今年3月に<「ぼっち」の歩き方>を上梓した朝井麻由美さん。この本のベースになったウェブ連載を、私は以前から読んでいました。それで、朝井さんのコラムは「哲学者みたいだ」と感じていました。「ひとり○○」を実体験することで、いつも「なぜ?」を考え、真理を解き明かそうとしている、と。たんに「ぼっち」志向で生活することと朝井さんの活動とは、似て非なるもののようにも思えていたのです。
<「ぼっち」の歩き方>の中に、とても感動的な一節がありました。ひとり潮干狩りの章の「貝を掘るという同じ目標に向かうことでの、薄っすら感じる連帯感」...この「繋がり」が体感できれば、「ぼっち」は決して孤独ではないのかな。思い浮かんだのは野茂英雄、イチローという野球選手です。2人とも「ぼっち」を貫くことで、却って野球の真髄や歴史と繋がることができた人かな、と。そしてひとりボウリングの章に出てくる「ストライクを分かち合うハイタッチをしたい」というのは、この「繋がり」を、成し遂げた者同士でつかの間でも確認したい...みたいな心情なのかな、とも。
小誌にご寄稿くださるのなら、ぜひ普段は書かないようなものをとお願いして、ショートショート形式の書き下ろし作品を掲載させていただきました。タイトル、そしてテーマである「無駄」...これは「ぼっち」として歩くことに密接な関係があるようにも思えますが、しかし、本作の主人公の男が人生から無駄を削ぎ落としていった結果どうなったのか? ぜひ多くの方に読んでもらいたいと思います!
また作品の最後には「これを書いている」という設定の人物が顔を出すのですが、そこで列記されている「無駄」も、かなりハードボイルド風味...だけど、全編を通して読むと「俺にもひとこと言わせて!」と感じつつ、妙なおかしみが込み上げてくるのは、やっぱり作者の術中に、私がみごとに陥っている証だと思いました。
男は洗面所の前に立っていた。今まで毎日髭を剃ることに疑問を持たなかったが、よくよく考えてみたら、なぜ剃っているのだろう。髭が伸びていて困ることは特にない。幸い、男の仕事は〝清潔感〟とやらが求められるものではなかった。男は、髭を剃るのをやめた。
男は、生きる上で無駄なものがないか、今日も探していた。本を読まなくなった。読まなくても生きていけるからである。携帯電話はとっくに解約した。電話がなくても、メールだけで一通りの連絡は取れる。だが、徐々にメールもしなくなっていった。メールを打っている時間、メールを読んでいる時間は無駄だ、と。
ウィッチンケア第7号「無駄。」(P048〜P051)より引用
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Vol.14 Coming! 20240401
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