寄稿作のタイトル(「寄る辺なさ」の確認)は、武田さんが松本隆の詞からはっぴいえんどの音楽を“逆照射”してみた過程で使われた言葉。バンド最終作『Happy End』収録の「さよならアメリカ さよならニッポン」の詞に込められた意味とは? 文化的背景や「日本語ロック論争」(Wikiの要約ではわからない当時の原典にあたった)を踏まえた武田さんの「読み直し」「聞き直し」作業により浮かび上がる松本隆像...ぜひ本編でお確かめください! 人気作詞家(&若い世代によるはっぴいえんど再評価)になる少し前の時代、松本隆という才人が見ていた日本(人)のかたちが検証されています。
...じつは私も松本隆さんを週刊誌で取材したこと、一度あり(学生時代の思い出を聞き書きするページでした)。言葉少なでしたが、なんでもざっくばらんに答えてくださり、なによりしぐさの端々までかっこいい。余談に近いところで「ひじきが嫌いだった」と聞き出すことができ、密かに「たしかにひじきの嫌いな人がつくりそうな作品が...」と納得したこと、いまでもなぜか頭の片隅に残っています。
もうひとつ、渡辺武信について武田さんから佐野史郎のホームページを教えていただき読んでみると、興味深い逸話が満載でした(佐野氏が渡辺武信と松本隆が対談したラジオ番組のテープを持っているらしい...etc.)。ぜひ寄稿作と併せて、ご一読ください!
しかし熱中は長続きしなかった。理由は単純ではっぴいえんどがその時、既に解散していた過去のバンドだったからだ。松本は歌謡曲の作詞家になっていたので、「理想の歌詞」は他のロックバンドに求めるしかなかった。
だが、〝45周年リサイタル〟を観ていて化学反応がひとつ起きた。最近、筆者はジャーナリズムにおける日本語の問題を考える作業を続けている。日本語を使うことでジャーナリズムはどのような制約を受け、またどのような可能性に開かれたのか。そんな問題意識を持っていたがゆえに過去にひとつの論争があったことを思い出した。
はっぴいえんどは日本語で歌った日本初のロックバンドだと位置づけられ(実際にはグループサウンズがいち早く日本語で歌っていたわけだが無視された)、ロックを日本語で歌うなんて邪道と考える勢力からコンサート中に石を投げられるなどの嫌がらせを受けていたという。こうした状勢を受けて『ミュージック・マガジン』誌を中心にいわゆる「日本語ロック論争」と呼ばれる議論が繰り広げられた。と、いうことは聞きかじっていたのだが、はっぴいえんど45周年目に改めてその論争を追ってみようと思ったのだ。
ウィッチンケア第7号<「寄る辺なさ」の確認>(P004〜P009)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/143628554368/witchenkare-vol7
武田徹さん小誌バックナンバー掲載作
「終わりから始まりまで。」(第2号)/「お茶ノ水と前衛」(第3号)/「木蓮の花」(第4号)/「カメラ人類の誕生」(第5号)/「『末期の眼』から生まれる言葉」(第6号)
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