2022/04/30

VOL.12寄稿者&作品紹介08 木村重樹さん

 木村重樹さんの小誌今号への寄稿作は、第10号に掲載した『昭和の板橋の「シェアハウス」では』との関連性が強い一篇。タイトルには鵜野義嗣、青山正明、村崎百郎という人名が並んでいまして...さて、読者のうちどのくらいの方が、3人(各々)の名前にビビビッ、と反応してくださったのか。木村さんとは約四半世紀前にパソコン通信(草の根BBS)で知り合ったと記憶していますが、作中で木村さんは「何を隠そう、その『危ない1号』の編集制作を、ひょんなことからお手伝いしていたのが、今から四半世紀前の自分だった」と書いていまして、そういえばBBSで“お話し”していたころはピーター・ガブリエルとか、音楽トークばかりに夢中で気がつかなかったけれども、おたがい同じ出版業のどこかに所属してはいながらずいぶん違う場所にいたのだなぁ、と今作を読んであらためて思うのでありました。えっ!? 私の周囲? のちにそれなりに名を成していた顔を思い浮かべると、バイブスとしてはつい先日吉野家がらみでやらかしてしまった敏腕マーケッターと紙一重のような感じが、しなくもなく。


それにしても、90年代に入るやいなや某評論家が「スカだった」と喝破した80年代が(シティ・ポップも含めて)再評価されたように、いずれ90年代ブームなんてものがくるのでしょうか。「死体」「電波系」「鬼畜」なんて文字がお洒落にデザインされたTシャツをユニクロが売り出したり(...なさそう)。作中のセーラちゃんの「あ〜〜〜……みんな居なくなっちゃいましたね!」という言葉、そして《ことの〝善し悪し〟を云々するつもりは更々ないが、そんな「90年代」が途方もなく〝遠く〟に行ってしまったことには、感慨を禁じ得ない》という一文が、同世代として胸に響きます。

あっ、そうだ。木村さんの作品が掲載されているからだと思いますが、つい先日、セーラちゃんさんが小誌のTwitterアカウントをフォローしてくださり、めでたく相互フォロー関係になりました。移動時間中などにボケッとタイムラインを眺めていると、唐突にご尊顔のお写真などが現れ、別世界に連れて行かれそうになります。これもなにかのご縁なので、ぜひ私も一度「まぼろし博覧会」を訪ねてみなければと思う今日このごろであります。




 90年代当時、すでに特殊漫画家として八面六臂の活躍をみせていた根本敬氏の絶妙なプロデュースによって、当初は覆面ライターとしてデビューした村崎氏だが、その後、紫色の頭巾を被って人前に出て、得意のゴミ漁りネタを吹聴するようになり、『鬼畜のススメ』(データハウス/96)や『電波系』(太田出版/96)といった著書で一躍時の人となる(この両著の編集制作をお手伝いしたのも自分だった)。
 それから十数年の歳月を経た2010年7月、読者を名乗って自宅を訪れた暴漢に、村崎氏は突然刺殺されてしまう。衝撃的な事件の後、彼が所有していた膨大な蔵書や資料の一部は、出身校である明治大学図書館に寄贈されたが、そこから漏れた〝お宝(ゴミ/原文ではルビ)〟の行き先が、まさにこの「まぼろし博覧会」だったのだ。
 回想ついでに言えば、青山氏もまた薬物乱用の後遺症や鬱状態をこじらせて出版界からフェードアウトし、2001年6月、自宅のドアノブに首を吊って自死を遂げた。

〜ウィッチンケア第12号〈2021年「まぼろし博覧会」への旅──鵜野義嗣、青山正明、村崎百郎〉(P044〜P048)より引用〜


木村重樹さん小誌バックナンバー掲載作品:〈私が通り過ぎていった〝お店〟たち〉(第2号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈更新期の〝オルタナ〟〉(第3号)/〈マジカル・プリンテッド・マター 、あるいは、70年代から覗く 「未来のミュージアム」〉(第4号)/〈ピーター・ガブリエルの「雑誌みたいなアルバム」4枚:雑感〉(第5号)/〈40年後の〝家出娘たち〟〉(第6号)/〈映画の中の〝ここではないどこか〟[悪場所篇]〉(第7号)/〈瀕死のサブカルチャー、あるいは「モテとおじさんとサブカル」〉(第8号)/〈古本と文庫本と、そして「精神世界の本」をめぐるノスタルジー〉(第9号)/〈昭和の板橋の「シェアハウス」では〉(第10号)/生涯2枚目と3枚目に買ったレコード・アルバムについて──キッス讃〉(第11号)

