2016/05/04

vol.7寄稿者&作品紹介04 矢野利裕さん

矢野さんについて私が感じるのは、ものすごい音楽的素養がベースにあるが、決して音楽話オンリーにはならない...社会や時代と太い回路で繋がりつつ、音楽を介した視点で物事を読み解く書き手なのだなぁ、ということ。それはたとえば、昨年夏に盛り上がった国会デモに言及した<国会前でシルヴィア・ストリプリンが流れたことについて>や、今年初めのSMAP騒動に関する<SMAPは音楽で“社会のしがらみ”を越えるか? ジャニーズが貫徹すべき“芸能の本義”>などに色濃く表れていると思います。

小誌今号への寄稿作も、音楽的素養(裏打ち)があってこそのものだと思います。いとうせいこうのつぶやきに対する批評は厳しいですが、作品内には<「本場」のヒップホップのフレーズである「Scream!」を「騒げ!」に翻訳/歪曲するという、クリエイティヴな偉業を成したいとう>という、リスペクト感溢れる一節もあり、もしかすると「ディスる」の語源である「disrespect」を音楽的礼儀として踏まえたうえでのことなのかも、とも。

そして原稿やりとりのなかで、矢野さんは詩的教育論の礎には過去に自身が書いた<ヒップホップはパンクではなく、ましてやテクノでもない。――教員の立場から読んだ、B.I.G. JOE『監獄ラッパー』(リットー・ミュージック)>という書評があったかも、と教えてくれました。ぜひこちらにもアクセスを!

矢野さんが中等教育と高等教育の役割分担を丁寧に検証している箇所にも感銘を受けました。不肖私のリアル青春時代は「教師に見つかったらやばい」みたいなことばっかりで終わってしまい(「師的な存在」は学外で勝手に見つけるしかなかったな/それは楽器のうまい年上の人だったり、本や映画だったり、ブルース・スプリングスティーン先生やピーター・ガブリエル先生...)、でもそんな私にも(だから、かな)、矢野さんが「相対化」「変容」「複数性」といった言葉で展開する詩的教育論は響きました。



 学校批判者に対してしばしば思うのは、意外と学校の力を過大評価しているのではないか、ということだ。まるで、学校で言われたことや教員の指導が、生徒まるごとを飲み込んでいくかのようにイメージされる。あるいは、教科書はあたかも洗脳材料であるかのようにイメージされる。これは過信という意味で学校を畏れているし、単純化という意味で学校を見くびっている。多様な教員がいて、多様な人間関係があって、学校以外にも社会や世界が広がっているということを、彼らはなぜか忘れているようなのだ。いやもちろん、ハード面への批判は重要だし、検証もされるべきだろう。しかし、まともな教員ならば、学校的価値観などとっくに相対化できている。相対化したうえで、いずれ生徒が出ていくだろう社会の姿を見据えつつ、そこで求められる振る舞いを生徒に求めるのだ。これが、学校的な「方向づけ」だ。教員たちは、学校的な「方向づけ」を共有しながら指導をするが、一方で、それが指導という文脈において共有されているに過ぎないことを自覚している。

ウィッチンケア第7号「詩的教育論(いとうせいこうに対する疑念から)」(P022〜P027)より引用
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Vol.9 Coming! 20180401

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