2012年に「実話怪談覚書 忌之刻」で単著デビュー、昨年は「忌印恐怖譚 くびはらい 」を上梓した我妻俊樹さん。ネット上にいくつもある我妻さんのアカウントは、私からするとけっこう複雑怪奇(ご本人にはなにかしらの整合性があるはず...)で、すべてを拝見しきれてはいないかも。最近はnoteでの【日記超短編】が頻繁に更新されているようで...あっ、noteといえば、我妻さんは2019年11月23日付で小誌創刊号〜第10号までの掲載作すべてを自己解説しています。当ブログでの私の至らぬこれまでの我妻さん作品紹介にフラストレーションを溜めていたかた、ぜひアクセスしてみてください。解説文の最後のほうでは「私はたぶんつねにひとつのことしか書けないし、にもかかわらず同じようには二度と書けない、という書き手」とご自身&作品を顧みていて、ああ、その感じわかるなぁと思いました。
我妻さんの今号への寄稿作〈猿に見込まれて〉は、冒頭から不可思議な状況へと読者を誘います。「まさかと思って部屋の窓を覗くと、ソファに座っている父親の肩の上に猿が座っている」。この部屋っていうのはリビングルームみたいなものをイメージしてよいのかな? ごく普通に考えると猿はペットとか、あるいはぬいぐるみとか...いやいや、我妻さん作品に「普通」を持ち込むとかえって混乱のもとですね。この後、物語の重要な鍵を担っていると思える、二十年前の小学校の同級生・小林直輝が登場(なんとなく、この小林が猿の化身のようにも読めなくもない)。そして「家のまわりをぐるぐると歩く我が娘は、きれいな蝶でも見つけて追いかけているのだろう」という一文から推察するに、この物語の語り部である「わたし」は女性のよう。長らく両親と同居していて、そのことについて思うところも少なからずある女性...。
百円玉にまつわる話が何度か繰り返されています。「小林直輝がせっせとくれた百円玉は、彼の願いを叶えるための御賽銭だったのかもしれない」「百円玉の表面をぴかぴかに磨き上げ、数字も模様も消えて、丸い小さな鏡になったものを見るのが好きだった」etc。なぜ小林直輝は「わたし」に百円玉をくれたのか、ぜひ小誌を読んで、その真意を想像してみてください!
途中で葬式の家の前を二軒通り過ぎた。あかるい時間なら気づかないような普通の住宅でも、夜になると結構葬式をしているものだ。それくらい多くの人が見送られている岸辺が、つまりこの世だというのに、わたしの両親はどうしてあんなにぴんぴんしているのか。まるで電柱にしがみついて駄々をこねる犬のようだ。そんなふうに思ってから、わたしは冗談好きな男のように自分で自分の喩え話に笑い、ふふふと息を漏らした。足音が時々わたしの歩行のリズムとずれて、あわてて追いついたり、少し止まって待ったりする。この町はわたしが想像するよりずっと大きく、ひとつの星のような複雑さをまとっている気がする。考えていることや、考え始める前の破片が靄のように漂って、それを吸い込むとわたしの頭が物を考え始める。
〜ウィッチンケア第11号〈猿に見込まれて〉(P114〜P118)より引用〜
我妻俊樹さん小誌バックナンバー掲載作品:〈雨傘は雨の生徒〉(第1号)/〈腐葉土の底〉(第2号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈たたずんだり〉(第3号)/〈裸足の愛〉(第4号)/〈インテリ絶体絶命〉(第5号)/〈イルミネ〉(第6号)/〈宇宙人は存在する〉(第7号)/〈お尻の隠れる音楽〉(第8号)/〈光が歩くと思ったんだもの〉(第9号)/〈みんなの話に出てくる姉妹〉(第10号)
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