小誌前号には「植物実験をしていた頃」と題した、スケールの大きい植物栽培体験記をご寄稿くださった鶴見済さん。今号ではぐっと世俗(!?)に寄り添った、巷では隆盛であるかのように言われている「推し」文化についての考察エッセイです。具体例として語られているのはビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーで、私(←発行人)は拝読して初めて、鶴見さんが大学生の頃「ビートルズ研究会」に所属していたことを知り、そういえばつい最近、某音楽系出版社に勤めている友人が「いまやビートルズは学問ですからね」と言ったことに驚いた記憶が甦ってきたりしました。「学問」なのか、あの4人組...そして鶴見さん、学生時代にすでに「研究」していたとは! 作中にはポールのつくる曲に関する多角的な分析も披露されており、そうだよな、と納得する点も多々ありました。...しかし、本作の主題はあくまでも、「推し」とはどういうことなのか、について。
タイトル「推す気持ちがわかっていない」は、筆者のスタンスの表明でもあります。自身とは無縁の「推す」を理解しようと、それに近いニュアンスの言葉(「尊敬」「リスペクト」etc.)を当てはめてみたりして、ポール・マッカートニーのつくる楽曲が好きな自分は果たして「ポール推し」なのか、考えてみる...さて、どんな結論なのかは、ぜひ小誌を手に取ってお確かめください。
終盤には大谷翔平さんも具体例として語られていまして、このくだりでは某テレビ番組で斎藤幸平さんがいわゆる「大谷スゴイ話」を振られて「それって“大谷ハラスメント”なのでは?」と言い返していたのを思い出したり。鶴見さんが「ふたつめの見方」と記している対人関係でのアティチュード(これはご著書「人間関係を半分降りる── 気楽なつながりの作り方」の論旨とも共通しているような...)、私もほぼ同意、なのでありました。
もうひとりのジョン・レノンという人は、戦後の若者音楽を作ったあらゆるミュージシャンのなかでも、個人崇拝の対象としてはトップに来る人だと思う。ボブ・ディランでも及ばないだろう。深い思想があり、キャラも魅力的で、音楽以外にも様々な活動をしていて見飽きない。そして道半ばで殺されている。
それに比べてポールには、ほとんど汲むべき思想がない。大した社会的活動もできていない。哲学がないので歌詞に深みがない。
ただしメロディーを作らせたら、誰も右に出る者がない。
そこがいい。ポールが隣にいたせいで、ジョンがすごいすごいと言われても、「『イマジン』ってそんなにすごいのかな」なんてことばかり考えてしまう。
「そういうのを推しって言うんだよ」と言われればそれまでなのだが、「いやいや違う」と言いたいところなのだ。
ポールの曲がこれほど好きでも、ポール個人に対する興味が薄い。ビートルズは裏のエピソードの多さでもトップレベルのグループだけど、ポールの私生活のことはよく知らない。来日ライブも年を取ってからますます頻繁にやるようになったけれども、あまり興味が湧かなくて一度も行っていない。
~ウィッチンケア第15号掲載〈推す気持ちがわかっていない〉より引用~
https://note.com/yoichijerry/n/n9089f16965e1
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