木村さんの今号寄稿作...じつはかなり私は琴線に触れられまして、クラッと目眩を催しました。過去ご寄稿いただいた中で、今作は比較的短めの一篇。しかし、しかしですよ、とくに前半部分、これほど〝素の木村重樹さん〟(←キャラづくりでしたら失礼!)が顔を覗かせたことは、なかったんではないかなぁ、と。元来学究肌の木村さん。カルチャー事象の論考では資料を駆使し、さまざまな文献から独自の見解を組み立ててくださることが多かったのですが...。
もし「本作をひとことで要約せよ」という国語の問題があったら...私だったら「旅に出よう」って書いて提出するかな(〝テントとシュラフの入ったザック〟は無用)。木村さんは映画『トゥルーマン・ショー』を例に引いて自身の旅における〝あれっ!?〟感(←私が勝手に命名)を述懐していますが、少なからず年齢を重ねるとこの感覚は強くなるのでしょうか? 「ついこのあいだ自分が訪れていた〝あの場所〟は、そして、そこで出会った〝人たち〟は、はたして本当に実在するのだろうか?」(本文より引用)。
作品内ではこの後「存在論的懐疑」という言葉で〝あれっ!?〟感が分析され、さらにそれは「幼児期〜思春期特有の不安定さの発露」ではなかったかと方向付けられるのですが、やばいなオレ、と拝読して曲解したのでした。自分、なんだか最近、過去(=人生とも言ってみようw)を思い返すにつけ「オレなんて20世紀後半〜21世紀前半のどこかを旅したことあるだけ」みたいな...これは老いか、中二病後遺症か?
ドラマーでもある木村さんが今後、スティックをジーンズの尻ポッケに差してふらっと旅に出る、なんてことがあるのでしょうか? あれは現実だったのだろうか、という思いとともに、でもこの先なにが起こるかもまだわからない...人生(!!)の醍醐味かもしれませんね。個人的には、今後も木村さんの自分語りをもっともっと聞きたいです!
自分の話に戻ると、齢50を過ぎた頃合で、残りの人生における優先順位に気をとめるようになった。「それまで行ったことのない場所に行ってみたい」けれど、全部行っている時間も資金も意欲もなかったとしたら、そこでどう折り合いをつけるか? 自分の場合、それは「(外国映画やテレビの海外取材番組のような)映像越しに体験する」という妥協案に落ちついた。こと優れた外国映画の場合……もちろん撮影セットやCGのような〝架空の光景〟が描かれるケースは巧妙に間引くとして……その土地の風土や民族性やエッセンスが、スクリーンから滲み出てくる。肝心のストーリーに多少の不備や瑕疵があったとしても、珍しい景色が見られ、周囲にはあまりいなさそうな人間たちのドラマが展開すれば、鑑賞代の元は十分に取れるのだ。
ウィッチンケア第7号「映画の中の〝ここではないどこか〟[悪場所篇]」(P074〜P077)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/143628554368/witchenkare-vol7
木村重樹さん小誌バックナンバー掲載作
「私が通り過ぎていった〝お店〟たち」(第2号)/「更新期の〝オルタナ〟」(第3号)/『マジカル・プリンテッド・マター 、あるいは、70年代から覗く 「未来のミュージアム」』(第4号)/『ピーター・ガブリエルの「雑誌みたいなアルバム」4枚:雑感』(第5号)/「40年後の〝家出娘たち〟」(第6号)
http://amzn.to/1BeVT7Y
Vol.14 Coming! 20240401
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