2026/05/21

 3月クララさんからウィッチンケアにご寄稿いただくのは、今号(第15号)で3作目。第14号掲載の〈ゼロ〉、第15号掲載の〈ここから始まる〉。いずれも死者が登場する掌編小説でしたが、今回の〈はりこ〉は一転、生命誕生の物語です。めでたしめでたし...なんですが、でも、なんだかシニカルなハッピー話になってしまっているのは、なぜだ? そして今作も、ここで話の設定をネタバレすると、ちょっともったいないことになりそうですので、以下、淡々と差し障りないような紹介に努めます。


画像
夫婦話です。夫の名前は「ラン」で、「ラン」は妻を「ヨピちゃん」と呼んでいます。「ヨピちゃん」は売れっ子のアクセサリー作家で、「ラン」は妻のアシスタント。この家庭の生計は「ヨピちゃん」によって成り立っており、「ラン」曰く〝口の悪い友だちは、僕のことをプロのヒモと呼んでいる〟と。まあ、ヒモといっても、その語り口からしていにしえの「女衒型ヒモ」ではなく、「主夫型・癒やし型ヒモ」のようですが。それで、この2人は〝はほとんど口論なんてしたことがなかった〟のですが、「ヨピちゃん」の妊娠がわかってからは、毎日が喧嘩なのだそう。...と、ここまでの展開だと、たとえば「産まれた子供はどっちが育てる」とか「ヨピちゃんの仕事は続けられるのか」とか「ランも働きに出るのか」とかみたいな話? 全然、違います。3月さんという作家は、そういう方面から軽やかに超越(逸脱!?)しちゃうんで、そこが素晴らしい。
場面が医師との面談に移ると、唐突に登場する、作品タイトルにも連なる「マッシ」。これがなんなのか、ここで書いてしまうとネタバレ。素材や形状の説明とかはあるんですよ。〝「マッシはジュゴンの陰嚢を加工して作られています」〟とか〝触ると表面は和紙のようにかさかさしていた〟とか。でもまあ、描写を頼りに脳内で想像してみても、なんともよくわからない。ということでして、いったい「マッシ」がなにで、この夫婦は「マッシ」でなにをしようとしているのかは、ぜひ小誌を手にとってお確かめください!


画像
ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E


 担当医が、僕とヨピちゃんの、触れるか触れないかくらい空いた肩と肩の隙間から窓の外を伺うように目を細めながら、うやうやしく尋ねた。
 ヨピちゃんの尖った鼻がこちらを向く。ヨピちゃんのそれは、目よりも雄弁に僕に話しかける。
 さあ、あなたの意思と愛を、はっきりと宣言して。
「マッシでお願いします」
 ヨピちゃんの鼻先に促されるまま、僕は今朝練習した通りに答えた。
 医師は「よくご決断されましたね」と、やっと僕に目の焦点を合わせて微笑みかけてきた。

~ウィッチンケア第16号掲載〈はりこ〉より引用~


3月クララさん小誌バックナンバー掲載作品:ゼロ〉(第14号)/〈ここから始まる〉(第15号)

 ※ウィッチンケア第16号は下記のリアル&ネット書店でお求めください!
 

 
 
【最新の媒体概要が下記で確認できます】

https://yoichijerry.tumblr.com/post/810515107182460928/


vol.16寄稿者&作品紹介32 荻原魚雷さん

 ウィッチンケア第8号からの寄稿者・荻原魚雷さんはSNSを一切やっていません。ネット上での唯一の拠点はもう20年も続いている「文壇高円寺」とい名称のブログ。今号(第16号)への寄稿作〈ブログの話〉では、その「文壇高円寺」という名前の由来や、なぜブログだけを続けているのかについての雑感などが語られています。私(←発行人)は1999年12月にhtmlで個人ホームページを開設したんですが、運営元の「teacup.」がサ終になり、2022年に消滅してしまいました(テキストデータだけはある場所に保存済み)。萩原さんのブログは天下のGoogleが運営しているBloggerなのでそんな悲劇には見舞われにくいのでしょうが、でも作中には〝そう遠くない将来、消えてしまいそうな予感がある。デジタルの世界も諸行無常あり〟なんて一文もあって...デジタルの諸行無常、言いえて妙だなぁ。


