そもそも、僕が最初に彼女の「きちゃった」を被ったのは2015年...。
世の中は変わるものだ、令和7年。アポなし訪問なんていまや悪徳業者くらいしか...それでも彼女は平然と、今年も微笑みながらやってきたのである。
(コンプライアンス云々みたいなことを超えて、こういう体験はむしろ新鮮かも)
「お待ちどおさま。今年もできたよ、ウィッチンケア第15号。持ってきたんだから、ちゃんと読んでね」
彼女が差し出したのは、彷徨う女性が表紙になった本。伊勢丹のショッピングバッグみたいな色合いだな、と一瞬思った僕の感覚は...どうなんだろう?
「ありがとう。第15号って、短くもなく続いてるね」
「いろいろたいへんなんですよ、出版の世界は。でも、本をつくるのは楽しいから」
「楽しいと、続く!?」
「続きます。だから、隅から隅まで全部読んでね」
「わかりました。でっ、あのぅ、もし読まなかったらやっぱり今年も?」
「きっちり殺します!」
そう言い切って彼女は去った。僕はウィッチンケア第15号をじっくり読み始める。
あいかわらず表紙を見ただけでは、どんな内容なのか皆目わからない。こんな本が書店で、文字情報だらけの他の本とともに並べられていたら...そこに発行人のなんらかの意志を感じ取れるのではありますが、まああそれはそれとして、ロゴと号数の配置が絶妙なのは、エディトリアル・デザインを手がける
太田明日香の美意識。ちなみに第10号まで表1に配されていた《すすめ、インディーズ文芸創作誌!》というキャッチみたいなのは、今号にも見当たらず。風の噂では発行人が「『インディーズ』とか『オルタナティヴ』とかいう意識がいつのまにかなくなっちゃったんで」みたいなことを宣っていた、とか。「文に芸のある人が創作したものをまとめた」から文芸創作誌、なのらしい。
ページを繰ると、ロゴだけのシンプルな扉に続いて、モノクロでも光と影のバランスが繊細な写真、そして片起こしの《もくじ》が始まる。次ページ見開きも《もくじ》が続いていて、寄稿者数は47名にまで増えている。作品名より人の名前が上なのは、創刊以来変わっていなくて...つまりこれは「誰が何について書いているか」(「誰が書いているか」だけ、でも「何が書かれているのか」だけ、でもなくて)、ということを強調した形式なのだろう。次の見開きには水面の輝き、そして水辺を彷徨う女性の写真が。今号のヴィジュアルイメージを支配している写真家・圓井誓太については2025年3月16日にアップした
《写真家・圓井誓太さんについて》に目を通してもらうのが一番だと思う。
今号のトップは初寄稿となる
綿野恵太。自身の体験を元に、物流倉庫で働く人々のコミュニケーション事情を考察した。次が
藤森陽子のエッセイ。女性が口にした「フェミニン」という言葉にまつわる逸話から、時代の空気感が伝わってくる。続いて初寄稿の
渡辺祐真は、書評家としての仕事と「現代」という観点についての思いを書き記した。
木俣冬はテレビドラマ評などを長く続けた経験をもとに、「女優」という言葉の含意を問い直す。
カツセマサヒコはバスケットボールの躍動感を小説化して、作風の新境地を探った。初寄稿の
関野らんは墓地設計家/建築家という自身の仕事を踏まえ、改めて死者の尊厳について考えてみた。
木村重樹はインターネットが発達した時代の、音信不通になった友人に思いを馳せる。初寄稿の
山本アマネは読書体験と実生活の交錯を、身辺雑記のスタイルでしたためた。
鶴見済は巷ですっかり一般語化した「推し」について、「尊厳」という言葉を対比させてみるなどの試みを。
武塙麻衣子は前号寄稿作「かまいたち」に続き、妖怪との不思議な出会いを描いた小説。
加藤一陽は自身の過去を振り返りつつ、芸能界での性加害問題にも言及。
朝井麻由美はSF小説として、感情が抑制されたディストピアな未来社会を予言する。
中野純は男性の乳首露出とメディアの関係を、独自の視点で多角的に考察。初寄稿の
早乙女ぐりこは伊豆のゲストハウスを物語の舞台に、女性の細やかな心理を描いた小説を発表。
武田砂鉄は今号でも、漆原CEOとの当意即妙な架空インタビューバトルを繰り広げる。
内山結愛はTwitterとスーパーマーケットの摩訶不思議な共通性(!?)、に着目した散歩エッセイを。初寄稿の
佐々木敦は蓮實重彦や小島信夫などに言及し、夢の刊行予定リストを開陳。
オルタナ旧市街は何気ない日常がいかに〝薄氷の上〟なのか、繊細な感性で再確認してみた。
清水伸宏は現実と記憶を行き来しつつ、日々を繰り延べている男性の恋愛模様を小説に。
