たまさん小誌バックナンバー掲載作品》欄ご参照)、いまではめったに書店に出回らないその2冊、発行人直営のBASESTORESでなら残部少ですが入手可能。もちろん、某マーケットプレイスみたいなことはなく、定価/新品でございます。両作品とも時流に左右されない名作なので、ご存知なかった方はぜひぜひ!

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さて、姫乃さんのウィッチンケア第16号への寄稿作は〈負けないで 〜閉鎖病棟入院日記〜〉。あの、東京2020オリンピックが1年延期となった、コロナ禍の真っ只中の夏のできごとを、日記形式で綴った一篇です。冒頭に〝地下アイドル卒業後、双極性障害をこじらせていた私は度重なる自傷や救急搬送などを経て、2020年の夏を精神科病院の閉鎖病棟で過ごしました〟との説明があり...ええと、私はたしか、姫乃さんの活動10周年記念公演「パノラマ街道まっしぐら」(2019年4月30日)の少し前に、LOFT9 Shibuyaでのイベントでお目にかかって写真集「私小説」を買った記憶があるのだが...とにかく、記念公演が大盛況だったことはネットで知っていたものの、その後の経緯は、本作で初めて詳しく知りました。


それにしても、ご自身の尋常ではない体験、とくに7月30日と31日の「ご自身そのものが尋常ではない」状況を、ここまで冷静(冷徹!?)にテキスト化できてしまう、筆者の「表現者としての業」に感銘を覚えています。しかも、本作中の「私」はこんなにエキセントリックなのに、怖ろしい...もとい、素晴らしいことに、とってもチャーミングでポジティヴな生命力さえも感じさせるのですから。7月30日の日記にさり気なく挟み込まれた〝ギャグとホラーが紙一重であるように、シリアスな状況もまた笑いと紙一重だ〟という一文に、私(←発行人)は姫乃さんが無事帰還できた理由の一端を垣間見たような気がしています。
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ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E

 8月4日

 夜が怖い。厳密には消灯時間が怖い。
 デイルームのほうから患者さんたちの賑やかな声や、テレビの音が遠くに聞こえてくる時は、病室のベッドでうとうとしているのだけど、消灯時間が近づいて21時に廊下の電気が消え、22時にデイルームの電気が消え、さあ寝ましょう! となると緊張してしまって、同じベッドの上で完璧に目が覚めてしまう。
 病室には時間を知る道具が無いのでわからないけど、毎晩電車の音がしなくなった後まで、だいたい二時間くらいは猫のぬいぐるみを抱いて、暗闇で目を閉じたまま寝返りを打っている。時折泣いてしまう。
 こんな弱虫でよくいままで働いてこれたなと思う。同時に、こんなに弱虫だから働いてきたのだとも思う。
 子どもの頃、時折訪れる眠れない夜の恐怖は今でも鮮明に覚えている。
 いつもは起きている家族たちが眠っていて、窓明かりに照らされたシーツの影が皺だらけの老婆に見えて恐ろしかった。夜は私が眠らなければ、永遠に続くように感じられた。
 あの夜の恐怖を踏みつけるように、たくさんの夜を遊び、働いて、生きてきた。
 そしていま、またあの夜の中にいる。

~ウィッチンケア第16号掲載〈負けないで 〜閉鎖病棟入院日記〜〉より引用~

姫乃たまさん小誌バックナンバー掲載作:21才」(第6号)/「そば屋の平吉」(第7号)〈クランベリージュース〉(第12号)


 
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Vol.16 Coming! 20260401

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