武田徹さんとは夜のドトールコーヒーを飲みながら打ち合わせをしました。
武田さんとは十数年前にあるかたの縁で知り合い、私の無理なお願いごとに対して丁寧な手紙をいただきました。まだネットが一般的ではなかったころ。ワープロ、あるいはPCで書いてプリントアウトしたものですが、いまも大切に保管しています。
世の中でなにか気になるできごとが起こると武田さんのHP内の「オンライン日記」(掲示板)を覗いてみる...それが私の日常になってもう、10年。「発想が浮かんですぐの状態、いわば豆乳を煮立てて浮き上がったところをすくった湯葉みたいな感じ」〜オフィシャルページ口上より〜とご本人が記す、ほぼリアルタイムな言説は、いつも示唆に富むものです(...と書いてみて「示唆に富む」という言葉がなんとも流してるようで嫌なので、今日はもう少し真剣に考えてみました。なぜ自分は武田さんの書き言葉が気になるのか、インスパイアされるのか、について)。
武田さんがものを書くさいの「立ち位置」に共感している、というのが一番の要因だと思いました。具体的には、たとえば「ぼくは『核論』を終わらせたい一心で終わらせた。完成させた後は手を離れた場所で他人に陵辱されて自分の怨念もろとも作品が朽ち果てれば、こんなに気が楽になることは実はない。」(2010年6月29日)や「売文業も同じだ。弁護士も売文業も最低最悪の淵にまで落ちることで相転移を導いて自らを聖化する仕事なのだろうと思う。しかしなかなかそれは簡単ではなく、多くは中途半端な小悪党に留まる。間違いなくぼくもそのレベルだ。」(2011年1月27日)といった文章から伝わってくる、書き言葉を扱う自身についての検証の姿勢、というか...。
もの書くことに対する自問、というのは多くの文章家がするでしょう。自分のことを言えば、私はそのことを考えるとほぼ、思考停止か「口を噤んでおく」を選んでしまいます。いや、自分を誤魔化すとか言い訳を考えるとか、そんな対処法でやり過ごしてきました(だって、枷になることが多いんだもの!)。でも武田さんは、自問している自分を晒しながら、世の中と対峙するような言葉を紡いで前進している。
武田さんが寄稿してくれた「終わりから始まりまで。」はもちろん3/11以前の作品で、この時期にウィッチンケア vol.2が同作品を掲載/発表することになった巡り合わせについては、発行人として思うこと多々あり。ですが、時が経てば、「武田徹という表現者のフィールド」の一端を記録したものとして確かな意味を帯びてくる、と信じています。
こうしたモデルの中で、詩とは「了解」のみを求められる表現ということになる。改めて他の言葉で「説明」してしまうと詩の魅力は失われる。詩では、その言葉の存在そのものが代替不能なものとして示される。そう考えることで、強力な魅力を放つ詩の言葉を、一般的な意味伝達の中で偏ったポジションをとる表現だとして説明し、それを特段に「聖別」せずに済ませようと筆者は試みた。こうして位置づけすることで詩の危うい力に首輪を掛けようとしたのだ。
〜「Witchenkare vol.2」P42より引用〜
Vol.14 Coming! 20240401
- yoichijerry
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