2025/05/14

VOL.15寄稿者&作品紹介23 多田洋一(発行人)

 「ウィッチンケア」創刊号からの寄稿者である多田洋一さん(←私/発行人)は...って、今号でもまた「だれか紹介文を書いてくれないかな」などと思っているうちに時が流れ自分の順番が回ってきてしまいましたので、粛々と進めます。本作を書く動機、みたいな要素はふたつありました。ひとつは自分にとって縁の浅くない町・東京都渋谷区西原/上原あたりの個人的な記憶を(忘却する前に)書いておきたかったこと。もうひとつは、まあ、煎じ詰めれば噂話について。作中に出てくる「山崎さんの事務所」というのは、1988年頃に私が借りていたワンルーム・マンションからの発想/創作。私は20代半ば、社会不適合で勤め先を辞めてプーになっちゃいまして、実家にもだんだん居辛くなり、えいやと一念発起して、代々木上原駅東口を出てすぐのマンションの一室(当時の家賃は9万円)を仕事場とし、椅子と机とソファーベッド、リコーのコピー/FAX複合機(リース代は月2万)、SONYの留守番電話とワープロ(PRODUCE PJ-100)を揃えてフリーランス業を始めたのです。当初はもらえた仕事ならなんでも、という感じだったので...煙草にまつわる逸話はほぼ事実で(実際の打ち合わせは広告代理店内)、のちにナントカ・ピアニッシモという名称で販売されていたようです。制服のポケットに入れてても目立たない、薄い箱で。



噂話については...人が噂話好きなのは昔から変わらないとは思いますし、とくに著名人に関する都市伝説っぽいものは、私が中学生だった頃から友達のあいだで語られていたり、そうゆう系の雑誌に書いてあったり、それこそ〈便所の落書き〉を見て「本当!?」みたいなことも。ただ、インターネットが誰にとってもあたりまえの環境になってからの噂話は、質が悪いと思います。誰かが標的になって、飛蝗の大群みたいな言葉がその人を食い散らかしてる風景は、かなり厳しい。でっ、なぜだか分かりませんが(きっとアルゴリズムのせいだと思いますが)、近年私のブラウザーでは、なにかことが起こってトレンドワードをチェックすると、ほぼ必ず藤井セイラさんという方が怒っています。なぜ私は常に藤井さんのお怒りを共有するのか? 謎。
そんなインターネットですが、今回、拙作を読んでコメントをいただける方が見つかりました。Gemini/NotebookLM の2人の AI ホストさん。ちょっと、「代々木上原」を「だよぎうえはら」と読んでいたり、あと、私は拙作を小説として書いたつもりなのですがエッセイと解釈されたり(それだと、敢えて「悪いこと」を書いても、それを単に「悪いこと」として捉えられてしまう...)、でも、無料版初体験ででもここまで読まれてしまうのか! という驚き。ぜひ聞いてみてください。私の駄文より、内容紹介としては優れているかも!?
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ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15) 
発行日:2025年4月1日 
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号) 
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E
 世の中では新種の〝殺人〞が流行っている。
 この手のことに僕が最初に気付いたのは、写真家の荒木経惟に対して執行された時だったように記憶している。元ファッションモデルの女性が自身の被害をネット上で語って……じつは、僕は以前、アラーキーとある女優の対談を短い雑誌記事にまとめたことがあって──その際には〝ほんとに規格外の人物なんだなぁ〞という印象があったのだけれども──トーク中にアラーキーが女優に対して「オシモも良さそうだね」と屈託のない笑顔で言って、でも女優が冗談っぽく受け流してくれたので、和やかなままその対談は終わった。
 録音を聴き返してみて「オシモ」こそこの人らしき語感だ、と強い印象が残ったので、そのままテキストにして編集者に任せたが、書店に並んだ掲載誌に、その言葉は見当たらなかった。

~ウィッチンケア第15号掲載〈山崎さんの殺人事件〉より引用~


多田洋一小誌バックナンバー掲載作品:〈チャイムは誰が〉(第1号)/〈まぶちさん〉(第2号)/〈きれいごとで語るのは〉(第3号)/〈危険な水面〉(第4号)/〈萌とピリオド〉(第5号)/〈幻アルバム〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈午後四時の過ごしかた〉(第7号)/〈いくつかの嫌なこと〉(第8号)/〈銀の鍵、エンジンの音〉(第9号)/〈散々な日々とその後日〉(第10号)/〈捨てたはずのマフラーどうしちゃったんだっけ〉(第11号)/〈織田と源〉(第12号)/〈パイドパイパーハウスとトニーバンクス〉(第13号)/〈優しい巨人と美味しいパン屋のころ〉(第14号)

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2025/05/13

VOL.15寄稿者&作品紹介22 かとうちあきさん

 横浜の阪東橋近くで「お店のようなもの2号店」を営むかとうちあきさんの小誌今号への寄稿作は「宇宙人に会った話」と、タイトルからしてなんかどえらいストーリー性を感じさせますが、入稿時に私(←発行人)があまりビビらなかったのは、やはり前号への寄稿作「A Bath of One’s Own」の結末に驚愕し過ぎたからかもしれず...いや、でも、やっぱり今作も充分に奇想天外な、でもちょっともの悲しいお話でございました。主人公の「わたし」がその宇宙人と遭遇したのは〈五、六年ほど前の冬、風が強く吹いていた夜〉だそうで、場所は〈帰るのが面倒な時、まだちょっと呑み足りない時、定期的に野宿をしていた都心の公園〉なのだと。「わたし」に対してのファースト・コンタクトは宇宙人側からで、意思疎通は、どうやら日本語でOKのよう。会話を通じて宇宙人の正体が徐々に明らかになっていくのですが、なにが真実なのかは、なんとも雲を掴むような、なんとも。




ネタバレしないように紹介したいので、この宇宙人がどこの星雲のどんなできごとの末に地球に辿り着いたのか、みたいなことはここで詳らかにはしませんが、しかしこの出会いと、その後のちょっとした交流によって、「わたし」の平常心は浸食されてしまいます。作品後半にある〈「やれやれ、でも面白かったな」って咀嚼しやすい体験からはみ出たものを見てしまっているって動揺〉という一文が、「私」の心境をよく表しているように感じられました。蓋をしたくてもできない...やはりこれは浸食された、としか。


と、本作の核心部分には触れないままここまで書いてきましたが、もう読了後の方にはぜひ、作中の「宇宙人」って言葉、けっこう汎用性が高くて代替可能なんじゃないか、のようなことにも思いを馳せてみてほしいな、とも思うのです。たとえば「アメリカ人に会った話」でも「芸能人に会った話」でも...「死人に会った話」でだって成立しそうなところが、本作のやっかいな(と、いうか優れた)ところ。みなさま、ぜひ小誌を手に取って、宇宙人の正体をお確かめください!