画像



荻原さん自身も〝ブログは衰退した。もはや「オワコン」とすらいわれなくなった〟という認識のようなのですが、それでも筆者にとっては生活の一部になっている様子が伝わってきます。備忘録としての役割が大きそうですが、それだけではない、もの書きとしてのモチベーションに関わっているような。〝四、五年前に友人のすすめでツイッター(その後、X)のアカウントを作った。すぐやめてしまった〟との記述もあって...私ももしウィッチンケアを発行していなかったら、Xはときどき覗いてみるだけのものでよかったかもしれない(いや、一切見ないほうが精神衛生上よろしいかもしれない)。
作中には、筆者初の単行本「古本暮らし」(晶文社)の誕生にまつわる話なども語られています。編集者・中川六平さん(故人)との酒場でのやりとり、思わず笑ってしまいますよ。また、ブログを介したかつての交友関係についても触れられていまして、近年はネットの昔話をすると「インターネット老人会」とかって揶揄されちゃいますが、確かにブログ全盛期くらいまでは、ネットの世界って、もうちょっとほのぼのとしていたかも。月日は流れましたが、巷のノイズなど我関せず荻原さんの今作の冒頭は、〝年をとると過去が長くなり、未来が短くなる。昔をふりかえってばかりいる。時代についていけない。そのことすらどうでもよくなっている〟と、ある意味では清々しい。みなさま、ぜひ小誌を手にとって、荻原さんとブログとの関係をご一読ください。


画像
ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E


 最初の単行本『古本暮らし』(晶文社)が刊行されたのは二〇〇七年五月。ライター生活十八年、一冊目の本である。三十七歳。本は出すことはできた。雑誌の連載の声がかかった。でも収入は増えなかった。ライターの仕事は無署名で数をこなしたほうが儲かるのである。
 ブログの話に戻そう。
「文壇高円寺」というタイトルは二十代後半、友人が開設したホームページに間借りする形で書いていたエッセイの題名からとった。身辺雑記+評論という形式の文章を書くきっかけになった。
 そのあと一箱古本市をはじめ、古本関係のイベントに参加するときは「文壇高円寺古書部」という店名で古本を売った。
 ブログのタイトルに「文壇高円寺」とつけたとき、意地でもこの町に住み続けようとおもった。そんなふうに自分の人生を縛った。同じ町に住み続ける人生、いろいろな町に住む人生──両方は選べない。


~ウィッチンケア第16号掲載〈ブログの話〉より引用~


荻原魚雷さん小誌バックナンバー掲載作品:〈わたしがアナキストだったころ〉(第8号)/〈終の住処の話〉(第9号)/〈上京三十年〉(第10号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈古書半生記〉((第11号)/〈将棋とわたし〉(第12号)/〈社会恐怖症〉(第13号)/〈妙正寺川〉(第14号)/〈先行不透明〉(第15号)

 
※ウィッチンケア第16号は下記のリアル&ネット書店でお求めください!
 

 
 
【最新の媒体概要が下記で確認できます】

https://yoichijerry.tumblr.com/post/810515107182460928/



 

2026/05/20

vol.16寄稿者&作品紹介31 木俣冬さん

 ウィッチンケア第13号からの寄稿者・木俣冬さんは2015年から毎日朝ドラをレビューし続けていまして、現在はDIAMOND onlineにて「風、薫る」について...私(←発行人)も長年の習慣で見続けております。直美とバーンズ先生は好きなんだけれども、りんのキャラがイマイチ掴みきれておらず、今後の展開に期待。あと、個人的には「湾岸署の雪乃さん」がりんの母親役なのも...そりゃ私も歳をとったよなぁ、と。あ、スイマセン、話が逸れてる。ええと、それで、木俣さんには「小誌ではとくにご自身の専門分野にはこだわらず、自由な題材で」と寄稿依頼して(いるつもりで)おりまして、だからでしょうか、第16号に届いたのは〈猫が消えた。〉と題された、筆者のお住まい近くの地域猫(町ネコ)と、近隣の再開発についてたっぷりと語りもする一篇でありました。私は2013年まで下北沢に住んでいましたので、作中に描かれているような住民と地域猫が共存する風景、覚えているのですが、でもあれから十数年。〝猫たちは不思議なことに、ひたひたと行われていた再整備が住人の認知するところになる前からぷっつり消えていた。さすが人間よりも機を見るに敏、路地裏集会で話し合って、みんなである晩、ドロンしたのだろうか〟という記述もあり...そうか、2026年の東京都心部の風景は、そんななのか、と。


