ウィッチンンケア第10号からの寄稿者・うのつのぶこ(宇野津暢子)さんはエッセイ/小説(不倫小説!)と、毎号、その年の気分で自由な作品を届けてくださいます。前号では〈休刊の理由~「港町かもめ通信」編集長インタビュー〉という、武田砂鉄さんの〈クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー〉をさらに捻挫(!?)させたかのような作品を...でも、うのつさんをご存知の方なら、同作のベースには彼女が発行している「玉川つばめ通信」があるのだな、とわかったはずで、虚々実々ながらフリーペーパー発行人の本音が垣間見えてくる一篇でした。さて、そんなうのつさんの小誌今号への寄稿作は〈生きててくれればそれでいい〉。中1のときに不登校になった長男のこと、そしてご自身の高校時代のこと、このふたつを交錯させることで現在の自分の立ち位置を確認しようとしているような、個人クロニクルとも呼べそうなエッセイ...なにか、人生の転機となるような決意でも秘めているのかな、なんて感じさせる。そして、私には子どもがおりませんので、親と子の心の綾は「オレが10代だった頃はどうだったろうかな〜」と、その方向から推察するばかりですが、それでも母親が子を思う気持ちはとてもリアルに伝わってきました。
作中で強く印象に残ったのは自身の大学受験にまつわるピソード。それは“18歳から33歳くらいまで、毎年3月になると「早稲田の一文の発表を見に行ったら掲示板に自分の番号がなくて悲嘆にくれる」という夢を見た”というもので、詳細はぜひ本作を読んでお確かめいただきたいのですが、じつは私(←発行人)もこれに似た夢にしばらく悩まされていたことがあったなぁ、と。大学時代、諸般の事情でフランス語1を再履修しまして、卒業後も「じつはその単位が取れてない」という夢を何度も。なんでだろう? 卒業証書もどっかにあるはずだし、フランス語は単位にかかわらずいまだにちんぷんかんぷんだけど、その夢は定期的に繰り返し見たなぁ。うのつさん(も私も)、なにかトラウマのトリガーに、「早稲田一文」(私は「フランス語」)がなっていたのかも。
作品の終盤では、高校時代の恩師と再会した話が記されています。〈当時は私、I先生のことを下に見ていて、「こんな頼りない担任で大丈夫なの?」って思っていたのだけれど〉と、学生時代の率直な心情を思い出しながらの、33年ぶりとなる、文化祭での再会。その様子も、ぜひぜひ、小誌を手に取ってご確認ください!
当時の桐蔭システムは非常によくできており、課題をガンガン出して生徒に考える隙を与えなかった。そうはいっても中高校生はあれこれ考えるのだけれど、そんな10代の、勉強はまずまず得意な若者に先生は「あのさ、大学受験まではとにかくガッツリ勉強して、ひとまず東大か早慶に入ろうよ。考えるのはそのあとでいいじゃん」というのだった(と私は理解している)。合理的だ。私だってそうしたかった。しかし残念ながら私はその全部に落ちた。私は大学を出ていない母のために、中3のときに亡くなった父のために、自分の見栄のために、東大か早慶に入りたかった。でも落ちた。生活指導の先生に「男子としゃべったら早慶落ちる」と言われ、そうだそうだと納得し、せっかく高3になって共学になったのに、男子とひと言もしゃべらなかった。
~ウィッチンケア第15号掲載〈生きててくれればそれでいい〉より引用~
宇野津暢子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈昭和の終わりに死んだ父と平成の終わりに取り壊された父の会社〉(第10号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈水野さんとの15分〉(第11号)/〈秋田さんのドタバタ選挙戦〉(第12号)/〈好きにすればよい〉(第13号)/〈休刊の理由~「港町かもめ通信」編集長インタビュー〉(第14号)
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