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E


 その公園にはおそらくほぼ毎日まだ薄暗い四時くらいから掃除をしに来る人たちがおり、決まって六時半にはラジオ体操が行われています。
 定期的に野宿をしているもんだから、掃除をする人たちには「たまに寝ているへんなやつら」って認識され「よっ」って声をかけられる。ラジオ体操をする人たちとも顔見知りです。
 身体を動かして清々しい気持ちになったり、起きられずにごろごろしながら眺めたり。いつもラジオ体操の輪の真ん中にいるのは、指導士のユニホームである白いジャージ上下を着た七十代後半の女性で、その方のきりっとした動きを確認、ちょっとした会話ができると、うれしいなと思う。
 そのような公園のルーティーンに身 をゆだねたのち、わたしもおうちへ帰りました。汚部屋と言ってもまあ過言ではない、じぶんの部屋に。


~ウィッチンケア第15号掲載〈宇宙人に会った話〉より引用~


かとうちあきさん小誌バックナンバー掲載作品:台所まわりのこと〉(第3号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈コンロ〉(第4号)/〈カエル爆弾〉(第5号)/〈のようなものの実践所「お店のようなもの」〉(第6号)/〈似合うとか似合わないとかじゃないんです、わたしが帽子をかぶるのは〉(第7号)/〈間男ですから〉(第8号)/〈ばかなんじゃないか〉(第9号)/〈わたしのほうが好きだった〉(第10号)/〈チキンレース問題〉((第11号)/〈鼻セレブ〉(第12号)/〈おネズミ様や〉(第13号)/A Bath of One’s Own〉(第14号)



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VOL.15寄稿者&作品紹介21 長谷川町蔵さん

ウィッチンケア第13号(2023年刊)ではコロナ禍明けの渋谷、第14号(2024年刊)では2023年のハワイを物語の舞台として選び、掌篇小説をご寄稿くださった長谷川町蔵さん。第15号への作品はある時代のある場所が舞台でして、勘の良い人ならタイトルに使われている言葉だけでもピンとくるでしょうか、「ミックステープを聴いた朝」。この「テープ」というのは最近になって一部で再流行しているらしい「カセットテープ」由来の言葉...でも主人公の「俺」が持っているのはMDウォークマンで、入っているディスクの中身は“俺が今日の明け方、2台のCDプレイヤーとDJミキサーで遊びながら聴いた音楽をそのままライン録りしたもの”とのこと。それじゃぁMix TapeではなくMix Discなのでは、なんて言いそうな、そこの若い方! この「テープ」という言葉こそ、アナログ音源主流だった時代の音楽環境(とくにヒップホップ系)の尾骶骨、と受け止めていただければ幸いです。 映像の世界でも、デジタル主流になっても「VTRを巻き戻して」みたいな慣用句が、しばらく続いていたような記憶が...チャンネルやダイヤルは、回さなくなって久しいですが、って話が逸れていく。。




さすが音楽に造詣の深い長谷川さんの作品、「ミックステープ」に収録された曲名を追っているだけでも、「俺」の猟盤度の高さを楽しめるはずです。私は読了後、未聴だっただったじミニー・リパートン「Baby This Love I Have」と、ブランディ「I Wanna Be Down」をゲットしました。それで、本作が何年何月何日を描いているのかは、読了した方には分かるはず。冒頭部分にはキアヌ・リーブス主演の映画「スピード」にまつわる話なども出てくるし...あっ、でも、いや、このへんについてはこのくらいで、未読の方にはぜひ真っ新な状態で接してほしい作品なのです。話、意図的に逸らしてます!


「俺」の不動産ディーラーとしての仕事っぷりも細かく描写されていまして、好感が持てます。一所懸命頑張ってて、きっと給料のかなりの部分が音楽につぎ込んじゃって、みたいな人柄なのだろうな、と。SMAPの名曲「たぶんオーライ」に関する「俺」なりの分析も、今読むからこそ「そんな時代だったよ」とほろ苦くて。...ええと、話を逸らしたまま紹介文を終えます。最後にひと言、この一篇は私(←発行人)が思うに、小誌今号最大の衝撃作ですよ!


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E



 赤坂を過ぎた頃、流れはじめた曲に、俺は「あっ」と声を漏らしそうになった。その曲とは、SMAP「たぶんオーライ」。米国産R&Bに負けてないスムーズなトラックに乗せて歌われるのは、余計な仕事を押し付けられてジタバタする若手サラリーマン、つまり俺自身のことだった。この歌詞にリアリティを与えているのは、ロン毛になって女の子人気が爆発したキムタクではなく、プライドを捨ててバラエティ番組で笑いを取っている中居くんの方だろう。彼のワーキングクラス的哀感こそが、SMAPに他のジャニーズのグループとは一線を画す輝きを与えているのだ。
 そして中居くんほどではないけれど、俺もこの1年それなりに頑張った。その成果こそが、重要書類ファイルに入った購入申込書類一式と、封筒の中に詰まった購入申込金100万円なのだ。


~ウィッチンケア第15号掲載〈ミックステープを聴いた朝〉より引用~


長谷川町蔵さん小誌バックナンバー掲載作品:ビッグマックの形をした、とびきり素敵なマクドナルド〉(第4号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈プリンス・アンド・ノイズ〉(第5号)/〈サードウェイブ〉(第6号)/〈New You〉(第7号)/〈三月の水〉(第8号)/〈30年〉(第9号)/〈昏睡状態のガールフレンド〉(第10号)/〈川を渡る〉(第11号)/〈Bon Voyage〉(第12号)/〈ルーフトップ バー〉(第13号)チーズバーガー・イン・パラダイス〉(第14号)


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VOL.15寄稿者&作品紹介20 絶対に終電を逃さない女さん

 ウィッチンケア第14号に掌篇小説「二番目の口約束」をご寄稿くださった絶対に終電を逃さない女さん(以後「終女」さん)は、今年2月に刊行された自炊にまつわるエッセイアンソロジー「つくって食べる日々の話」(Pヴァイン)に〈それでも料理を好きになれない〉という一篇で参加しています。同書には小誌寄稿者の宮崎智之さんも〈「料理は大事」と人は言う〉を寄稿していまして、刊行記念として下北沢の本屋B&Bでおこなわれたイベント「自炊のよろこび、しんどさ、あるいはそのあわいのあれこれ」には、終女さん、宮崎さんとも登壇。同イベントのアーカイブは6月5日まで視聴できます。また昨年11月、現代ビジネスに終女さんの〈21歳で身体にガタ、10時間睡眠は必須…「若いのに体力がない」29歳女子が「体力ありき」の社会に思うこと〉という記事が掲載され、ネット上でかなり話題に...小誌今号への寄稿作は、その虚弱体質についてのエッセイで語られたことを小説化した作品、とも言えそうな内容です。




