2018/05/23

vol.9寄稿者&作品紹介25 須川善行さん

小誌第6号に<死者と語らう悪徳について 間章『時代の未明から来たるべきものへ』「編集ノート」へのあとがき>という長〜いタイトルの一篇をご寄稿くださった須川善行さん。前号はご自身のCDデビューにまつわるものでしたが、今号では再び即興音楽についての持論を展開しています。<この分野での古典的な著作、デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション』(工作舎)は、一般にフリー・インプロヴィゼーション、ないし非イディオマティック・インプロヴィゼーションの自立宣言だと考えられている>...ええと、私はまず、デレク・ベイリーを、少し視野を広げて紹介してみましょうか。

『インプロヴィゼーション』(工作舎)については、ネット上だと「松岡正剛の千屋千冊」での紹介が網羅的でわかりやすいかも。そしてデレク・ベイリーの音楽...私の守備範囲で一番接近したのは、デヴィッド・シルヴィアンの「Blemish」での3曲とか、あとジャマラディーン・ タクマの名前に引っ張られて入手した「Mirakle」では、ファンキーな変則フュージョン(←イディオマティック...)みたいな感じで聞いたり...。YouTubeには田中泯とコラボした動画もいくつかあるので、ぜひチェックしてみてください!

話は戻りまして、<フリー・インプロヴィゼーション、ないし非イディオマティック・インプロヴィゼーションの自立宣言>...須川さんは<音楽の「イディオム」とは、いったいどんなものだろう。今回は、そこから始めてあれこれ考えてみよう>、と論考のスタートラインを設定します。そしてイディオムではないと思われる要素を丁寧に消去していくことで、結果として<ある時間内における音の持続と変化に関する要素で、人が聴いてそのジャンルを判別できるようなもの>...それは<西洋音楽が考えるところの音楽の三要素にほぼ相当する>ものであると定義を導き出し、そのイディオムから“自由”な音楽を<フリー・インプロヴィゼーション、ないし非イディオマティック・インプロヴィゼーション>と捉えてみますが、しかし! ...で合ってるのかな? ぜひ小誌を手にとってご確認のほどお願い申し上げます。

手前味噌で恐縮ですが、西牟田靖さんと谷亜ヒロコさんの小説〜久山めぐみさんと須川善行さんの評論〜そして、次回紹介予定であります「渋谷系」等の著者・若杉実さんの小説へ...という、このへんの振り幅の大きな流れが、小誌の小誌らしさなのかな、なんて紹介文を書き続けながら思っています。みなさま、もちろんランダムに作品をチョイスして読んでいただいてモーマンタイですが、ぜひ「ページ順に読んでく」楽しさにも、トライしてみてくださいね!



 ベン・ワトソン『デレク・ベイリー──インプロヴィゼーションの物語』(工作舎)は、ベイリーからこんなコメントを引き出している。「ギャヴィンがときど
き演奏中にレコードをかける。これが僕には耐えられなかった。そのレコードに合わせるならどう演奏すべきか、分かってしまうからなんだ」。それまでさまざまなジャンルの音楽を演奏してきたベイリーが、既成の音楽から離れて自由な演奏をしようとすると、既存の音楽語法をことごとく拒絶する必要があったとも読め、興味深い。
 フリー・インプロヴィゼーションは、イディオムを廃することで、ジャンルを超えたミュージシャンどうしの合奏を可能にした。これは革命的なことだった。その一方で(あるいはその代償として)、イディオムを拒絶することは非常に抑圧的にも働く。歴史的文脈をもたない楽器は存在しないし、あらゆる楽器はその文脈の中で自らを育ててきたからだ。イディオムもまた、音楽そのものと同様に、歴史的文脈と切り離すことはできない。
 したがって、イディオムを取り払うことは音楽の歴史的文脈を無視することに接近する。80 年代以降フリー・インプロヴィゼーションが世界に広がったことは、
グローバリゼーションの発展とうらはらの関係にある。フリー・インプロヴィゼーションは、奇しくもジョン・ゾーン以前からポストモダニズムとよく似た機能を果たしていたのだ。

ウィッチンケア第9号「自由研究家の日常──即興からノイズへ」(P162〜P166)より引用
goo.gl/QfxPxf

須川善行さん小誌バックナンバー掲載作品
死者と語らう悪徳について 間章『時代の未明から来たるべきものへ』「編集ノート」へのあとがき>(第6号)/<『ことの次第』の次第>(第8号)

http://amzn.to/1BeVT7Y

Vol.14 Coming! 20240401

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