そんな武田さんの寄稿作は昨年出た辺見庸の小説『月』を題材に、小誌寄稿作におけるご自身の一貫したテーマ、ともいえる「詩の言葉」を考察した一篇。『月』は2016年の「津久井やまゆり園」でのできごとを小説として描いているようで、...と奥歯になにか挟まったような書きかたをしているのは、ええと、以前、東間嶺さんの第8号掲載作〈生きてるだけのあなたは無理〉紹介でもちょっと触れましたが、私、どうもこの一件をいまだに相対化、というか、冷静に受け止められない(たくない)でいるのです。くどくど述べませんが、実家のある町田市に隣接した相模原市での事象で、容疑者の背景にも複雑な思いがあり(決して肯定してるわけではない)。どうなんだろう、いずれ、たとえばマイケル・ムーアや森達也(乱暴な並べかたでスイマセン)が作品化したら接せられるかな、でも2018~9年時点での辺見庸バージョンはキツそうだな〜、などと逡巡/未読のまま武田さんの原稿に接し、さらにこの文章も書いている。それを正直に述べたうえで、寄稿作〈詩の言葉──「在ること」〉から私が読み取れたことを紹介したいと思います。
ジャーナリスト/小説家/詩人として言葉でのオールマイティな表現活動をする辺見の作品群にあたり、『月』における必然としての詩の文体(主人公「きーちゃん」の存在/その心象を描く)、作者が意識したのか不明のまま使用されているかもしれない詩の文体、さらに「詩の言葉」によって作者が「在る」としてしまったもの(もうひとりの重要な登場人物「さとくん」)とジャーナリスト・辺見庸との整合性について、丁寧に腑分けして読み解かれています。ここでは言語学者ヤコブソンの「言語の6つの機能」のうちの「詩的poetic 機能」と「関説的referential 」機能が前提となっていますが、その2機能についても具体的な事例が示されていて、言葉に対する気づきが多かったです。...そうだ、武田さんの当初の原稿には「人口に膾炙し」という表現がありました。私は小誌編集過程で寄稿者に「読者にとってわかりやすいもの」なんぞ要求しません。ですが、「多田がこの表現を知らなかったので一読目はつらく、グーグルの力を借りて意味を理解した」みたいなことは、正直に伝える場合も。掲載作品では「そこ」がより平易な表現になっていて...小川たまかさんの今号掲載作〈心をふさぐ〉紹介でも書きましたが、編集者がなにを言う/言わない、って、ほんとうにムズカシいなぁ。読者のみなさまには、私のせいで幻となった該当箇所を発見してください! ともお願いしたいです。そしてなにより、『月』読者はぜひぜひ、武田さんの論評に注目してください!
結果的に詩的で美文調となる辺見の文体に惹かれるファンは多い。筆者も一時は好んで読んだ。だが、美文も繰り返し酔ううちに飽きてくる。そんな食傷気味の感覚に『月』は鞭打つ刺激を与えてくれた。そこでは詩的言語を持ち込む辺見ジャーナリズムの手法が最大限に活用され、ひとつの臨界に達しているように感じられた。
「きーちゃん」の心象風景が詩の文体で書かれた理由はよくわかる。「きーちゃん」は声を出すことができない。その言葉は声になる前の「思い」としてあり、それを描くためには「思い」に近い詩の言葉が必要だったのだ。だが、それを詩的に描いた時点で辺見はジャーナリズムを超えてしまう。「きーちゃん」の内面は辺見の想像の産物に過ぎず、その描写は必然的に文芸的創作となる。
だが詩的な文体は「きーちゃん」の内面描写に限らず、『月』全体を覆う。
ウィッチンケア第10号〈詩の言葉──「在ること」〉(P078〜P082)より引用
武田徹さん小誌バックナンバー掲載作品
〈終わりから始まりまで。〉(第2号)/〈お茶ノ水と前衛〉(第3号)/〈木蓮の花〉(第4号)/〈カメラ人類の誕生〉(第5号)/〈『末期の眼』から生まれる言葉〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》〉/〈「寄る辺なさ」の確認〉(第7号)/〈宇多田ヒカルと日本語リズム〉(第8号)/〈『共同幻想論』がdisったもの〉(第9号)
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