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2022/04/29

VOL.12寄稿者&作品紹介07 インベカヲリ★さん

とにかくいま、インベカヲリ★さんは超忙しそう。小誌に前回寄稿してくださったのは2019年発行の第10号で、そのころは写真家としての活動で第43回伊奈信男賞を受賞(2018年)、日本写真協会新人賞受賞(2019年)と順風満帆そうだったのですが、その後ノンフィクション・ライターとして昨年9月に『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』を上梓。さらにその後もライター/インタビュアーとしての仕事が怒濤のごとく続いたようで、来月には初のエッセイ集『私の顔は誰も知らない』が16日に、インタビュー集『「死刑になりたくて、他人を殺しました」 無差別殺傷犯の論理』が19日に正式発売...って、これだけでもたいへんそうなのに、つい先週、昨年出版された『家族不適応殺〜』が第53回「大宅壮一ノンフィクション賞」にノミネートというニュースが。思わず「オオタニサーン!」と叫びたくなりそうなのは、私だけか。でっ、そんなインベさんの小誌今号への寄稿作なんですが、ここまで記したインベさんの多忙環境の前後について、インベさん自身が自己心理分析をしているような作品なのです。その内容がまたインベさんらしいとしか言いようのない、冷静さと激しさが平熱感覚で交錯したもので、必読。


希死念慮。ググってみればトップに「こころの健康相談統一ダイヤル」が出てくる、穏やかならぬ言葉なのですが、インベさんは作品の冒頭近くで自分にはそれがアリ、とさらりと書いています。“よく「人生で死のうと思ったことが〇回ある」みたいなことを言う人がいるが、数える感覚があることに驚いてしまう。私は死にたい気分がデフォルトで、そうじゃない状態を体験したことがない”、のだと。それで「つらつらと考えてみたい」、のだと。ただし、インベさんは常に「死にたい」と思ってはいても、自殺企図に至ったことは一度もない、と。そして、作中ではむしろ心身の健康を気遣って生活している様子や仕事観なども率直に語られ...。

しかし作品の終盤になって、それまでの話が大転換を迎えます。ネタバレににならない範囲でお伝えしますと、私が寄稿依頼したのが昨年秋。その後、わりと早い段階でお原稿に手を付けてくださったようなのですが、多忙になり途中で3ヶ月ほど放置。新年を迎え、私からの催促で再度原稿に向かい、フィニッシュさせようとしたら驚きの結末に! これは『家族不適応殺〜』に圧倒された読者も、今後『「死刑になりたくて〜』や『私の顔は〜』を読む人にとっても、スリリングかつ目から鱗な一篇ですぞ。ぜひ、実際に手に取ってお確かめください。 



 似たようなことを考えていたという女性に会ったことがある。彼女は小学生の頃、鬼ごっこで鬼をやりながら青空の下を駆け回っていたとき、ふいに「人生、長っ」と感じたらしい。大人になった今でもその感覚からは抜け出せないという。

 私もまったく同じだ。あの頃と変わらず退屈が心に巣くっている。退屈など絶対にない世界で生きていきたい、と強く願っていたから、高校時代の将来の夢は過労死だったくらいだ。ところが私の人生は不思議なもので、どれほど望んでもキャパオーバーするほどの忙しさにはならない。理由も実は分かっていて、私は意外と仕事を選んでいるからだ。常に選択肢として「そんなのやるくらいなら死んだほうがまし」があるので、自分がやるべき仕事ではないと感じたら、やらないのである。

〜ウィッチンケア第12号〈希死念慮と健康生活〉(P040〜P043)より引用〜

インベカヲリ★さん小誌バックナンバー掲載作品:目撃する他者〉(第7号&《note版ウィッチンケア文庫)/日々のささやかな狂気〉((第10号)


