「聞いたところによると、商店街の空き店舗にもんじゃ屋を出すことは、宝くじに当たったように成功が約束されるんだそうだ。」
〝暮らしのリズム〟主宰者の友田聡さんは大学時代の音楽仲間で、実家も私鉄で一駅の距離。むかし...渋谷にタワーレコード第1号店がオープンした頃...は、輸入盤のクレジットを見て「おっ、ロベン・フォード! マイク・マイニエリ!! エイブラハム・ラボリエル!!!」なんていう楽しい時代を過ごしたのですが、人間、月日とともに趣味趣向も少しずつ変わったり変わらなかったりでして、私はほとんど変わらぬまま老け込んだりがたがきたりでいまに至っておりますが、友田さんはすっかり風流になったというか(まっ、お人柄は同じなんですが...)、当時の「スタジャン着てバーボン&ビーフジャーキーでファンキーな16ビート」な青年とは異なったライフスタイルを愛でるようになりまして、それは第2、3号への寄稿作「ときどき旧暦な暮らし」「手前味噌にてございます」を読むと、よくわかります。
今回掲載した「東京リトルマンハッタン」は、そんな友田さんが月島に住むことにしたきっかけや、日々の暮らしぶりについて語ったもの。私は去年のいまごろ、通常業務で中央区の都市計画に携わる方々の取材をしていたこともあり、本作で詳しく綴られている月島という町の特性を、感慨深く読みました。町歩き(観光)で訪れて感じることと、住人としての実感は、やはり微妙にずれているんだなぁ、とも。私も月島にいくとなったら、必ず「もんじゃ食べたい!」(ベビースターラーメンはmust、笑)ってなりますわい。...そして個人的な思い出としての月島といえば、私にとってはそのもう少し先、当時の通称「晴海」こと東京国際見本市会場なのでありました。学生時代、とびきりきついアルバイトで連日イベントの立ち会い...かちどき橋を渡ったら私語を慎み、身を粉にして肉体労働に耐えていたものでした。おいしいものなんてちっとも食べず、配られた弁当を15分で胃に納めていたっけ...。
佃・月島とその先の勝どきは、隅田川対岸にある聖路加病院のおかげで、空襲に見舞われなかった。そのため、今なお細い路地が残り、関東大震災の復興で昭和初期に建てられた木造長屋や家屋をそこここに見ることができる。最初の住処もそんな路地の長屋だった。もちろん内装は今風に施されているが、実に質素でコンパクトである。幅はなんと一間半、二階には畳敷きの四畳半と三畳間、その奥に三畳ほどの板の間の納戸がある。一階はその広さのまま、トイレと風呂場、キッチンとダイニングスペースがあり、まあ夫婦二人で暮らすのにはギリギリの広さだった。路地には長屋と、比較的新しい住宅が混在しており、お節介焼きでなんとなく煙ったがられているけど、どこか頼られてもいる主のような〝姐さん〟(推定七十代半ば)が居る。会えば挨拶はもちろん、時間があれば世間話に耳を貸し、つかず離れずいろいろと面倒をみてもらったものだ。主宰する〝暮らしのリズム〟の落語会『居酒屋寄席』がNHKニュースで取材された際、〝姐さん〟にもカメラとマイクを向けてもらった。照れて部屋に引っ込んでしまっていたが、懇願しやっと出て来てくれた時にはしっかり化粧が整っていたのには笑ったものだ。
ウィッチンケア第4号「東京リトルマンハッタン」(P116〜P121)より引用
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Vol.14 Coming! 20240401
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