今年2月に『今日よりもマシな明日 文学芸能論』(講談社刊)を上梓した矢野利裕さん。同書は町田康、いとうせいこう、西加奈子の作家論をメインに、補論として昨年の東京五輪にまつわる小山田圭吾の件についての考察も収めた文芸批評の本。表紙の挿画はイラストレーター・unpis(ウンピス)の作品で、これ、DJでもある矢野さんのイメージを膨らませてオリジナルで描いたんじゃないかなぁと私は感じました。unpisの絵って、一瞬「あれっ?」というヘンなところが魅力。矢野さんの本のタイトルも「文学芸能」という、読んでみないと意味が「あれっ?」な言葉を連結していて、呼応しているのか? でっ、表紙を捲るとまた表紙みたいな紙質でこの「赤いレコードを持った人」がアップになるんですけれども...個人的には文芸批評本というともっといかつい書物だという印象を持っていたので(内容も「○○は女というものが書けない作家なのであるのである」みたいな...)、この軽やかな装幀からして新鮮でした。あっ、Real Soundのサイトに《矢野利裕が語る、文学と芸能の非対称的な関係性 「この人なら許せる、耳を傾けるという関係を作ることがいちばん大事」》という円堂都司昭さんによる素晴らしいインタビューがあるので、ぜひご参照を!
矢野さんの今号への寄稿作は『今日よりも〜』のエピローグの、さらなるサブリーダー的な内容。教育者である矢野さんと生徒との交流をベースに、自意識についての考察が展開されています。前半では固有名詞にまつわる(というより「纏わり付く」かな)自意識について。中学生の矢野さんが「デ・ラ・ソウル」を好きなミュージシャンだと言ったアメリカ人英語教師に話しかけた逸話、いいな、羨ましいな、と思いました。そういう体験が、のちの矢野先生が生徒に接するさいのスタンスの礎なのか、と。中〜後半での重要な固有名詞は「エヴァンゲリオン」。とくに矢野さんと2003年生まれの高校3年生のある教え子(女性)との、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』観賞後の感想の違いが印象深かったです。...ちょっと恥ずかしいんですけれども、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』だけDVDで持ってる私は、矢野さんの作品評に深く納得しつつも、気分的には教え子さんの言い分に共感しちゃったりして。
矢野さんが終盤近くで「僕のなかからはどうしようもなく失われてしまったもの」と表現している...なんだろう、「感じ方」(←自意識の要因?)みたいなもの。じつは私は“それ”をいまだに隠し持ってるというか飼い慣らしてるというか、そんなふうにしてなんとか社会適応しているというか...ちょっと意味不明になってきましたので、みなさまにおかれましては、ぜひこの一篇を読んで、ご自身の“それ”と照らし合わせてみていただけると嬉しく存じます。
まっとうに社会と向き合ってまっとうに大人になることを肯定するような、シンジをはじめとする作中人物たちのありかたにも、30代のいち男性として共感した。加えて言えば、そのように社会と向き合うことを肯定することが、1990年代とは異なる2020年代という時代にふさわしいとも思った。
〜ウィッチンケア第12号〈時代遅れの自意識〉(P010〜P015)より引用〜
矢野利裕さん小誌バックナンバー掲載作品:〈詩的教育論(いとうせいこうに対する疑念から)〉(第7号)/〈先生するからだ論〉(第8号)/〈学校ポップスの誕生──アンジェラ・アキ以後を生きるわたしたち〉(第9号)/〈本当に分からなかったです。──発達障害と国語教育をめぐって〉(第10号))/〈資本主義リアリズムとコロナ禍の教育〉(第11号)
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