主人公の美月と同棲相手・裕生の擦れ違いは、美月の体力のなさを裕生が実感できていないことに起因しているみたいでして...これはなかなか難しそうな問題でして、それを象徴するような前半部分での裕生のひと言が「いや、普通でしょ。まだ俺ら二十三歳じゃん。美月みたいな人、他に見たことないよ?」という。。。私(←発行人)は短くもなく月日を重ねるなかで“普通”というのをかなり危険な禁句だと認識して生きてきたつもりですが、それでもなにか理解しがたい事案に直面すると、いまだに“普通”が脳裡をかすめることもあり...その“普通”っていったい誰のものさしがデフォルトになっているのか、これが難しい。


「体力がないとは、時間がないことなのだ」「性欲は、体力だったのだ」等、美月の視座で記された実感を、はたして裕生は、たとえば愛情とか優しさとかいたわりとか寄り添いとかで受容できるのか? そして、そんな裕生であることをも実感してしまった美月は、二人のそういう関係性を受容できるのか? みなさま、ぜひ小誌を手に取って、この難しい問題を抱えた二人の行く末を見届けてください。


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E


 そうして作ったロールキャベツを二人で食べたその晩、試すように求めてくる彼に、私は応じてやった。その翌日も、翌々日も、その次の日も。一週間も経つと彼は手のひらを返したように、私に優しくなった。
「なんか前より積極的だね」コンドームを捨てて私を抱きしめながら彼は言った。思えば大人になってからこんなに長期間休んでいるのは初めてだった。体力が温存されているおかげなのか性欲が増し、感度も上がり、セックスが楽しくなった結果だろう。
「うん、疲れてないからね」
「……そっか」
「裕生はほんと、体力あるね」
 一週間働いた金曜日の夜にセックスしてすぐ寝ずにピロートークまでしてくれるなんて、体力がある証拠、と私は続けた。
「優しいって言ってほしいな」
 そう言った彼の無邪気な笑顔を見て、違う、と思って、そう思った自分に少し驚いて私は黙ってしまった。


~ウィッチンケア第15号掲載〈ちょっと疲れただけ〉より引用~


絶対に終電を逃さない女さん小誌バックナンバー掲載作品:〈二番目の口約束〉(第14号)


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2025/05/12

VOL.15寄稿者&作品紹介19 清水伸宏さん

 清水伸宏さんの小誌第14号への寄稿作「業務用エレベーター」を紹介したさい、私(←発行人)は〈クスリと笑わせつつも、一抹の切なさを醸し出す清水さんの作風...この感じは、小誌への初寄稿作〈定年退職のご挨拶(最終稿)〉(第11号に掲載)から一貫している〉と書きましたが、今号への寄稿作「給水塔 もしくは、ヒマジン・オール・ザ・ピープル」もまた同様のテイストが漂っています。今作では“クスリ”度がやや高めなのですが、しかしこの一篇を「笑える」なんて乱暴な言葉で括ってしまったら、young at heartな“それなりな年齢の男性”への冒涜、というか。最近はあまり言及されたりもしない名言ですが、主人公の「僕」って、きっと胸の奥に「強くなければ生きていけない。 優しくなければ生きていく資格がない」的な心性はずっと抱いていて、でも実生活では妻が強くて、だからせめて優しくはあろうとしているんだけれども、でも「僕」には「僕」の事情があって...といった堂々巡りをしているうちに、気がついたらずいぶん月日が経ってしまい、それならどうしたものか、みたいな。




でっ、本作の「僕」は行動するのです。車内のBGMだったジョン・レノンの「イマジン」に反発(!?)するように決心するのです。20年前から気になっていた、団地の給水塔の真下まで行って、見上げてみようと。ここに至るまでの夫婦間のやりとりがなかなかハードボイルドで──いや、これはあくまで「僕」側からの語りですので妻には妻の言い分があるのかもしれませんが──読者の多くは「僕」の側に付くんじゃないかな。そして物語の舞台は40メートルほどの高さと描写される、給水塔のある団地へと移動して。


〈○○○○みたいな展開になってきたのである〉(作品内での○○○○は実名)の一文以降の展開では、現在と過去、記憶と事実が錯綜します。ネタバレになるので深掘りはしませんが、この切なさを「笑える」なんて...あっ、それは↑で、もう書いたか。でも、筆者自らが“笑い”に昇華することで過去と決別しているようで余計に切なかったりも。そして再び流れる「イマジン」、読者のみなさまにはどのように聞こえるのでしょうか。


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E


「あの先端の広がった部分に水槽があるんだよ。高いところから水を流せば水圧が上がるだろ? それで各戸に安定して水を供給できるんだ。今も使っているのかどうか知らんけど」
 話しながら、なんでこんなに給水塔に詳しいのだろうと不思議な気持ちになる。しかし後部座席から反応はない。
 ルームミラーを見上げると、妻の耳に白いイヤホンがついていた。最近妻は、勉強になると言って音声プラットフォームのVoicyを熱心に聞いている。
 ひと回り年下の妻は多忙だ。僕が早寝になったせいもあるが、夜は僕の寝顔しか見てないし、週末も僕を残してせかせかと出かけて行く。
 残念でならない。
 
 朝の会議があるから30分早く出ると直前に言われ、慌ててパジャマの上に薄手のパーカーを羽織って運転席に乗り込む。
「早く早く」
 後部座席に乗り込んだ妻が背後から急かす。
 僕が定年退職して毎朝出勤する妻を駅まで送るようになって2か月になる。最初のうちは助手席に乗っていた。しかし、車庫が狭くてクルマの左側を隙間なく停めなければならないため、助手席に乗り込むにはクルマを車庫から出してからということになる。せわしない朝にそんな時間の無駄はできないと判断した妻は、すぐに右のリアドアから後部座席に乗り込むようになった。


~ウィッチンケア第15号掲載〈給水塔 もしくは、ヒマジン・オール・ザ・ピープル〉より引用~


清水伸宏さん小誌バックナンバー掲載作品:定年退職のご挨拶(最終稿)〉(第11号)/〈つながりの先には〉(第12号)/〈アンインストール〉(第13号)業務用エレベーター〉(第14号)


