2018/05/20

vol.9寄稿者&作品紹介20 大西寿男さん

先日ツイッターを見ていたら、校正者の牟田都子さん大西寿男さんの小誌今号寄稿作について<知る限りこれは「現役校正者による校正者が主人公の校正小説」として非常に貴重な作品だと思われます(本屋Titleで見かけたけれどまだあるかな)>とつぶやいていまして、なるほど、自分はその視点で大西さんの作品に接してはなかった、と目から鱗でした(でっ、なぜ鱗? と私にも校正者的疑問が生じてググったら、聖書由来→ Immediately, something like scales fell from Saul’s eyes, and he could see again. なのですと)。あっ、Titleさんはきっと在庫してくださってることと!

さて、そんな大西さんの一篇は、全体が主人公である<校閲先生>の御三どん(←私は台所仕事=1日3回の台所作業、の意で認識してた/最近使われなくなったのは語源のせいか?)を軸に構成されています。この日は終日、自宅での仕事。食事タイムは気分転換の生活アクセントにもなっているようで...教養人の豊かな暮らしぶりだな、と感じました。私なんか一人で忙しいと《お櫃ご飯》(←炊飯器の内釜に残ってるごはんにふりかけや冷蔵庫の佃煮や瓶詰めのなにかを載せて流しの前に立ったままかきこんで空になった内釜に箸を入れて水道の蛇口を捻って水を満たして終了、約1分)で済ませちゃいますので。

おもしろかったのは、校閲先生の行動が逐一「なにか(理屈、とか)に裏打ちされている」感じに描かれていて、これはもう、職業と切っても切り離せない業なのでしょうか。たとえば朝起きて水を飲むことも、ただ「喉が渇いた」ではなくて<起きぬけのこの一杯の水が血液をさらさらにする>と信じているから? 続いての、ゴミ出し。不意に出たくしゃみも「...寒いな」では済まされません。ついつい<「くさめくさめと言ひもて行きければ〜」と『徒然草』の一節を詠うように唱えて>しまうのです。作者である大西さんが「校正者の無意識」を意識的に描写して楽しんでいるようで、文体も弾んでるなぁ。

個人的に一番じーんとしたのは、夜ごはんのパートにある<だけど、もしかしたらその提案は、「初めて」の繰り返し(ルフラン/原文ではルビ)にこめられた驚きと発見を薄め、小ぎれいに言葉を飾ることになってしまったのではなかったか──。>という文章。プロである校閲先生の意識のなかに、このような思いがあること、とても嬉しかったです。どんな状況での一節なのかは、ぜひ小誌を手にとってお確かめください!



 二合炊きの土鍋にご飯がお茶碗半分くらい残っている。ご飯の上から水をたっぷり注ぎ、中華スープの素を控えめに加え、火にかける。わかった、お粥だ。先生お得意のありもの料理。トッピングには、玉子を一個溶いて炒り卵。あとは冷蔵庫に作り置きしていた大根葉のごま炒めとキムチだ。キムチは刻んでごま油と醬油を垂らすとマイルドな辛みになって、先生の口に合う。
 居間の食卓兼座卓のこたつに土鍋と食器を並べる。土鍋から湯気を立てる白いお粥と小皿に盛り付けられた黄・緑・赤の三色のとりあわせが美しい。iPhone で写真を撮り、インスタに上げ、いただきますと手を合わせて茶碗と木杓子を取る。先生は正座が好きである。
 泥のように眠ったけれど、芯がまだぼんやり重い体に、あったかいお粥がしみる。昨日は雑誌の出張校正の最終日だった。新人のころお世話になった文芸誌で、ここ数年、レギュラーメンバーにカムバックした。いつのまにか先生もベテランと呼ばれるお年頃になり、多忙で以前のようにがっつり関われないことを申し訳なく思っている。

ウィッチンケア第9号「校閲先生はメシの校正はしない。」(P128〜P133)より引用
goo.gl/QfxPxf

大西寿男さん小誌バックナンバー掲載作品
「冬の兵士」の肉声を読む>(第2号)/「棟梁のこころ──日本で木造住宅を建てる、ということ」(第3号&《note版ウィッチンケア文庫》)/「わたしの考古学 season 1:イノセント・サークル」(第4号)/「before ──冷麺屋の夜」(第6号)/「長柄橋の奇跡」(第7号)/「朝(あした)には紅顔ありて──太一のマダン」(第8号)

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Vol.14 Coming! 20240401

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