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VOL.12寄稿者&作品紹介06 カツセマサヒコさん

 カツセマサヒコさんは小誌今号巻末に掲載した《参加者のVOICE》に「2022年はライター業をお休みして、小説一本でどこまでやれるか挑戦しています」とのコメントを寄せています。カツセさんが小説家としてデビュー作「明け方の若者たち」を発表したのが2020年6月。ベストセラーとなり、2021年2月には映画化の発表、11月には文庫化され、年末に映画公開(発行人はTOHOシネマズ南大沢で観賞しました)...ものすごいスピードで仕事環境が変化する中でも、自身の「この先」を見据えている姿勢が素晴らしいと思います。そんなカツセさんと私は今年2月、町田市民文学館ことばらんど主催の文学講演会「東京の端 表現の橋」で少し対談する機会があり、そのときもカツセさんは「書くこと」へのこだわり(というか執念)みたいなことを多く語っていました。会場は満員。お客さんの中にはキャリーバッグ持参の方もいて、かなり遠方からこの講演会に駆けつけたのだろうな、たぶん。ご多忙にもかかわらず、前号に引き続き小誌にご寄稿くださったこと、あらためて感謝いたします。


今号掲載作『復路、もしくは、ドライブ・ユア・カー』は、「俺(タロちゃん)」と「リョーちゃん」の車内での会話がメインの物語です。2人は小学校の同級生。久しぶりに会って昔話や近況について語り合うのですが...短くもない時間を経ての、両人の微妙なズレと共通項がきめ細やかに描かれています。私は2人の登場人物よりはるかに長い年月生きていますが、「過去の出来事」っていうやつはいまだにやっかいで、それはそっとしておくのが正解なのか蒸し返してみることもアリなのか、いまだによくわからない。忘れちゃいたいようなこともときどき思い出すし、覚えていなきゃいけないことを、もしかするともう忘れているかもしれない。...とにかく、ぜひ多くの方がこの友人同士の会話に耳(目を)傾けてくださること、発行人として願っています。

今作はタイトルに「復路」とありまして、カツセさんもツイートしていますが《前日譚的な前編》の『往路、もしくは、ドライブ・マイ(ペアレンツ)・カー』が、Sponsored by トヨタ カローラ クロスの特設サイトantenna*内にて試乗レポートともに掲載されています。ご本人曰く、併せて読むと「500倍くらい楽しめ」る、と。ぜひ、アクセスしてみてください。

★サイトへのURL
https://bit.ly/3vni50R 

★テキストへの直リンク
glider-associates.com/files/story.pdf




「ねえリョーちゃん」
「うん?」
「今更って言えばなんだけどさ」
「うん。なに?」
「もう一個いい?」
「うん」
「ヤマダリカのこと、覚えてる?」
「もちろん」
「どんくらい覚えてる?」
「え、うーん」
 ヤマダリカの、暗い顔を思い出す。ヤマダリカの汚い文字を思い出す。ヤマダリカの画鋲がたくさん刺さった上履きを思い出す。ヤマダリカのチョークの粉まみれになった机を思い出す。
「いじめてた」
「うん」
 小六の頃だった。ヤマダリカは、遅刻も多いし、鈍臭いし、服も毎日同じだし、なんだか、みんなと違うから、それで、それだけで、俺たちは、彼女を授業中とかに弄るようになって、それがどんどんエスカレートして、いつしか、あれは、弄りじゃなくて、いじめに変わっていた。
「最近、たまに、ヤマダリカに会いたくなる」
「え、タロちゃんが? なんで?」

〜ウィッチンケア第12号〈復路、もしくは、ドライブ・ユア・カー〉(P030〜P039)より引用〜

カツセマサヒコさん小誌バックナンバー掲載作品:それでも殴りたい(第11号)