画像


それで、私は少し↑のほうで「地域猫(町ネコ)と、近隣の再開発についてたっぷりと語りもする一篇」と書きましたが、じつは本作、中盤から大きく舵が切られて、それまでの猫話を踏まえたうえでの朝ドラの話となります。〝ここでなぜ唐突に朝ドラ? いや、この原稿は実は朝ドラが題材で猫は長いアヴァンだったのである〟...圧巻の切り返し。そして、この先は筆者の真骨頂。さすが、私のような素人目線で「今作は面白い/つまらない」みたいな凡庸なことは仰りません。朝ドラのヒロインの変遷に対する細かい観察眼は、まさに前半部に登場した「茶トラ」「美猫」「タビ一族」へのそれと同じ。
1961年に始まった朝ドラでは〝長きにわたり、女性のロールモデルになりやすいキャラクターが造形されてきた〟が、ここ数作では〝時代が変わるにつれ、そこからはみ出したヒロイン像も求められるようになって〟いるのではとの分析、頷いてしまいます。そして本作の終盤では〝長いアヴァン〟があったからこその、木俣さんならではの、未来の朝ドラへの提案が。これが実現したら面白いだろうな、と思うのですが...それがどんな提案なのかは、ぜひ小誌を手にとってお確かめください!


画像
ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E


 せめて、かつてこの素朴ななんの変哲もない緑道に、タビ一族がいたことを記録しておきたい。最初に私が出会った白足袋猫を私がそのまま「タビ」と勝手に呼んでいた。タビは大きく堂々として風格があり人間に媚びない猫であった。旅人という意味あいも込めて「タビ」だった。
 やがて緑道界隈には白足袋猫が増えていった。おそらくタビの子孫に違いない、そう思った。やつは堂々とした風格で子孫を増やしていたのだろう。季節が過ぎていくなかで、片方だけ白足袋だったり、黒猫だったり、微妙に違うが白足袋の黒猫が緑道を闊歩した。ある数年間は双子のきょうだいのように、いつも一緒で決して離れない白足袋猫の時代があった。昭和感満載の二階建てアパートの一階に猫好きらしい女性が住んでいて、主にその人に面倒を見てもらっていたようだ。その一階のコンクリートの地面によく寝そべっていた。
 猫の寿命は15年〜30年くらいだが、野良猫は3〜5年と短いそうだ。やっぱり野生で暮らすのは大変なのだなあ。猫たちはどんどん代替わりしていき、やがてサビ猫が現れた。これはタビ一族かどうかわからなくなり、その頃から周辺の古い家(緑道の歴史より長いくらいの)が建て替わっていった。


~ウィッチンケア第16号掲載〈猫が消えた。〉より引用~



木俣冬さん小誌バックナンバー掲載作品:まぼろしの、〉(第13号)/〈アナタノコエ〉(第14号)/〈イケメンという言葉の黄昏に〉(第15号)

 ※ウィッチンケア第16号は下記のリアル&ネット書店でお求めください!
 

 
 
【最新の媒体概要が下記で確認できます】

https://yoichijerry.tumblr.com/post/810515107182460928/



 

2026/05/19

vol.16寄稿者&作品紹介30 中野純さん

 前号(第15号)では〈男性の乳首には隠す価値がある〉という、かなり目からウロコ的な持論をご開陳くださった中野純さん。さて、ウィッチンケア第16号ではどんな課題に対して目鱗させてくれるのか、とワクワクしていたら、今回はご自身の専門分野である、光と闇に関わる案件でのご寄稿であります。中野さんの近著といえば、たとえば『「闇学」入門』(集英社新書)『ヤマケイ新書 ナイトハイクのススメ 夜山に遊び、闇を楽しむ』(山と渓谷社)『闇で味わう日本文学: 失われた闇と月を求めて』(笠間書院)と、かなりダークサイド視点。そんな中野さんが今作で指摘しているのは、光による植物虐待...えっ!? あの、クリスマスとか桜の頃とかに樹木がライトアップされてロマンチックなムードを醸し出している風景、あれは植物虐待なんですか?