絶対に終電を逃さない女は身体と心理の関係性を深く織り込んで、擦れ違ってしまう恋人同士の情景を小説で描いた。
長谷川町蔵の今号の小説は音楽好きなサラリーマンの日常、かと思いきや終盤...。
かとうちあきの小説の中には、なんとも形容しがたい宇宙人が登場したりして。
多田洋一の小説は実母の実家があった代々木上原を舞台に、SMAPに関するさまざまな逸話も。
星野文月はベトナムとインドネシアの旅行記で、風景や人との関わり、自身の心の揺れを丁寧に書き記した。
コメカは少年が出会った不気味なクリーチャーとの物語を寄稿、TVODの活動などとは違った意外な作家性を発露。
小川たまかは自身の活動の周辺に渦巻くさまざまな齟齬を、雑記として拾い集めて一篇にまとめた。
武田徹は茨木のり子の詩の世界を、一般的にはあまり語られることのない側面からの視点で読み解いた。
蜂本みさはヤーンボミング(Yarn bombin)という編み物の芸術活動(!?)が題材、その魅力に惹き込まれていく男性を小説で描いた。
宮崎智之の随筆/エッセイは、自身のバスケットボール体験を元にした「補欠」についての論考。
3月クララは前号掲載作「ゼロ」とも関係性のある、幽霊の心根に寄り添った小説を。
稲葉将樹は少年時代に足繁く通った出身地・茨城県下妻市の書店や、当時夢中になった本についての思い出を語った。
すずめ園はもしかしたら自分が歩んでいたかもしれない別の人生を、恋愛小説として。
荻原魚雷は55歳という自分の年齢をきっかけとして、中村光夫や吉田健一の晩年にも言及しつつ、今後の生き方に思いを馳せた。
仲俣暁生は個人レーベル「破船房」での活動の原点とも言える、橋本治との忘れられない思い出を披露。
トミヤマユキコは生活環境の変化に伴う、ひとりっ子としてのある決意について書き留めた。
吉田亮人は地元京都府からの仕事依頼で巡り会うことになった、織物に関わる人々への感銘をエッセイに。
野村佑香はいま一番夢中になっている、インプロという即興演劇の豊かさや奥深さにについて。
久禮亮太は開店2年目となる自身の店舗・フラヌール書店での、さまざまな人々との交流の様子を日記形式で。
うのつのぶこは「長男の不登校」への向き合いを、自身が高校生だった頃をも重ね合わせて語った。
武藤充は大きな影響を受けた忘れ得ぬ人との交流、そして突然すぎたできごとについて振り返る。
ふくだりょうこの小説はかなりの毒気を孕んでいつつ、でも軽妙な語り口であるのがなおさら恐い。
我妻俊樹の小説は学園物語なのだが、どこかが壊れていて後味がなんとも独特だ。
美馬亜貴子の小説もまた、人間の親密度が数値化されたらというアイロニカルな一篇。
久保憲司の小説の主題はAIで、ダリル・グレゴリイや坂口安吾が引用されている。
谷亜ヒロコは兵庫県知事の事案で話題になった人物を通じて、自己承認欲求を考察。
柳瀬博一は日本を「東京」と「東京以外」に腑分けして、現代の都市問題を分析した。
東間嶺の戯曲作品は、つい最近も現実で起こった事件を予言していたかのようなネットの闇を描く。
47篇の書き下ろし後に、今号に関わった人のVOICEを掲載。その後にバックナンバー(創刊号~第13号)を紹介。QRコードが付いているので
Witchenkare STOREでその場で購入できるとは、世の中便利になったものだ。……こんなに読み応えのある本が、じつはまた少し値上げして(本体:2,000円+税)でして、みなさまごめんなさい。諸物価高騰のおり、小誌を続けていくためのこととご理解くだされば嬉しく存じます。
それで、今回もまた繰り返すしかないのだが「ウィッチンケア」とは、なんともややこしい名前の本だ。とくに「ィ」と「ッ」が小文字なのは、書き間違いやすく、今号でも<ウイッチンケア>で検索すると、小誌を紹介してくださっているポストがいくつかあった。他には<ウッチンケア><ウッチン・ケア>...まあ、漫才のサンドウィッチマンも<サンドイッチマン>ってよく書かれていそうだし、そもそも発刊時に「いままでなかった言葉の誌名にしよう」と思い立った発行人のせいなのだから...初志貫徹しかないだろう。「名前変えたら?」というアドバイスは、ありがたく「聞くだけ」にしておけばよい。
そしてそもそも「ウィッチンケア」とは「Kitchenware」の「k」と「W」を入れ替えたものなのだが、そのキッチンウェアはプリファブ・スプラウトが初めてアルバムを出した「
Kitchenware Record」に由来する、と。やはりこのことは重ねて述べておきたい、とだんだん話が袋小路に陥ってきた(というか、いつも同じ)なので、このへんにて。