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2022/04/28

VOL.12寄稿者&作品紹介05 長井優希乃さん

令和GALSの社会学」の著者・長井優希乃さん(あっこゴリラさん、三原勇希さんとの共著)。今号ではひょんな偶然が重なり、小誌へ初寄稿してくださることになりました。最近ほとんどテレビを見なくなった私(←発行人)は自分の部屋でネット聴取していることが多く、Spotify経由でのPodcastにもいくつかチェックを入れていて、お気に入りのひとつが寄稿者・柴那典さんもときどき出演する「三原勇希×田中宗一郎 POP LIFE:The Podcast」。その♯070に“三原さんのソウルメイト”として長井さんとあっこさんが出ていて、興味深い話が満載だったのです。それで「令和GALSの社会学」を買いまして、それからしばし時が流れ、小誌第12号の準備を始めた2021年秋。ある調べごとで私の住む東京都町田市の広報ウェブサイトを閲覧したら、なんと長井さんが紹介されていました。《町田市野津田育ちの「生命大好きニスト」(芸術教育アドバイザー、ヘナ・アーティスト)》...これはなにかのご縁かもしれず、とFacebookの町田関連コミュニティの「友達」に聞いてみると、「令和GALSの社会学」の書籍編集者も町田在住とわかり...と、そんな流れで無事長井さんに寄稿依頼することができたのでした。でも、一番の偶然は、コロナ禍で長井さんがアフリカから日本に戻っていたこと、かな。そのへんの事情は、ぜひ寄稿作「牛の背を駆け渡る」でお確かめください。


作品の舞台であるトゥルミはエチオピア最深部でスルマ・オモ川の流域。地図を見てみると南スーダン、ケニアまでもう少し、といった場所です。いまから10年前、長井さんは「大学を休学して行った1年間の旅の途中、ひょんなことからエチオピアに行くことにした」そうで、首都のアディスアベバから長距離バス〜ミニバス〜NGO関係者の車を乗り継いでトゥルミに到着した、と。以後、現地での体験談が続き、その内容があまりにもおもしろいのでそのまま魅了されてしまいましたが、今回あらためて作品を読み直してみて、旅に出た理由が「ひょんなこと」としか説明されていないのが、逆になんともリアルだなぁ、と思ったり。移動が制限された昨今ではちょっと事情が違いますが、世の中には「目的(地)に至ることが旅」な人と「旅自体が目的」な人がいるよなぁ、と。

作品の後半では、現在の長井さんの日常生活が語られています。具体的には記されていませんが、国内で職を得て規則正しい社会人生活を淡々とこなしている感じ。...ちょっと、町田とか東京とか日本とかだと、長井さんにとっては狭すぎる環境なのかもしれず、このコロナ禍が一段落したら、また長井さんはどこかへと旅立っていきそうな予感が、読了後にしてなりませんでした。


ガイドのギノによると、彼女らにとって、ムチに打たれて傷ができることは、自分が牛跳びをする若者をいかに応援しているか、ということを示すしるしとなる。ムチに打たれず傷を作らないことは、応援の気持ちを表すことができないのと同じなのだそうだ。ゆえに、女性たちは積極的にムチに打たれ、その傷を誇りとする。しかも、応援してくれたことのお返しに若者の家からヤギがもらえることもあるらしい。あの女性たちの迫力を見ると、「ムチに打たれてひどい、かわいそう」などとは全く思えない。私もハマルの女性だったら、ムチに打たれにいくのだろう。
 牛跳びをする若者が現れた。彼は頭髪の一部を残して後は丸坊主だった。そして全裸に、交差させた紐を上半身に巻くのみ、という格好だ。いざ、15頭ほどの牛が、1頭に2人がかりで角と尾をつかまれ、一列に並べられた。

〜ウィッチンケア第12号〈牛の背を駆け渡る〉(P024〜P028)より引用〜


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2022/04/27

VOL.12寄稿者&作品紹介04 武田徹さん

 小誌第2号からの寄稿者である武田徹さんと、今号での原稿やりとりで楽しいことがあったので、書き留めておきたいと思います。武田さんと私とは年齢がひとつ違い。なので過ごしてきた時代の共通認識みたいなものも多いと思っています。でも、時折「あれっ?」と感じることが、これまでにもありました。たとえば高校時代、武田さんの周囲でははっぴいえんどやムーンライダーズがごく普通に聞かれていたような...(あくまでやりとりからの推測)。私の周囲といえば、キャンディーズと矢沢永吉だったな。はっぴいえんどやムーンライダーズを聞いてるやつは皆無。この環境の違いがなにに起因するかは深掘りしませんが...それはともかく、武田さんの今号寄稿作はオートバイについての一篇で、送られてきたお原稿の序盤にこんな一節があったのです。「大学ではフランス文学界隈をうろついていたので、マンディアルグの『オートバイ』を読んだ。19歳の若き人妻レベッカが、革のライディング・スーツに身体を押し込み、ドイツに住む恋人に会うためにハーレー・ダビッドソンを駆る物語だ」。