昨今の巷によくある電気系ライトアップ(「キレイ!」)を筆者、冒頭では全否定です。〝植物は、降り注ぐ日光を浴びて光合成して、太陽に向かって生長していく。植物は上から照らされるための姿をしている〟...なるほど。〝つねに上からの光に気を取られて生きている植物を出し抜けに下から強く照らし上げ、当の植物だって注目されたくないと思っている彼らの裏側を、ことさらに明るくして目立たせまくるライトアップ〟...たしかに。〝植物は下から光を浴びるようにできていないから、不意打ちにもほどがある。植物虐待にもほどがある〟...仰るとおり、のような気がしてきた。このグイグイ持論の方へと読者を引き寄せていく中野さんの筆力、なかなか抗えません。


もはやライトアップ全般をメッタ斬りなのかと読み進めると、中盤以降は、さすが闇のスペシャリスト。〝反射光による下からの天然ライトアップ〟(水明かり/雪明り/砂明かりetc.)という、日本古来の美についての考察なども含めて、多角的に光と闇の関係を語っています。でも〝強い光による梅や桜や紅葉や歴史的建造物やなんやのライトアップが、異様だと思わずに美しがっているのが断じて気持ち悪いのだ〟...この一点だけは譲らず。みなさま、ぜひ小誌を手にとって、ご自身のライトアップ(「キレイ!」)感覚がどのようなものなのか、お確かめください。



ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E




 反射光による下からの天然ライトアップといえば、雪明かりもそうだ。枯山水の雪のような白砂も、反射による採光だけでなくライトアップも意識されていたかもしれない(せっかくなのでこれを「砂明かり」と呼ぼう)。慈照寺の銀沙灘は、その白砂が月光を反射して銀閣をライトアップする仕掛けだともいわれる。それはとてもやわらかいライトアップだ。水明かりも雪明かりも砂明かりも、非常に弱い間接光で、だからこそ幻想的で美しかった。そこを間違えてはいけない。月光の水明かりなどの場合、そもそも月光が日光の間接光だから、二重の間接光になる。それを電気の照明で踏襲する場合、下から光を当てることだけでなく、間接的にほんのり当てることも踏襲しないとおかしなことになる。直接強く当てると不気味になる。
 下からの強い直接光は、自然界ではほとんどありえない。つまり下から照らすライトアップは、太陽や月に対する下剋上ともいえる。下から照らすのはとても人間らしい。人工らしい。懐中電灯で顔を下からライトアップしてビビらすのも、上に影ができるという、ふつうありえない陰影になるからだ。それは一種のスポットライトだから夜全体の景色を埋没させてしまい、ライトアップされたものしか見えない、局所的で異様な昼間を作り出す。その異常さをあえて楽しむならそれはそれでいい。

~ウィッチンケア第16号掲載〈植物虐待より光れ自分!〉より引用~


中野純さん小誌バックナンバー掲載作品:十五年前のつぶやき〉(第2号)/〈美しく暗い未来のために〉(第3号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈天の蛇腹(部分)〉(第4号)/〈自宅ミュージアムのすゝめ〉(第5号)/〈つぶやかなかったこと〉(第6号)/〈金の骨とナイトスキップ〉(第7号)/〈すぐそこにある遠い世界、ハテ句入門〉(第8号)/〈全力闇─闇スポーツの世界〉(第9号)/〈夢で落ちましょう〉(第10号)〈東男は斜めに生きる〉(第11号)/〈完全に事切れる前にアリに群がられるのはイヤ〉(第12号)/〈臥学と歩学で天の川流域に暮らす〉(第13号)〈うるさいがうるさい〉(第14号)/〈男性の乳首には隠す価値がある〉(第15号)

 
※ウィッチンケア第16号は下記のリアル&ネット書店でお求めください!
 

