ウィッチンケア第3号からの寄稿者・久保憲司さん。今年3月には、音楽評論家・サッカリンさんとの3時間越えの音楽談義がYouTubeで配信されまして、2:42あたりからのデヴィッド・ボウイにまつわる逸話は、たしか久保さんが小誌第7号にご寄稿くださった「80 Eighties」(←同作は後に小説集「スキゾマニア」に収録)でも触れられていましたが、語りで聞いてもやっぱり面白いロックの昔話...あっ、でも久保さんはいつも、昔のことだけじゃなくリアルタイムの世の中にも関心を持ち続けている方でして、小誌今号への寄稿作「アーティフィシャル・インテリジェンス」の主人公・「俺」も、Kindle愛用者という設定です。ちなみに私(←発行人)は、電子書籍、いまだに馴染めず。読んでる(読もうと思っている)本は常に目に入る(手の届く)場所にないと落ち着きません。そのせいでか、拙宅の狭い拙部屋の「モノを置くスペース」は、いつも極小...たとえば本棚って、すでにある本をギッシリ詰め詰めに収める場所ではなく、新しい本を新たに置く場所でもあるべきなんですよね、そうあるべきなんだが。。。
主人公の「俺」は〈今まで書いた自分の小説をAIに読み込ませて、AIに小説を 書かせようとしてい〉る、とのこと。でっ、実行してみると新たな小説はできたものの、それが「俺」にとってはまったく面白いとは思えない作品で、そこからの「俺」の試行錯誤に、本作の面白さがギッシリ詰まっています。唐突に安堂ホセさんや鈴木結生さんも登場して(いや、登場させられちゃって、と言ったほうが良さそうな展開)、でも「俺」はなかなか満足できるものをAIから引き出せなくて...このあたりの心理錯綜の描写が、いかにも筆者らしい。
AIと日々悪戦苦闘を続ける「俺」は、作品終盤で坂口安吾の「堕落論」を持ち出しています。〈堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない〉...これはいわゆる、米国の未来学者レイ・カーツワイルが予言する「シンギュラリティの到来(2045年)」への対処法として、安吾の言葉が有効、ということなのでしょうか? みなさま、ぜひ小誌を手に取って、そのへんのことについて「俺」とともにお考えください。
でも、AIから読み込んだものを「これは小説ではありません」と突き返されなかったのはうれしかった。いろんな奴に俺の小説を読ませてもみんなが声を揃えて、これって小説かと言う。お前らクズや、AI様の方が俺の小説をオモロいと読み込んでくれたぞ。そうや、AIに俺の小説はオモロいか聞いてみよ。
~ウィッチンケア第15号掲載〈アーティフィシャル・インテリジェンス〉より引用~
久保憲司さん小誌バックナンバー掲載作品:〈僕と川崎さん〉(第3号)/〈川崎さんとカムジャタン〉(第4号)/〈デモごっこ〉(第5号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈スキゾマニア〉(第6号)/〈80 Eighties〉(第7号)/〈いいね。〉(第8号)/〈耳鳴り〉(第9号)/〈平成は戦争がなかった〉(第10号)/〈電報〉(第11号)/〈マスク〉(第12号)/〈吾輩の名前はチャットGTPである〉(第14号)
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