久山めぐみさんの小誌今号への寄稿作「壁の傍」では、佐藤寿保監督の映画『αとβのフーガ』(公開題『変態病棟 SM診療室』、1989年)における、《壁》の意味や役割を考察。本作について、久山さんはSNSで「好きな映画のことを、楽しく、一筆書きのようにして書きました」とコメントしています。前号への寄稿作「立てた両膝のあいだに……一九八〇年代ロマンポルノの愉しみ」は、映画作品内においてのジェンダー、フェミニズム的な論考も含まれていましたが、今作は「好きな映画」に一点集中しての作品論。これは私も該当作を、とネットで調べてみるといくつかの動画サイトで正規に視聴可能でした。ただ、問題は、私(←発行人)が、「痛いの」苦手、なこと。とくに「切る」系の痛そうなのは、むかしガマの油売りの実演を縁日で見てて刀で腕を斬るところで貧血起こしたり、あと『パピヨン』という映画で死体の首が切れていたのを観てて館内の椅子席で貧血起こしたりと...それでも粘り強く各サイトをまわっていたら2分間だけお試し視聴できたところがあって、それでも充分痛そうでしたが雰囲気は伝わりました。また静止画像もアップされていて、壁も久山さんが「白いコンクリートブロックの経年劣化による黒ずみやざらついた質感」だなぁ、と。
調べていく過程でおもしろかったのは「ピンクサイドを歩け」というサイトの主宰者・hideさんのご意見。「佐藤寿保のメタリックで冷徹な映像感覚と夢野史郎の妄執的なドラマツルギーが、限界まで暴走したようなアンダーグラウンドでアヴァンギャルドなピンク映画の極北」「もはや、これをピンク映画と言ってしまっていいのかとさえ思い半ば呆れてしまった」「本作は、SM嗜好の強い人やバイオレンス映画好きの方くらいにしか性的高揚をもたらさない実に佐藤寿保した実験作」と。その後、久山さんの寄稿作をあらためて読み、本作の結論となる《壁》の意味が、おぼろげながらも理解できたのでした。
『αとβのフーガ』を離れた、ロケーション主体の低予算映画に登場する壁についての考察もおもしろかったです。「それはどこにでもあるものである。なんの変哲もないものである」「スタジオシステムの映画ではさまざまな色をし、的確な装飾を配置させつつもどこか抽象的であったそれとは正反対の空間性を伝えている」と。最近は映画を2倍速で観る人が増えているようですが、映像作品って情報量が多いんですよね。久山さんのように丁寧に鑑賞して、そこから独自の思索を組み立てるかたが小誌へご寄稿くださること、頼もしく嬉しいです。
女性の性的妄想を扱う映画で、女性が責められるさまを白昼夢としてみる描写はみかける。しかしこのように、責めの夢から醒めて戻る場もまた責めである、というのは珍しい。最初の責めはマゾヒストの女にとって十全な欲望充足とはなりえず、責めが責めの夢を呼び込む。映画冒頭では視点人物だった男の欲望物語は、ここで女の欲望物語に呑み込まれ、ヘゲモニーの逆転が起きている。
〜ウィッチンケア第12号〈壁の傍〉(P168〜P171)より引用〜