2025/05/19

VOL.15寄稿者&作品紹介33 荻原魚雷さん

ウィッチンケア第8号からの寄稿者・荻原魚雷さん。初めてお目にかかった頃から「SNSはやりません」と仰っていまして、唯一のご自身からの情報発信元は公式ブログ「文壇高円寺」。毎年4月の初め頃、小誌の新号が出ると必ずなにかコメントが書かれるのですが、今号への寄稿作については〈「先行不透明」という心境小説を書いた。随筆とどこがちがうのかはよくわかっていない。自然や風景と向き合いながら自分のことを思索する私小説っぽい随筆、もしくは随筆っぽい私小説というのが、わたしの考える心境小説である。今のところ、そういうふうに理解している〉〈前号の「妙正寺川」も心境小説のつもりで書いた〉と。心境小説...AI様によりますと“作者の日常生活で感じたことや内面的な心情を、客観的な描写よりも主として表現する小説”“作者の「私」を主人公とし、その心情や人生観を掘り下げて描くことが特徴”“「私小説」と混同されることもありますが、「私小説」は作者の人生経験を直接的に描くのに対し、心境小説は作者の内面の心情や感受性をより重視”と。たしかに、荻原さんの言う「私小説っぽい随筆、もしくは随筆っぽい私小説」という曖昧な線引きがふさわしいような一篇でして、私(←発行人)は筆者のブログを読むまで、本作はエッセイだと認識していたかもしれない、でした。




五十五歳になった「わたし」の近況...しかし、ここで語られているのは、三億数千年前に海から陸へと上がった四肢動の末裔である「わたし」のことでして、このスケール感での散歩中の思索は、身辺雑記エッセイの枠をはみ出して、小説的な創作性を帯びているのかも。たとえば〈隣の駅のスーパーに買物に行き、近所の店にない食材や調味料を買う〉ことと、人生は有限であり、はっきりしているのは〈いつか終わりがくる。そのいつかがわからない〉ことが違和感なく並列に語られていることで、日常生活での行動のすべてが、人生の大切な一部のように思えてきたりして。


もうひとつ特徴的だな感じたのは、五十五歳になった「わたし」の達観度というか、肯定力の強さというか...作中には〈調べれば調べるほどわからないことが出てくる。終わらない。そのキリのなさがいい〉〈道によく迷う。迷った先で何かを見つける。それでいい〉など、ネガティヴと思えそうな要素を丸ごと呑み込んで前進するようなフレーズが散見できることです。こういうのを、年の功と言うのかな? 極めつけは〈自分のやっていることが何もかも無駄におもえる。もちろん無駄にも意味がある〉...鋼の肯定力! 他にもありますので、ぜひ小誌を手に取ってお確かめください。


ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:276ページ/定価(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-86538-173-3  C0095 ¥2000E


   

 すこし前に中村光夫の『知人多逝 秋の断想』(筑摩書房、一九八六年)を再読した。中村光夫が亡くなったのは一九八八年だから晩年の随筆集である。
 この本の中に吉田健一を追悼した文章が収録されている。
 かつて吉田健一は中村光夫に「自分が書きたいと思っていたことはみんな書いてしまった。あとはもう余生だ」といった。その言葉にたいし、中村光夫はこう返す。 
「それは君が自由になったということだ。これから本当に自分のものが書ける。そういう時がきたんだ」
 このやりとりを読み、こんなふうに考えてもいいんだと気が楽になった。

~ウィッチンケア第15号掲載〈先行不透明〉より引用~


荻原魚雷さん小誌バックナンバー掲載作品:〈わたしがアナキストだったころ〉(第8号)/〈終の住処の話〉(第9号)/〈上京三十年〉(第10号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈古書半生記〉((第11号)/〈将棋とわたし〉(第12号)/〈社会恐怖症〉(第13号)/妙正寺川〉(第14号)

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Vol.15 Coming! 20250401

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