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VOL.15寄稿者&作品紹介18 オルタナ旧市街さん

 前号がウィッチンケアへの初寄稿だったオルタナ旧市街さんは、昨年2冊の書籍を上梓されていまして、1冊は6月に刊行されたエッセイ集「踊る幽霊」(柏書房)。そして10月には、OHTABOOKSTANDでの連載に書き下ろしを加えたグルメ小説集「お口に合いませんでした」(太田出版)を。また筆名=誌名のネットプリントマガジンも、今月5日に最新の19号が配信されています。そんなオルタナ旧市街さんの小誌今号への寄稿作「氷を踏む」は、とにかく切れ味が鋭くて、前号への寄稿作「長い長いお医者さんの話」でのゆんるりっとした世界観(いや、前作は前作でそこはかとなく不安定さも漂ってはいたが)とは対象的。この振れ幅の大きい作風が筆者の魅力なのだな、と思いました...っていうか、もうちょっと個人的な印象を書きますと、筆者が「テキストを攻めている」感じが文章の端々から伝わってきて「面白さ」と「怖さ」が増幅されている、というか。うまく言い表せないのですが、まず読みやすさ/分かりやすさは持ち前のスキルでクリアしつつ、さらに「意味が通じるギリギリのところまでテキストを砥いで、結んで」、それで作品として成立させている、というか。これって詩の作法に近い!? ...すいません、↑のほうで“切れ味が鋭くて”と書いた理由を説明しようと思ったら、切れ味鈍い駄文になったかも(陳謝!)。




作品前半に〈なんの因果か、話しかけやすいタイプの人間なのだろう〉という一文があり、これはオルタナ旧市街さんが“好感度の高い人”として社会生活を送っている証左とも思えたのですが、しかしそれに続く文章が〈昔からよく道を聞かれたりマルチや宗教の勧誘に遭ったり道すがら他人にからかわれることがほんとうによくある〉と。「踊る幽霊」を拝読して、筆者は町で面白い光景によく出会うな、観察眼が鋭いからかな、などと呑気に感じていましたが、でも都会暮らしにおける「面白い」と「怖い」は紙一重、なのかも。


私たちがおそらく「ふだんは深く考えないようにしている」ことで成立している日常...その背景に存在する危うさについて、自身の体験をもとに、今作内では感度MAXまで考察してみました、という一篇だと私は読み取りました。さて、ではどうする? 明快な処方箋はなさそうですが、みなさま、ぜひ本作を読んで“氷の下(氷そのもの)”について、改めて意識してみてください!


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E



 平日の昼下がり。取引先での打ち合わせを終えて、有楽町線に乗り換えるために降りた新木場駅のコンコースで、めがねをかけた壮年の女性がわたしの肩をたたいた。
「見ていましたよね」
 え、と立ち止まる。知り合いだっただろうか。めがねの女性。ベージュのジャケットによく糊のきいたブラウスを身に着けている。職場のひとじゃない。もしかして学校の先生? いや、覚えがない。女性はわたしの目をまっすぐ に射貫いて静かに続ける。
「見ていましたよね。わたしのことを、ずっと」
 まったく思い出せなかった。人違いじゃあなかろうか。あ、あの、たぶん、違いますよ。ええと、どこかでお会いしましたか? とあわてて返すと、次の瞬間その女性は激高した。
 
 見てましたよね!あなた!あなた!わたしのことをずっと!ずっと!見てましたよ!見てましたよね!!!
 
 まずい。咄嗟に駆け出すと女性は叫びながらコンコースをどこまでも追いかけてきた。見てましたよね、いったいどこから? 見ていたのはむしろそっちのほうじゃないのか。


~ウィッチンケア第15号掲載〈氷を踏む〉より引用~


オルタナ旧市街さん小誌バックナンバー掲載作品:〈長い長いお医者さんの話〉(第14号)


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2025/05/10

VOL.15寄稿者&作品紹介17 佐々木敦さん

 今回が「ウィッチンケア」への初寄稿となる佐々木敦さん。私(←発行人)は今はなき音楽雑誌「クロスビート」(1998〜2013/シンコーミュージック刊)の創刊号からの読者でしたので、佐々木さんの署名記事はよく読んでいましたし、「映画的最前線 1988-1993」(水声社/1993年)も、当時はレオス・カラックスにかなりハマっていたので、刊行後すぐに入手していました。そんな私は、佐々木さんとはかろうじて面識があり、多少言葉を交わしたことがある程度でしたが、昨年の夏、SNS上で佐々木さんが小誌についてちょっと言及。それを小誌寄稿者(&元「クロスビート」編集者)・美馬亜貴子さんもチェックしていて私に連絡をくださり、その後のメールでのやりとりを経て、ご寄稿いただけることになったのでした。そして...小誌第15号が無事正式発行された後のSNSにて、寄稿者・絶対に終電を逃さない女さんが、じつは佐々木さんの大学での教え子だったことが判明したり、といろいろな縁が繋がっていくのも、雑誌というメディアがあるからこそ、とも。




佐々木さんの寄稿作には〈おそらく実現されることはないであろうわたくしの夢のひとり出版社の、もしも実現したとしてもおそらく実現できることはないであろう、夢の刊行予定リスト〉という長〜いタイトルが付けられており、その内容はというと、筆者が現在ドリーム・ラインナップだ、と考えている刊行リスト(とそれに関する個人的な思い)が記されています。名前が挙がっているのは、たとえば小島信夫、蓮實重彦、等々(すべては小誌を手にしてお確かめください!)...mmm、「抱擁家族」はうっすら内容を知っている。「凡庸さについてお話させていただきます」は、持ってはいる。本作のドリームさを実感するには、私はちょっと赤子のようでお恥ずかしい。。。


あらためて、私は佐々木さんの膨大な仕事について、ほんの「自分のわかるところ」(おもに音楽、映画)だけを学ばせてもらってきたのだなぁ、と思いました。あっ、そうだ。明日の文学フリマ東京40には佐々木さんも出店なさる、とのことですので、小誌をすでに読んで参加する方がいらっしゃいましたら、ぜひ直接、本作について語り合っていただければ、発行人として嬉しく存じます!


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E



(5)蓮實重彦『大江健三郎論』
 
1980年に青土社より刊行された長編の大江論。同じ版元から2年前に出た『夏目漱石論』や3年後に筑摩書房から出る『監督小津安二郎』と同様に(それ以上に)バリバリのテマティスム批評であり、発表時には大江の不興を買ったとか買わないとか。蓮實の初期の映画/文芸批評も文庫化や再刊が続いているが、これが絶版のままになっているのは批評対象への「遠慮(忖度?)」が(蓮實ではなく出版社側に)あったのかもしれない。蓮實の大江評価は時期や作品によって是々非々であり、両者の距離感には微妙な(というか歴然とした)緊張が感じられる時期もあったと思うが、大江は2023年に亡くなり、蓮實はやはり長らく(大江以上に)妙過ぎる関係だった筒井康隆との対談本『笑犬楼 vs.偽伯爵』では大江を大いに讃えている。私はこの本を蓮實の仕事の中でもとりわけブリリアントなものだと思っているが、ご本人としては若気の至り(といっても当時すでに四十代だが)と感じているのかもしれない。ちなみに私は「小説家蓮實重彦、一、二、三、四、」(『私は小説である』所収)という批評文で、この本で蓮實が大江作品にしたのと同じことを蓮實の三作の小説『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『伯爵夫人』に対してやってみたことがあるのだが、いつものことだがほとんど読まれることがないまま現在に至っている。
懸念事項:著者の許可が絶対下りないと思う。

