ウィッチンケア第2号からの寄稿者・木村重樹さん。木村さんと私(←発行人)は来週の日曜日(5月11日)、文学フリマ東京40に共同主宰で「ウィッチンケア書店」(M-24)として参加します。文フリ...ほんとうは〝その日のために制作したスペシャルな○○〟みたいなのを引っ提げてPR展開などすれば良いのでは、とは思うものの、私はもう春先から小誌第15号関連のあれやこれやでずっとテンパっていまして、その余力なし。でも木村さんは違いますよ! 文フリ当日が初お目見えとなる「Shigeki-ZINE 2025:ぼくがかんがえる、あおやま/むらさき/きちくけい」を携えて、颯爽と売り場に臨むとのこと。木村さんファンの皆様、もしよろしければもののついでにWitchenkare VOL.15も、ぜひお買い求めください! さて、そんな木村さんの小誌第15号への寄稿作「『いなくなっていない親友』のこと」は、ある友人との交流を振り返りつつの、ご自身のクロニクルというか、Shigekix版“降誕劇”というか...私はかねてより、なぜ木村さんのようなинтеллигенцияが、1990年代以降のいわゆるサブカルチャー分野に身を置いて、いまに至ったのか、ちょっと不思議にも感じていたのですが、本作を拝読して少しわかったような気になりました。作中に登場する「Aくん」ともし出会っていなかったら、まったく違う人生を歩んでいた方なの、かも。
作品冒頭には〈自分の古い知り合いが、ある特定のSNSを利用していないか、実名検索してみた経験は誰にでもあるはず〉との一文があり、はい、私もそれをしてみたことがあります。とくに10年前くらいのFacebookではその誘惑に駆られることが多く、でも発見したらしたで、めでたく「友達」になって交流が復活したこともあるものの、なんだか「いまさらなんと声を掛けたら良いのか」みたいなケースもあり、そんなときは、在りし日の彼/彼女とFacebookにアップされた近況を重ね合わせつつ、そっとページを閉じて、そして忘れたりして。
今作を読んだうえで、木村さんの過去の寄稿作を再読してみること、私はオススメします。あっ、いや、「Shigeki-ZINE 2025:ぼくがかんがえる、あおやま/むらさき/きちくけい」は、小誌への既発表作をベースに増補改稿したものと伺っていますので、まずは文フリで生木村さんと対面し、ZINE内で展開される独自のワールドを堪能するのがベスト!? みなさま、どうぞよろしくお願い致します!
大学時代もAくんとの交友は細々と続いたが、あっという間に4年が過ぎ、二人とも社会人になると、そうも言っていられなくなる。Aくんは黎明期のパーソナル・コンピュータに未来を見出し、PC雑誌の編集部に潜り込みながら、東洋医学にも関心を示し、「鍼灸師の資格を取るんだ」と夜学の専門学校に通いだす(不思議なことに彼の関心領域は、70年代後半・A5判時代の『別冊宝島』が特集テーマに好んで取りあげた、ある種対抗文化的なトピックに程近かった)。かたや自分はというと(「SF文庫の出版元」という理由だけで)サンリオに就職。出版部ではなく商品企画部に配属され、真夏にキティちゃんの原画に色をつけながらクリスマス商品を考えているうち「なんか……違う!」という気づきを得て、翌年秋には(幻想文学やシュルレアリスム関係の特集誌を刊行する)零細出版社へと転職。お互いが人生の荒波に揉まれる時期へと突入したわけだ。
~ウィッチンケア第15号掲載〈『いなくなっていない親友』のこと〉より引用~
https://note.com/yoichijerry/n/n9089f16965e1
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