大学で「フランス文学界隈をうろつい」たことなど皆無だった私は、返信に「私、オートバイの似合うかっこいい女性といったら峰不二子しか思い浮かびません」みたいなことを脊髄反射で書きそうになったのですが、そこはぐっと堪え、まずそのAndré Paul Édouard Pieyre de Mandiarguesについてググってみました。楽しかったのはここからでして、なんと、「19歳の若き人妻レベッカ」と峰不二子が、ジャン=リュック・ゴダールやマリアンヌ・フェイスフルや鈴木慶一やおおすみ正秋を介してだんだん繋がってきた(興味を持った方はぜひ調べてみてください)。ホント、自分のワールドに閉じ籠もらず他者と協業してみる醍醐味ですね。小誌をつくることで私の視界はずいぶん広がったと思っています(関わってくださるみなさまに感謝!)。それにしても、年齢差1なのに、なぜ武田さんはレベッカに辿り着き、私は峰不二子までなのか...これも、深掘りはしませんとも。

武田さんが自動車雑誌「NAVI」の編集者だったことは存じ上げていましたが、今作を読んで、バイクに対してもこれほど愛着を持っていたことに驚きました。私はかろうじてクルマを運転するものの、メカ的なことにはまったく疎くて...そういえば武田さん、1990年代半ばには『メディアとしてのワープロ 電子化された日本語がもたらしたもの』という著書があったり、同じ頃に上梓した『知の探偵術 情報はいかに作られるか』では足で操作できるカセットデッキを仕事に取り入れていたり、もともとメカニックに強いんだ...なんてことも思い出して、作中で語られているバイクの車種や形状についての話もストンと胸に落ちました。ジョン・ケージ見たさに軽井沢までバイクを飛ばした等々、おそらく他誌では開陳しない逸話が詰まった武田さんの今号寄稿作。ぜひ多くの方に読んでいただきたいと思います!



 RZは2ストロークなので排気量の割には加速力があり、峠道では400キラーと言われていたが、自分とは無縁の話だった。ただ、何度か遠出を繰り返すうちにバイクの面白さが少しずつ分かってきたような気がした。山の中のつづら折れの道を走っていて、日があたっているところは暖かく感じ、日が陰ったところに入るとすっと温度が下がる。速度によって空気を圧縮して走っているので温度が積分される。バイクは感覚増幅装置なのだと思った。
 マンディアルグが描いたラストシーンも、バイクによって増幅拡張された神経系が想像上の死に触れたものだったのだろう。豊かな感性の持ち主(私のことではない)がバイクに乗れば、普段は経験できない、もうひとつの世界を感じることも確かにできそうだった。

〜ウィッチンケア第12号〈レベッカに魅せられて〉(P020〜P023)より引用〜

武田徹さん小誌バックナンバー掲載作品:〈終わりから始まりまで。〉(第2号)/〈お茶ノ水と前衛〉(第3号)/〈木蓮の花〉(第4号)/〈カメラ人類の誕生〉(第5号)/〈『末期の眼』から生まれる言葉〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》〉/〈「寄る辺なさ」の確認〉(第7号)/〈宇多田ヒカルと日本語リズム〉(第8号)/〈『共同幻想論』がdisったもの〉(第9号)〈詩の言葉──「在ること」〉(第10号)/日本語の曖昧さと「無私」の言葉〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介03 ふくだりょうこさん

 ふくだりょうこさんとは今号寄稿作の最終チェックやりとり以降しばしご無沙汰スイマセンなのですが、しかし、SNS経由で伝わってくる最近の福田さんの近況、あまりにもお忙しそう過ぎすぎる。まず、cinema PLUSでのドラマレビューが毎週3本。高橋一生主演のTBS金曜ドラマ「インビジブル」と二宮和也主演のTBS系日曜劇「マイファミリー」とNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。そしてここ一週間ぐらいだけでも、Netflixの全世界独占配信ドラマ『ヒヤマケンタロウの妊娠』がらみで斎藤工と上野樹里、MBS/TBSドラマイズム「明日、私は誰かのカノジョ」に出演する宇垣美里にインタビューetc.。...ええと、なんだか「ふくださんって芸能系のライターでしたっけ?」みたいな紹介になっていますが、違うんです。noteの《お仕事のご依頼について》という自己紹介ページには、ゲームシナリオ執筆を筆頭に「できること」があと6個。他にも昨年創刊した文芸誌「Sugomori」も順調にvol.1、vol.2が出て、vol.3は「団地」をテーマに第三十四回文学フリマ東京(5/29)でお披露目される、とのこと。あっ、文フリ東京、ウィッチンケアも出店しますので、またお目にかかれますね!