~ウィッチンケア第15号掲載〈おそらく実現されることはないであろうわたくしの夢のひとり出版社の、もしも実現したとしてもおそらく実現できることはないであろう、夢の刊行予定リスト〉より引用~



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VOL.15寄稿者&作品紹介16 内山結愛さん

 ウィッチンケア第14号からの寄稿者・内山結愛さんは、シューゲイザー/ノイズ/エレクトロニカなどの要素を取り入れた音楽性を持つアイドルグループ・RAYのメンバーです。音楽レビューもネット上で積極的に展開しており、詳細はぜひ、小誌前号への寄稿作〈散歩、あるいはラジオ〉の紹介ページでお確かめください。それで、私(←発行人)はRAYのライヴを昨年の7月20日、Shibuya Milkywayで体験してきました。満員の会場は耳栓が配られるほどの轟音で、ノンストップの約40分。終演後は人生初のチェキ並びもしまして、内山さんに寄稿の御礼と「次号でもぜひ!」とのお願いを直接しまして、写真撮影も(アイドルとのツーショットは、たぶんオレの人生でこれ1枚きりなのだと思います)。あっ、つい数日前に、内山さんはSNSで「My Bloody Valentineの来日公演、当選した!」と報告していまして...これはマイブラDNAを継承して独自のアイドル活動を続けている内山さんにとって、間違いなくプレミアムな体験になるはず。おめでとうございます!




さて、そんな内山さんの小誌今号への寄稿作は〈散歩、あるいはスーパーマーケットとTwitter〉。書き出しの一文が「── スーパーマーケットはTwitterだ。」でして、なっ、なんで!? といきなり惹き込まれてしまいます。この後、現在は「X」となったTwitterに対する複雑な心境が語られているのですが、内山さんの雑感に共鳴する人、少なくはなさそう。そして、話はTwitterとスーパーマーケットとののっぴきならない関係性についての、内山さんならではの考察へと。「私はスーパーマーケットで買い物することを目的にしているのではなく、スーパーマーケットに充満する情報量を身体中で浴びることを目的にしているのではないか」...そんなこむずかしいことを考えながら食材や常備品をセレクトしているシューゲイザーって。。。


作品後半ではエスカレーターにまつわる筆者の感じ方も記されているのですが、これが、とくにelderな方々からすると衝撃かもしれません。内山さんにとってちょうど良い、と感じられるエスカレーターがもしあったら、それはけっこうスリリングな乗り物かもしれない。みなさま、ぜひ小誌を手に取って、Twitterとスーパーマーケット(とエスカレーター)について思考を巡らせてみてください。


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E



 一方でTwitterは、人の思考、情報がジャンル分けされているわけでもなく、乱雑に、無数に並んでいる。膨大な情報量に対して「そうだね」と思ったり、「それは違う」と思ったり、「悲しい」、「可愛い」、「面白い」、「ありえない」、「格好良い」、「どうして」と感情が指のスライドに合わせ て瞬く間に変化する。半強制的に、その情報に適する感情に振られることで余計な思考が止まるような感じがする。Twitterにも思考を抱き止められている。
 
 ただ、Twitterは不意に自分の見たくないものまで目にすることがある。スーパーマーケットのお肉ゾーンで「これは口の中に入れても大丈夫なのか?」というグロテスクなホルモンや、切り落とされた豚足が突如現れ、驚き、怖いと思いながらも結局まじまじと見てしまう。そして、存分に観察した後、みぞおちあたりがくすぐったくなる。スーパーマーケットでも同じようなことはある。

~ウィッチンケア第15号掲載〈散歩、あるいはスーパーマーケットとTwitter〉より引用~


内山結愛さん小誌バックナンバー掲載作品:〈散歩、あるいはラジオ〉(第14号)


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2025/05/09

VOL.15寄稿者&作品紹介15 武田砂鉄さん

 昨年の10月22日、武田砂鉄さんの「テレビ磁石」(光文社/2024年)刊行記念の対談イベントが青山ブックセンター本店にてありまして、私(←発行人)はこれまでの御礼と新たな寄稿依頼も兼ねて参加しました。「テレビが映した芸能界」と題された対談で、武田さんのお相手は水道橋博士さん。ほんと、ここだけの、みたいな話題もいくつかありまして...なかには2025年になって広く知られるようになったできごとを先取りするようなことも博士の口から、で震撼しながら帰宅したのをいまでも覚えています。それで、「テレビ磁石」は武田さんが雑誌「女性自身」に2018年6月〜2024年9月にかけて掲載したテレビに関するコラムをまとめた1冊。トピックの人名も時代を感じさせますが、なにより印象深いのは〈あとがき〉に記された“この本で議論されているテレビ番組や芸能人、政治家や文化人に共通点があるとすれば、「テレビが偉そうでいられた時代から、そうではいられなくなった時代に移行していくなかで、それでもまだテレビがそれなりに影響力を持ち、心酔できなくなったとはいえ、無視もできない状況でテレビの中に映し出されていた存在」であるということ”という一節。これが2024年8月での筆者の認識...そこからもうすぐ1年ですが、年初からいろいろあったこともあり、ますますテレビまわりの状況は厳しくなっているような気が。




さて、武田さんの小誌今号への寄稿作。タイトルと形式は不動ながら、語られているのは「AI時代のビジネスのあり方」など、時代に即した内容でもありまして、もう、安定した不安定さ...漆原の真意を汲み取ろうとすればするほど混乱してくるという展開。しかもコロナ禍のころはやや弱気だったようにも思えた漆原さん、今回は元気で自信に満ちているし。


「概念」と「言語化」の違いに関する禅問答のようなやりとりもスリリングでわけわかりませんが、個人的に気になったのは、漆原さんの“動乱を作り出した権力者は「色々言ってるけど、実際はこうなんだろ」と吐き捨てることで喝采を浴びている”という認識は、いまの世界情勢に照らしても頷ける。でも困っちゃうのは、氏がそれを肯定しているのか否定しているのかすら判然としないことでして。読者のみなさま、ぜひそのあたりを小誌を手にして解明してみてください。



ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E


 頭の中に充満しているものは、明確な形を持っているものではない。私たちは頭の中で無理やり整理して、固めて、それを提出し続けている。圧倒的な体験を圧倒的な体験のまま伝えることは難しい。だからこそ、「これが圧倒的でした」と絞り込んで伝えたりする。「圧倒的なもの」を「伝える」、いつの間にか「伝える」のほうが優先されていく。せっかくの「圧倒的なもの」がどこかに消えてしまう。個々人が感じている概念をそのまま投じるべき、それをせずに伝え方で計測するのを一旦止めようではないか、と私は言った。でも、それが伝わっていない。「言語化」や「伝え方」はその人が考えているものではない。ここを改善しない限り、私たちの思考は脆弱になる一方です。
──「ガイネン・ミーティング」への違和感は、その概念を提出したところで合議制になるのではないのか、つまり、そこでジャッジされるのは「伝わったかどうか」になるのではないのか、ということなんです。
 それはずいぶんとまた、ありきたりな違和感ですね。そんなことは想定済みです。「そのまま」という概念があります。でも、それが「そのままだということにしておく」になっているのではないか。それは「そのまま」ではない。私は「そのまま」を欲しているのです。「そのまま」とは「概念」です。


~ウィッチンケア第15号掲載〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉より引用~


武田砂鉄さん小誌バックナンバー掲載作品:〈キレなかったけど、キレたかもしれなかった〉(第6号)/〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉(第7号)/〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉(第8号)/〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉(第9号)/〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉(第10号)/〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉(第11号)/〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉(第12号)/〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉(第13号)クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉(第14号)


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VOL.15寄稿者&作品紹介14 早乙女ぐりこさん

 今回が「ウィッチンケア」への初寄稿となる早乙女ぐりこさん。ご著書「速く、ぐりこ! もっと速く!」(百万年書房/2024年)のことは、発行後すぐに小誌寄稿者・うのつのぶこさんがFacebookで絶賛していたので私(←発行人)も気になっていまして、その後、SNSにて早乙女さんが小誌第14号を入手してくださったことを知り、昨年春の文学フリマ東京でブースを訪ねて、ご本人からサイン本を購入。さっそく拝読しまして、そのパワフルさと繊細さを兼ね備えた筆致のファンになってしまいました。また、秋の文フリでも少しお話しする機会があり、そのさいに手に入れた「ハローアゲイン」の巻末を見たら、「速く、ぐりこ!もっと速く!」以外にも自主制作の単著が(その時点で)15冊、共著も2冊! これはもう、小誌も「新しい試みの場」としてご利用いただきたい、と次号の構想が固まった時点で寄稿依頼のメールをしたため、良いお返事をいただきまして、そして...2月初旬に届いた作品が、寄稿原稿として初めての小説「蜘蛛と鬼ババ」なのでありました。




物語の舞台は九月下旬の、南伊豆の温泉地にあるゲストハウス。一人旅でのこの地を訪れた主人公「真知」の4日間の様子が、静謐なトーンで綴られています。エッセイ/日記形式の作品では私=筆者、と直結させて事態の顛末(恋愛や対人関係/喜怒哀楽)を読んでしまいがちですが、三人称の小説というスタイルでは、人物の行動に秘められた内面(心理)が徐々にしか伝わらない...作者はそのじれったさをうまく積み重ねて、南伊豆の風景とともに「真知」の心象をも描写していきます。


終盤で明かされる、「真知」が旅に出た理由が、なんとも。排水口の大きな水音が耳に残ります。そして、作中に「……もしかして、わざと私の視界に入ってきている?」と蜘蛛に心で問いかける一節があるのですが、これは逆、と私は読み取りました。ある事情で4日間日常を遮断して心細くなった「真知」が唯一〈なにかと繋がっている〉と感じた相手が、初日の浴場で偶然見かけた蜘蛛だったのだ、と。みなさま、ぜひ小誌を手に取って、早乙女さんの小説世界に誘われてみてください。



ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E



 リビングの棚に置かれた観光マップをふと手にとると、ここから歩いて行ける距離に町立図書館があると書かれていた。その図書館には石垣りん文学記念室が併設されているという。石垣りんという詩人の名前は高校時代に国語の授業で聞いたような気がする。真知はそのマップを片手に図書館に向かった。
 小さな展示室に入ると、ベレー帽に柄物のブラウスを着て穏やかに微笑む晩年の詩人の大判写真が飾られていた。室内で流れていたインタビュー映像には、やわらかな口調で「私は鬼ババです」と話す詩人の姿が映っていた。私も鬼ババになれるだろうか、と真知は思う。置かれた詩集をぱらぱらとめくっていると、「シジミ」という詩にも〈鬼ババの笑い〉という言葉を発見した。夜中に台所のすみで、買ってきたシジミたちが口をあけているのを見た〈私〉は、〈夜が明けたら/ドレモコレモ/ミンナクッテヤル〉と思い、〈鬼ババの笑い〉を浮かべる。しかし、そんな〈私〉も、実際にはシジミたちと同様に〈うっすら口をあけて〉寝るだけの無力な存在なのだった。
 
 夕食後、真知が離れの風呂を上がり、勝手口から戻ると、例の大きな蜘蛛がさっと一緒に家の中に滑り込んだ。白い壁にさらさら這い登った蜘蛛と、スリッパを履いて廊下に上がった真知は、しばらくじっと向き合った。


~ウィッチンケア第15号掲載〈蜘蛛と鬼ババ〉より引用~


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VOL.15寄稿者&作品紹介13 中野純さん

 ウィッチンケア第2号からの寄稿者・中野純さんの今号への寄稿作は「男性の乳首には隠す価値がある」。本作もまた他の何名かの寄稿作と同じように、時代の移り変わりを鋭く捉えた一篇のように思えます。作品内に登場するキーマン・江頭2:50さんは、そういえば今号の正式発行(2025年4月1日)直前に某テレビ番組(←オールドメディア)でお騒がせ案件を起こしてネットが噴火していましたが、しかしその後、GW前の文春砲案件のおかげでヘンなふううに鎮火(名誉回復!?)、みたいなことになったりして(...この話、わからない人には「なんのこっちゃ!?」だろうなと思いますが、まあ、いいか)...書き手の中野さん、もしこんな展開を先読みしていたのだとしたら、恐るべき予知能力。...それで、世の移り変わりついでにもうひとつ私(←発行人)が感じたのは、この作品タイトル、そうだなぁ、コロナ禍前くらいだったら、「男の乳首には隠す価値がある」だったのではないか、とも。令和七年、「男」「女」という言葉それぞれが歴史的に堆積させてきちゃった“意味合い”が重くなってしまって迂闊には使いづらい。筆者も、ちょっと気配りして「男性」にしたのかもしれない、と思いました(個人の感想です)。





さて、作品の中味ですが、エガちゃんはあくまでも「男性の乳首」を考察するうえでのツカミです。「男性の乳首は徐々に、でも確実に隠すべきものになっているのだ」「男性の乳首自粛は人知れず進んできた」、たしかに。近年の裸系芸人さん、たとえば小島よしおさんとかとにかく明るい安村さんとか...出てきたときに感じたのは、とにかくツルツルで往年のフレディ・マーキュリーやプリンスみたいなパフォーマンスはもう無理な時代なんだろうなと思いましたが、そうか、彼らの乳首も、この風潮だとほどなく隠されるのか。


