知人から聞いた(又聞きだったかも)、高名な建築家(故人)と食事をしたさいの逸話。「ほんと、会ってる間ずーっと建築の話しかしなかった」と。世の中には逆の人もいそうですけど。都民のこと考えているかと思ったら自分の財布のことしか考えていなかった知事とか...ってスイマセン、2016年5月半ばに書いてるテキストだな、と思ってつい時流に身を任せましたが、しかしリンク先の写真、問題ありだけどたしかにある一瞬を切り取っていてインパクトがあり、これは吉田さんの今号寄稿作とも関連がなくもなく。
さて、吉田さんは件の建築家のように、書くとなると「写真のこと」「写真を撮ること」を。小誌前々号寄稿作を読むと、良い意味での回り道をしたようですが、現在はふっきれたように写真道を極めるベクトルへ...今作には、その「ふっきれる」までの心の変遷、そして<コマーシャル、ジャーナリズムなどさまざまな分野で活躍し、社会や政治にも大きな影響を及ぼし>た、写真の歴史への考察が綴られています。
冒頭で触れられている「あと10年で『消える職業』『なくなる仕事』」の記事、じつは私もかなり身につまされまして、あんまりにも怖いので考えずに日々流されて人生を全うしようと。...いまあらためて記事を読み直しましたが、自分は<「来たるべきロボット社会で生き残る」のは機械が出来ない「より高次元でクリエイティブな」仕事をする人間>なのか? 私はともかく、吉田さんは友人・シプさんのひとことを自分なりに受け止めて答えを見つけます。それが何なのかは、ぜひ小誌第7号でお確かめください!
吉田さんは現在、来月1日発売の写真集「Tannery」制作の最終工程で多忙。京都で写真展開催中(オープン・ワークショップは無事終了)で、月末には矢萩多聞さんとのトークショーがあるそう。ぜひみなさま、吉田さんのHPでご確認ください!
「アキヒトさん、誰にでも撮れない写真を創るためにはアキヒトさん自身のフィロソフィーが大切になってくるんです」
以来、この言葉をことあるごとに思い出し、僕の写真を撮る行為においての指針のようなものになっているのだが、しかし当時は本質を完全に理解していたわけではなかった。彼の言葉を受けて僕はただポカンとしているだけだったのだ。
そもそも写真を撮る行為では、撮影者と被写体の間に必ずカメラが介在する。撮影者はシャッターを押すだけで、写すのはカメラという機械である。だから「所詮機械が撮ったそれ」に己のフィロソフィーを持ち込んでも、果たしてそんなものが写り込むのかという疑問を持った。
その疑問は、やがてじわじわと氷解していくのだが、きっかけは写真を撮り続ける行為の中にあった。
ウィッチンケア第7号「写真家の存在」(P150〜P153)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/143628554368/witchenkare-vol7
吉田亮人さん小誌バックナンバー掲載作
「始まりの旅」(第5号)/「写真で食っていくということ」(第6号)
http://amzn.to/1BeVT7Y
Vol.14 Coming! 20240401
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