かように超多忙なふくださんが、小誌第12号に寄稿してくださった掌編「死なない選択をした僕」。2022年等身大の目線で近未来SF小説を描いてみたらこんな風景かもしれない、というリアル感を漂わせた物語です。ふくださんの第10号、第11号への寄稿作はいずれも「男女の微妙な心の綾」を描いたもので、それは「できること」筆頭の(恋愛シミュレーション)ゲームシナリオ執筆のスキルから派生した作風のようにも思えましたが、今作は、なんか、そういう枠からはみ出しているみたい。はい、ぜひ小誌ではいろいろはみ出してみて、その「試み」を本職にフィードバックしていただければ嬉しく存じます。

登場人物は「僕」と「キリヤマ」の2人。退屈な職場での何気ない雑談で構成されているのですが、二一××年の人間の生活様式が明らかになり、さらに2人のバックグラウンド等が断片的に描かれたりしていく中で、その雑談がやるせない重みを帯びてきます。私は古い人間なのでいまだに未来=ユートピア、的なことを信じたい気持ちもちょっとはあるんですが、しかし、とくに21世紀に入って以降は未来=ディストピアがヒトのマインドのデフォルトだなぁ、とこの一篇を読んでしみじみ。あと、二一××年でも、やっぱりヒトにとっておカネは大事なのか、とも...。みなさま、ぜひ本作を読んで、ヒトの未来の生き方について思いを馳せてみてください!




 肉体を持つ『旧型』の人間である僕は、日々モニターに囲まれた部屋で電源系統の管理を行っていた。脳をデジタル化したことによって、電力はそれまで以上に必要不可欠なものになった。いつ起こるか分からない災害や事故に備えて何重にも予備電源が用意されているが、ごく稀に故障が発生する。そのときの対応をするために、僕を含め、数人の旧型の人間がここで待機している。それこそ、こんな単純な仕事ぐらいデジタル化できないのかと思うが、何かしらの理由があるらしい。僕は詳しくは知らない。電源、だけではなくて、もっとこう、複雑な何かがあるのだろう。ただ、ここの給料は良く、お金を貯めて僕もいつかはこの肉体を手放したいと思っている。病気にも怪我にも無縁の生活を手に入れる。そう、脳のデジタル化には金がかかる。だから、貧しい人間はいつまでも肉体に縛られ、死に怯えている。

〜ウィッチンケア第12号〈死なない選択をした僕〉(P016〜P019)より引用〜


ふくだりょうこさん小誌バックナンバー掲載作品:〈舌を溶かす〉(第10号&《note版ウィッチンケア文庫》)/知りたがりの恋人〉(第11号)

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2022/04/26

VOL.12寄稿者&作品紹介02 矢野利裕さん

 今年2月に『今日よりもマシな明日 文学芸能論』(講談社刊)を上梓した矢野利裕さん。同書は町田康、いとうせいこう、西加奈子の作家論をメインに、補論として昨年の東京五輪にまつわる小山田圭吾の件についての考察も収めた文芸批評の本。表紙の挿画はイラストレーター・unpis(ウンピス)の作品で、これ、DJでもある矢野さんのイメージを膨らませてオリジナルで描いたんじゃないかなぁと私は感じました。unpisの絵って、一瞬「あれっ?」というヘンなところが魅力。矢野さんの本のタイトルも「文学芸能」という、読んでみないと意味が「あれっ?」な言葉を連結していて、呼応しているのか? でっ、表紙を捲るとまた表紙みたいな紙質でこの「赤いレコードを持った人」がアップになるんですけれども...個人的には文芸批評本というともっといかつい書物だという印象を持っていたので(内容も「○○は女というものが書けない作家なのであるのである」みたいな...)、この軽やかな装幀からして新鮮でした。あっ、Real Soundのサイトに《矢野利裕が語る、文学と芸能の非対称的な関係性 「この人なら許せる、耳を傾けるという関係を作ることがいちばん大事」》という円堂都司昭さんによる素晴らしいインタビューがあるので、ぜひご参照を!