「そもそもなぜ乳首をそんなに隠さなくてはいけないのか」という、日頃私たちがあまり考えたことのない「そもそも」について、中野さんはかなり多角的に考察しております。奪衣婆、デズモンド・モリス、ビキニトップを着けて胸を隠す人魚のイラストetc.、引き合いに出される多彩な例もユニークで、読み応えあり。みなさまぜひ小誌を手に取って、乳首に関する認識を新たにしてください。


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E


 西洋人はそれをよく心得ていたのかもしれない。十七世紀以降のコルセットで盛り上げた胸はますます尻のようで、乳首はまったく出さないが非常にエロい。思うに、女 性が上半身裸で乳首だけを隠した場合と、服をしっかり着て乳首だけ露出した場合のどちらがよりエロいかというと、前者だろう。後者は最初は強烈なインパクトがあるものの、服から乳首だけ出ているのは毛むくじゃらの胸から乳首だけ出ているサルと似たようなもので、慣れれば意外にエロくないと思う。
 この話はいったいどこへ向かっているのだろう……そうか、エガちゃんが乳首を隠したことで、男性の乳首がエロくなったという話だった。以前はエガちゃんの乳首は別にエロくなかったが、隠した途端にエロくなった。男性の乳首はいったんエロくなったら、最強にエロい。授乳の機能がない男性の乳首のほうが、純粋にエロい。隠すことは想像力を育む。エロいかもしれないものを隠すと確実にエロくなる。

~ウィッチンケア第15号掲載〈男性の乳首には隠す価値がある〉より引用~


中野純さん小誌バックナンバー掲載作品:十五年前のつぶやき〉(第2号)/〈美しく暗い未来のために〉(第3号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈天の蛇腹(部分)〉(第4号)/〈自宅ミュージアムのすゝめ〉(第5号)/〈つぶやかなかったこと〉(第6号)/〈金の骨とナイトスキップ〉(第7号)/〈すぐそこにある遠い世界、ハテ句入門〉(第8号)/〈全力闇─闇スポーツの世界〉(第9号)/〈夢で落ちましょう〉(第10号)〈東男は斜めに生きる〉(第11号)/〈完全に事切れる前にアリに群がられるのはイヤ〉(第12号)/〈臥学と歩学で天の川流域に暮らす〉(第13号)うるさいがうるさい〉(第14号)


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2025/05/07

VOL.15寄稿者&作品紹介12 朝井麻由美さん

 朝井麻由美さん原作のテレビ東京【水ドラ25】「ソロ活女子のススメ」、先月よりシーズン5に突入! このシリーズドラマ、主演の江口のりこさんの出世作にもなっているのがすごいことだと、しみじみ。WIkipediaには、同作が江口さんにとっての〈民放の連続ドラマ初主演〉作だとありまして、たしかに2010年代の彼女は、作中のスパイス的というか、妙な印象を残すバイプレーヤーだったような記憶があるのですが...現在放映中の朝ドラ「あんぱん」でも主人公の母親役として堂々たる存在感だしなあ。俳優とともに大きくなっていく(そしていずれ普遍化=時代のスタンダード)原作だなんて、そんな作品を生み出せる書き手はめったにいないと思います。...そしてもうひとつ、朝井さんのすごいところを。小誌前号での寄稿作「裂けるチーズみたいに」が、年初からのいわゆるフジテレビ問題を先取りするような一篇だったこと。そんな朝井さんは今回、未来小説を書いてくださいまして、この作品もまた、今後「予言の書」のようになっていくのではないかと思うとゾクゾクします。




物語の舞台は西暦2154年の、人類が「感情を制御した」世の中。21世紀に発展したSNSによって、人々は感情に支配されるようになり、人間社会の存続が脅かされる事態となった。感情抑制社会の実現を求める声が民意となり、紆余曲折を経て「感情制御チップ」なるものが人類には装備され...いやあ、なんたるディストピアなのでしょう、冗談じゃないよ! と私(←発行人)は21世紀前半の感情を振り切って怒っていますが、しかし、なにしろ作者は時代の先取り実績のある方ですし、不肖私の現時点での生活感覚でだって、いまのSNSを放置していたら、関東大震災後の福田村事件みたいな惨事があちこちで勃発するかも、みたいな怖さは感じます。


作品の鍵を握っているのは、〈この理想社会を統括する〉ためにある〈「最適管理局(通称:局)〉に勤務する嘉島ハルカと、坂宮レイ。このものたちがどのような環境下でどんな任務を担っているのかは、ネタバレにも繋がるのでここでは解説致しません。とにかくすごい1作ですので、ぜひ、小誌を手に取ってお確かめくださいませ。



ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E



「個体の感情数値が閾値に達しました。対象を発見次第、排除プログラムを執行してください」
 室内では淡々と指示が飛び交う。感情の発現は、社会の秩序を脅かす芽である。芽は早いうちに摘み取らねばならない。
「対象を発見しました」
 無機質な白い部屋。モニターに映るのは、坂宮レイ。感情抑制プログラムに異常が見られ、これから排除される個体だ。その表情はわずかに歪み、口元がかすかに震えていた。……まるで、「感情」を持っているかのように。
「処理を開始します」
 僕は冷静にボタンを押そうとした。しかし──指が止まる。
──なぜだ?
 僕はこれまで何度も、感情に異常をきたした個体を処理してきた。迷ったことはない。これは〝ただの業務〞であり、〝ただの異常〞にすぎない。
……なのに、なぜ?
 迷いの感覚は、僕にとって未知のものだった。
局で働く僕たちは常に「最適解」を求める。一度決定したことに疑念を抱く余地などない。だが、今の僕は、目の前の青年を処理することが「最適解」なのかを疑い始めていた。


~ウィッチンケア第15号掲載〈エモーショナル・ドリーム〉より引用~

朝井麻由美さん小誌バックナンバー掲載作品:無駄。〉(第7号)/〈消えない儀式の向こう側〉(第8号)/〈恋人、というわけでもない〉(第9号)/〈みんなミッキーマウス〉(第10号)/〈ユカちゃんの独白〉(第11号)/〈ある春の日記〉(第12号)/〈削って削って削って〉(第13号)裂けるチーズみたいに〉(第14号)



