2014/05/16

vol.5寄稿者&作品紹介16 仲俣暁生さん

緩やかなつながりを持ちつつ「もうひとつのテーマ」も掘り下げられていく...仲俣暁生さんから寄稿作を受け取るたびに私は漠然とそう感じています。なんというか、顕微鏡でプレパラートを覗き(メインテーマを考察し)ながら、対物レンズそのものの特性もチェックしているのではないかな、と。

父という謎」では父親(そして吉本隆明)、「国破れて」では小島烏水と山岳書、第5号掲載作「ダイアリーとライブラリーのあいだに」ではアンネ・フランクと日記。異なる観察対象を論じた、それぞれ独立/完結した作品なのですが、しかし3作を串刺すように視線は一貫していて、おそらく仲俣さんは「記録すること/記録されたもの」によって浮かび上がる公私の関係性をチューニング(書いてみることで焦点調整、みたいな)しているのでは、とも。もしそうであれば、今作のタイトルは、とても暗示的ですし、無事調律の暁には、ぜひステージ(書籍)に、と願います!

作品内では「親愛なるキティーたちへ」(小林エリカ著)についても、「アンネの日記」との関連で語られています。<親の日記をもっと有用に役立てた例>として、ご自身の家族のエピソードとの対比で...「家族を語ること=時代を語ること/私の記録=時代の記録」ということについて、小誌寄稿作での仲俣さんはかなり意識的なのだと思います。ある種の「ポップな作品」は不特定者が代入可能な「私」の創出だとすれば、その反対の方向性を検証〜試行している!?

そして日記という表現について。私はたぶんこども時代の宿題を除き、一生日記を付けずに生涯を終えるでしょう。自分にとってはテキストのデジ化以降、SNSやHDが充分すぎるほど日記的だし(「沖で待つ」を思い出した)。ネットで公開されている日記は、かなりシニカルに読むことが多くて、たとえば一昨日と今日に「○○に会って●●を食べた」と書いてあったら、では空白の昨日は? みたいに「なにを書くに値すると思っているのか」や「なにを書けなかったのか」が気になったりするのです〜、失礼!

『アンネの日記』という本を私たちがいま読めることは、本をめぐる奇跡の一つである。アンネ・フランクは13歳のプレゼントに父からもらった可愛らしいノートに、自分のための「日記」としてこの記録をつけはじめた。1942年6月12日である。まもなくフランク一家は、「後ろの家」に隠遁を決意。1944年8月4日に、密告がもとでこの隠れ家を出なければならなくまで、2年2ヶ月弱をこの「家」で過ごす。アンネは1944年の春、ロンドンから流れてくるラジオ・オーラニェで、オランダ亡命政権の文部大臣による放送を聞き、解放が間近いと知る。同年5月11日の日記に、彼女はこう書いている。
「あなたもとうからご存じのとおり、わたしの最大の望みは、将来ジャーナリストになり、やがては著名な作家になることです。はたしてこの壮大な野心(狂気?)が、いつか実現するかどうか、それはまだわかりませんけど、いろんなテーマがわたしの頭の中にひしめいていることは事実です」(深町眞理子訳、『アンネの日記』増補新訂版、文春文庫)
 アンネ・フランクはこの夢を結果的にかなえることができたが、彼女自身がそのことを知ることはなかった。
 同年6月6日にノルマンディーに上陸した連合軍がアムステルダムを解放してくれる日を、彼女は指折り数える。解放後、アンネ・フランクはみずからの日記を資料として、本格的な著作を書くつもりだった。そのために『アンネの日記』には複数バージョンの草稿があることが知られている。つまり『アンネの日記』は、途中からはたんなる「日記」ではなく、ジャーナリストを志す少女の、戦時下の観察記録でもあったのだ。だが、D – デイから約2ヶ月後、アンネ・フランクの人生は暗転する。ジャーナリストとしての優れた才能をもちながら、彼女はその後の日々については、何も書き記すことができなかった。
 日記という私的な記録は、時をこえることで、個人の記録を超えた歴史の記録になりうる。だがそのためには、多くの偶然や奇跡、あるいは間に立つ人たちの努力と忍耐が必要なのは言うまでもない。そのようにしていま、私たちの目の前には、『アンネの日記』という偉大な本がある。


ウィッチンケア第5号「ダイアリーとライブラリーのあいだに」(P0118〜P123)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

Vol.14 Coming! 20240401

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