矢野さんの今号への寄稿作は『今日よりも〜』のエピローグの、さらなるサブリーダー的な内容。教育者である矢野さんと生徒との交流をベースに、自意識についての考察が展開されています。前半では固有名詞にまつわる(というより「纏わり付く」かな)自意識について。中学生の矢野さんが「デ・ラ・ソウル」を好きなミュージシャンだと言ったアメリカ人英語教師に話しかけた逸話、いいな、羨ましいな、と思いました。そういう体験が、のちの矢野先生が生徒に接するさいのスタンスの礎なのか、と。中〜後半での重要な固有名詞は「エヴァンゲリオン」。とくに矢野さんと2003年生まれの高校3年生のある教え子(女性)との、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』観賞後の感想の違いが印象深かったです。...ちょっと恥ずかしいんですけれども、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』だけDVDで持ってる私は、矢野さんの作品評に深く納得しつつも、気分的には教え子さんの言い分に共感しちゃったりして。

矢野さんが終盤近くで「僕のなかからはどうしようもなく失われてしまったもの」と表現している...なんだろう、「感じ方」(←自意識の要因?)みたいなもの。じつは私は“それ”をいまだに隠し持ってるというか飼い慣らしてるというか、そんなふうにしてなんとか社会適応しているというか...ちょっと意味不明になってきましたので、みなさまにおかれましては、ぜひこの一篇を読んで、ご自身の“それ”と照らし合わせてみていただけると嬉しく存じます。




 リアルタイムで旧エヴァに接していた僕にとって、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はとても感銘を受ける作品だった。物語としてほとんど破綻していた(もっとも、その破綻こそに凄みが宿っていたのだが)作品をあらためて作り直し、堂々と完結させた庵野監督に敬意を抱かずにいられないし、その壮大な物語の着地も見事だと思った。
 まっとうに社会と向き合ってまっとうに大人になることを肯定するような、シンジをはじめとする作中人物たちのありかたにも、30代のいち男性として共感した。加えて言えば、そのように社会と向き合うことを肯定することが、1990年代とは異なる2020年代という時代にふさわしいとも思った。

〜ウィッチンケア第12号〈時代遅れの自意識〉(P010〜P015)より引用〜


矢野利裕さん小誌バックナンバー掲載作品:〈詩的教育論(いとうせいこうに対する疑念から)〉(第7号)/〈先生するからだ論〉(第8号)/〈学校ポップスの誕生──アンジェラ・アキ以後を生きるわたしたち〉(第9号)/〈本当に分からなかったです。──発達障害と国語教育をめぐって〉(第10号)/〈資本主義リアリズムとコロナ禍の教育〉(第11号)


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2022/04/25

VOL.12寄稿者&作品紹介01 トミヤマユキコさん

 私(←発行人)はいまだに紙の朝日新聞を定期購読していまして、さすがにここ数年は「デジタルでもいいかな」と思ってはいるんですが、それでも長年の習性で朝、ポストから新聞を出して拡げるわけでして、とくに土曜の朝は少し寝坊気味にパサパサと頁を繰って、書評欄で書評委員・トミヤマユキコさんの名前を見つけるのが楽しみです。トミヤマさん、毎回セレクトも小粋なんですが、とにかくオススメの一文が小気味よい。たとえば今月(2022年4月)は『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』と『わたしが先生の「ロリータ」だったころ』を紹介していますが、前者では“ドンキとレヴィ=ストロースって一体どんな組み合わせだよ、と思った人にこそ読んで欲しい。「言われてみれば確かに」となるから”、そして後者では“トラウマから逃げずに向き合った労作である。気合を入れて読んで欲しい。”と。限られた字数の紹介文なのに、こんなインフルエンシヴ(!?)なフレーズを投げられたら、「お、おう。読むか」となるよな〜。



そんなトミヤマさんの今号への寄稿作は「わたしはそろそろスピりたい」。スピってるというと、個人的にはなんとなく今号編集作業中にネットをざわつかせていた元テレビ局アナウンサーを思い浮かべてしまうんですが...それはともかく、オススメ上手なトミヤマさんのスピり方指南は示唆に富んでいます。令和になってからずっとダウナーなんですけど、みたいな、世の中と自身のメンタルの摺り合わせに手こずっている人に、ぜひ読んでいただきたい一篇。ある意味、達観した人生のアティチュードを示してくださっているようにも読めるんだけれども、でも細かく読んでみると「あれっ、この筆者って元来その方面に向かう資質があるのかも?」ってなお茶目な逸話も盛り込まれていて、いい感じです。