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VOL.15寄稿者&作品紹介11 加藤一陽さん

小誌第13号からの寄稿者・加藤一陽さんはカルチャー系コンテンツカンパニー「株式会社ソウ・スウィート・パブリッシング」の経営者です。昨年は『読書と暴動 プッシー・ライオットのアクティビズム入門』(ナージャ・トロコンニコワ/翻訳・野中モモ)を紹介しましたが、その後も好書を世の中に送り出し続けておられまして、昨年お目にかかったさいには、次は西寺郷太さんの『J-POP丸かじり』、みたいなことを話していた記憶が...こちらも無事刊行され、さらに先月には『読むラジオ屋さんごっこ』も、と怒濤のリリース攻勢。そんなお忙しいなか、小誌へもきっちりお原稿を届けてくださり、感謝致します。さて、そんな加藤さんの寄稿作「俺のヰタ・セクスアリス」なのですが、令和の金井湛(森鷗外)...もとい、加藤さんの性知識にまつわる来し方が自伝的に、かなり直截に語られています。なぜに!? それは本作の中盤以降を読めば明白なのですが、私(←発行人)はこの前半部分を「筆者は“土俵の外から物言いをする”みたいな態度を避けたのだろう」と読み取りました。 




芸能界のスキャンダル...一昔前までは、電車に乗ると中吊り広告が教えてくれる、といった感じでしたが、いまや各人のスマホに直撃弾が。作中には〈芸能事務所が潰れたり、時代の顔役のタレントが辞めたり、外国のメディアに詰められたり、バーベキューをした理由を説明させられたり〉という一節があり、まさにそういうことがメディア(ネット含む)で取り沙汰された2024~2025年の初春だったな、という記録にもなっていますが、でも同じような案件、その後もさらに続いていて、最近なら、なぜオレは新宿に向かう小田急線内で、アイフォーンに写し出された「手繋ぎ写真」を見せられ...いや見ているんだ、みたいな。


それにしても、筆者のテキストは含有成分(!?)豊かでして、それに気付けるとおもしろさが倍増するのです。たとえば〈性が絡むトラブルのニュースや万引きGメンの特集番組などを見ていると、加害者が自身の精神状況について「魔が差した」と解説することがある。ミシシッピの四辻で悪魔に魂を売ったブルースの神様 みたいな言い方に聞こえなくもないが〉...ここでの「神様」について多少でも知識があると、思わずニヤリ、みたいな。私としては、本作の中で、鷗外に匹敵する文豪を探してみるとか、ちょっとオススメしたく存じます。


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E



 テレビ局とX子の件で芸能界を辞めるタレントは50代だそうだ。その少し前に、性加害が告発されて話題を集めたお笑い芸人は60代だという。彼らが実際に何をやったのかはわからないし、そこに〝魔〞が携わっているかどうかも知らない。ただ彼らのニュースを見ていると、〝人間は50歳を超えても性欲から逃れられない〞という事実を突きつけられるから、それに対してうんざりしている。同じような話題の繰り返しに対する「もういいぜ」感もある。それプラス、「男=エロい」という印象が増幅されている気もして、それにも疲れる。エロ至上主義者がいても構わないし、悪いことをしなければそれは悪くはない。しかし、たぶんそれほどではない周回遅れの自分なんかでも、十把一絡げにされることがあるとしたら不本意だ。だからこそ「そんなにエロいことばっか考えてねえっつの」など叫びながら、異性との打ち合わせの際は会議室のドアを露骨に開け放したりしているのだが、その間にも、〝教え子の盗撮を繰り返した塾講師逮捕、組織ぐるみか〞とかってクソみたいな記事が次々スマホにデリバリーされてくるものだから、自分の主張は尻つぼみである。ただ声だけが空の裡(うち)に残るのだ。兎角に人の世は住みにくい。


~ウィッチンケア第15号掲載〈俺のヰタ・セクスアリス〉より引用~


加藤一陽さん小誌バックナンバー掲載作品:〈リトルトリップ〉(第13号)/〈俺ライヴズマター、ちょっとしたパレーシア〉(第14号)


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2025/05/06

VOL.15寄稿者&作品紹介10 武塙麻衣子さん

 小誌前号には「かまいたち」という、ちょっとシュールで(ちょっと痛そうでもある)掌篇小説をご寄稿くださった武塙麻衣子さん。その後の武塙さんはとてもお忙しそうで、昨年6月からは「群像」誌上で「西高東低マンション」の連載がスタート。8月にはZineとして発行されていた「酒場の君」をアップデートした、書籍版「酒場の君」を書肆侃侃房より刊行。そして10月からはWebメディア「小説丸」で「一角通り商店街のこと」の連載も。おそらく、現在進行形の連載作品は、いずれ書籍としてまとめられるのだと思いますが、そんな武塙さんからWitchenkare VOL.15に届いた寄稿作のタイトルは「ひょうすべ」。おおっ、「かまいたち」〜「ひょうすべ」ときたら、次は「あまびえ」か「ぬらりひょん」とかなのかもしれず...なんだか小誌からも〈幻想もののけ短編集〉みたいなご著書が誕生しそうな気配がそこはかとなく漂い始めまして、これは発行人として、とても嬉しいことであります。




作中では主人公「わたし」の日常が丁寧に描かれていまして、日頃武塙さんのSNSをフォローしている方だと、思わず「わかる!」という感じになりそうな箇所も、そこここに。この何気なく平穏に展開している物語が、小さな謎を引き摺ったまま長崎へのフライトと繋がり、そして...なにが起こるかは、ぜひ小誌を手に取ってお確かめください。


本作にもちょっと行ってみたくなるような酒場が出てきまして、そこでの「わたし」と夫の会話がまた、この奇譚をさらなる奇譚へと導いていくのですが、でも、その不可解さが、むしろ心地好い読後感の要因だったりして。なんというか、人は不思議なできごとに遭遇した場合、不思議は不思議のまま受け入れて放っておく、くらいの胆力を備えていた方が、一度きりの人生を楽しめるのかもしれないなぁ、なんて思わせる一篇なのでありました。


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E



 ホテルに着くとすぐにフロントでルームキーを渡してもらえた。夫が取っておいてくれたダブルルームは、綺麗で広かった。窓のカーテンを開けると、すぐ下は中華街で、川と丸い橋が遠くに見える。
「行こうかな」
 小さなトートバッグに、財布とハンカチとスマホ、文庫本を一冊(イサク・ディネセン『アフリカの日々』)入れた。この本を読めば、わたしはいつだって落ち着いて淡々と行動することができるお守りのような一冊。それから、柔らかな布でくるんだ飴。ずいぶん迷ったけれど、バター飴と柚子飴、生姜の飴を選んだ。ひょうすべのことを考えながら。ルームキーと一緒にもらった地図を見てみると、目的地までは、歩いて行けるようだった。三年前にきた時は、どうだっただろう。わたしは歩いてあの狛犬のところまで行ったのだろうか。そしてあの時、ひょうすべは一体どこから現れたのだろう。


~ウィッチンケア第15号掲載〈ひょうすべ〉より引用~

武塙麻衣子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈かまいたち〉(第14号)

 

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Vol.15 Coming! 20250401

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yoichijerryは当ブログ主宰者(個人)がなにかおもしろそうなことをやってみるときの屋号みたいなものです。 http://www.facebook.com/Witchenkare