 
 
【最新の媒体概要が下記で確認できます】
 

https://yoichijerry.tumblr.com/post/810515107182460928/

2026/05/18

vol.16寄稿者&作品紹介29 藤森陽子さん

 ウィッチンケア創刊号からの寄稿者・藤森陽子さんの今号(第16号)への寄稿作を読んで、私は少し懐かしい気持ちになりました、同時に一抹の寂しさも。藤森さんは「BRUTUS」「Hanako」等マガジンハウスの雑誌をメインに活躍するフリーランスのライターですが、じつは私(←発行人)も、フリーランスでの最初の仕事は、同社の「Tarzan」での、ヤマハのタイアップ記事。もちろん「先割り」(見開きや各ページのどこに写真を大きく配置するか、タイトルをどこに置くかなどのレイアウトを先に作成)でした。〈動かない文字たちへ〉と題された藤森さんの作品内では「カンパコ」と表現されていますが、カンパコ=先割りと捉えて問題ないはず。...ああ、思い出した。これは他社ですが、「先割り」を渡されて原稿を書いていたらAD的ポジションのデザイナーさまに呼ばれて「ここ、ちょっと5行ネーム入れたくなったんで、追加でなんか書いてくれる?」...ちなみに「ネーム」とはタイアップなどでの文章のこと。「なんか書いてくれる?」って...まあ、そういうのの反動で、私はいま文章優先の雑誌を作っているのかもしれん。


画像



作品前半には、雑誌業界に対するちょっと悲観的な筆者の雑感が綴られています。〝つくづく、雑誌のライターは絶滅危惧種だと思う〟とか、〝デジタルの世界ではあまたの書き手がいるけれど、雑誌というアナログな印刷物の、「動かない文字」を書きたいと思う後継者が見当たらないんである〟とか。いやいや、天下のマガジンハウスのオシャレな雑誌なら、書きたいと思う若い人、いっぱいいるでしょ、と思うんですが、でも現役バリバリの藤森さんがそう言うのですから、そうなのかもしれん。寄稿作冒頭の〝先日、後輩のライターが転職した〟のくだりは、まさに現状の具体例なのだし。
それでも、〝読む側は誰も気付かないような、吹けば飛ぶよなこだわりだけど、拙筆を「カンパコ」の中で完結させ、思った場所に単語を配置できたら気持ちがいいし、それなりの達成感もある〟と語る藤森さんの気持ち、わかるんです。カンパコ=先割りという制約は、いわば定型詩みたいなものだったり、あるいは歌詞(ライム)みたいなものだったり。つまり、テキスト職人の、腕の見せどころ。みなさま、ぜひ小誌を手にとって、藤森さんの匠技の神髄に触れてみてください!


画像
ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) 
ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E
 
 僭越ながら少し説明すると、そもそもウェブと紙では文章の組み立て方が全く違う。ウェブの原稿はスクロールの動きに合わせて上から下へと書いていくが、紙媒体は右上から左下へと視線の流れに沿って書いていくイメージ、と言いますか。
 そして自分がふだん携わるカルチャー誌や女性誌などではまず、レイアウトありき。アートディレクターが「見開きで見たときにいかに美しいか」を考えて組んだレイアウトに当て込んで文章を書く。
 さらに誌面の美しさに完璧を求めるならば、「カンパコで書く」ことが求められる。カンパコとはすなわち「完全箱組み」のことで、たとえばレイアウトが1行18文字詰め×10行であれば、10行目も18文字きっちりと埋めて「文字による美しい四角形」を作ることを意味する。なんだったら句読点はギリ、行末にくっつけられる〝ぶら下がり〞というルールを駆使し、1行19文字詰めに持ち込むことも多々ある。


~ウィッチンケア第16号掲載〈動かない文字たちへ〉より引用~



藤森陽子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈茶道楽の日々〉(第1号)/〈接客芸が見たいんです。〉(第2号)/〈4つあったら。〉(第3号)/〈観察者は何を思う〉(第4号)/〈欲望という名のあれやこれや〉(第5号)/〈バクが夢みた。〉(第6号)/〈小僧さんに会いに〉(第7号)/〈フランネルの滴り〉(第9号)/〈らせんの彼方へ〉(第10号)/〈上書きセンチメンタル〉(第11号)/〈おはぎとあんことジェンダーフリー〉(第12号)/〈梅は聞いたか〉(第13号)/〈富士の彼方に〉(第14号)/〈だいたい蒸籠で蒸すといい〉(第15号)

 ※ウィッチンケア第16号は下記のリアル&ネット書店でお求めください!
 

 
 
【最新の媒体概要が下記で確認できます】

https://yoichijerry.tumblr.com/post/810515107182460928/


Vol.16 Coming! 20260401

自分の写真
yoichijerryは当ブログ主宰者(個人)がなにかおもしろそうなことをやってみるときの屋号みたいなものです。 http://www.facebook.com/Witchenkare