じつは小誌今号、新たな寄稿者も増えまして「はて、果たしてどんな1冊になるんだろうか」という“見えない”状況で編集作業をスタートさせました。しかし原稿〆切の比較的早い段階でトミヤマさん、そしてのちに紹介する小川たまかさんの作品が届き、「ああ、このお二人にトップとクローザーをお任せすると良い流れの本になるはず」と確信を持てたのでした。もちろんウィッチンケアは誰のどの寄稿作から読んでも全然OKにおもしろいんですが、もし書店で偶然見かけた、なんて方がいらっしゃいましたら、ぜひ本作からお目通しくださると嬉しく存じます!




特定の宗派とか教義を信じるような敬虔さは持ち合わせていないので、全体的に節操がありません。雑食性でいいじゃない。浅く広くスピっていこうや。そう思っています。たぶん、人間の人間による人間のための世界だけが全てだと思いたくないんでしょうね。複数の視点や価値観を持っていたいという感じでしょうか。コロナ禍でどこへも行けない日々が続きますが、ここに視覚では捉えられないもうひとつの世界があると考えたらどうでしょう。急に世界が2倍。たいへんおトクです。

〜ウィッチンケア第12号〈わたしはそろそろスピりたい〉(P06〜P008)より引用〜


トミヤマユキコさん小誌バックナンバー掲載作品:〈恋愛に興味がないかもしれない話〉(第10号)/〈俺がお前でお前が俺で──マンガ紹介業の野望〉(第11号)


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2022/04/18

正式発行から2週間ちょい経って(ウィッチンケア第12号)

 2~3月の引き籠もり編集作業から一転。桜が咲いてからの発行人は都内を中心に、書店さま巡礼の日々を送っています。帰宅すると、この10年で500回もつぶやいていなかったTwitterの個人アカウントで情報発信。とにかく、「今度のウィッチンケアはおもしろいですよ!」ということを、可能な限り多くの方に伝えたいと思っています(SNS各種でご協力いただいている皆様、大感謝!)。

発行人の肌感覚(?)では、これまでのどの号よりも重層的な展開だなという手応えです。ご理解を示してくださった書店が増えたこと。寄稿者がさらに多様になったことで、興味を持ってくれる層が広がったこと。そして、おそらく、それなりに動いている(売れている)ような気配が、書店員さまやSNS上の声から感じ取れている(取次会社からの追加注文も入りました)。



正式発行から2週間ちょい。月刊誌や季刊誌であれば「そろそろ次号は」の時期なのでしょうが、小誌は年1回発行。ここからが頑張りどころだと思っています。この先、発行人ができること。都内(それも私が東京の端っこ/町田市在住のためついつい西側方面)だけでなく、もっと広範囲の書店さまに小誌の存在を伝えること。そして、第12号に掲載された42名の書き下ろし寄稿作品について、その魅力を個別に紹介していくこと。

例年は5月1日から“ほぼ1日1作”のペースで《寄稿者&作品紹介》をおこなってきましたが、今号はそれだと梅雨入りしても続いていそうなので、今週中にスタート致します。これから1ヶ月余、各種SNSがさらに喧しくなりそうですが、ぜひお付き合いください。

そして、来月5月29日に開催される「第三十四回文学フリマ東京」には、3年ぶりに「ウィッチンケア書店」として出店します(仲俣暁生さん、木村重樹さんとの共同主宰)。この準備を恙なく進めるためにも、書店さま巡礼と《寄稿者&作品紹介》は、より俊敏に遂行せねばなりませぬ。

ここ数日の寒の戻りと雨に活性を挫かれていましたが、切り替えていきます。みなさま、2022年4月1日に正式発行となりました文芸創作誌「ウィッチンケア」第12号を、引き続きどうぞよろしくお願い致します!

★noteにまとめた《ウィッチンケアを手に取れる書店》一覧、こちらにも最新版を掲載します!

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Vol.14 Coming! 20240401

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