小誌第3号ではパンダ愛、前号では引っ越しに揺れる人間の気持ちを寄稿してくれた木村カナさん。今号の寄稿作を受け取ったとき、編集者である私はサッカーで言えば「ものすごいシュートを蹴り込まれた」、野球で言えば「直球ど真ん中に投げ込んできた」と感じました。たしか、直後のメールに「魂、入ってますね」って返信したのではなかったっけ。
かつてある作家がどこかで「僕のガールフレンドはいくつになってもみんな女の子だ」みたいなことを書いていたのを読んで「参りました」と思いましたが、木村さんの作品内に引用されているキム・ゴードンの「段々と受け身になることを身につけてしまう。見られてる、って意識のせいでね」という部分には、自分には生物的に計り知れない深さを感じました。そして「女子」という言葉については、私は中学2年ぐらいまでなかなか身長が伸びなかったので、女子と聞くと、いまだに自分より身体が大きくてすぐに怒ったり先生に言いつけたり(どういうトラウマ...)、失礼しました。
「文科系女子カタログ」への木村さんの寄稿作を再読しました。「色」と「恋愛」のブレ、についての考察などもあり、あらためてドキドキしましたが、それこそ、ブレてないですねという印象。...そして私も変化球で逃げてばかりではなく、最近の体たらくをひとつ晒しておきます、小保方晴子さんの件。最初、記者会見は意識的にスルーして見ませんでした。数日後、「サンデー・ジャポン」で編集されたものを見て、そのときの素朴な印象は「女子が泣かされてる!」だったのですが、しかしいまはSNSという「空気を読む」ためのよいツールがあるのであちこち見てまわり、ひそかに「これは沈黙は金」と思い至ったのでありました。
「本を食べて人のいのちをつなぐ方法」では、本を読んだりなにかを書くことについての印象的な描写もたくさんあります。<キラキラしたきれいな何かが、本として、紙の上に、活字の向こう側にあるんだ>という一節、短くもなく売文業で生計をまかなってきた私には、果たしてそれを信じる気持ちが(この商いを始めた頃から)あるのだろうか、とか自問自答。そしてここ何年かの自分は「読むこと」と「書くこと」をいかに分離させるかについて考えていたなぁ、なんてことも思いました。少なくとも「読んだことについてすぐ書くと、書いてるつもりでも書かされている」のでそれは避けよう、みたいな。
あれからもう8年も経ったのか……ああもう、なんだかクラクラしてくる。
何かをしていたと言えばもちろん何かはしていたのだ、いろんなことがあったのだ、たしかに何かをやっていたし、いろいろあったはずなのだが、何もしていないと言えば、何もしてない、のであった。
そして、本を読むのが好きじゃなくなったようなことを抜かしていたはずなのに、ここ数年はライター事務所と古本屋のアルバイトをしつつ、たまに文章を書いて、どうにかこうにか生きている。
00年代から10年代へ、女の三十代、とはいえ、結婚もせず(ということは離婚も再婚もしていない)、出産も育児も介護もせず、就職もせず(だから退職も転職もない、出世どころかボーナスをもらったことだってない)、起業も開業もせず、物書きを名乗ってはみたものの、受賞はおろか、単著もなく、それ以前に企画はさっぱり通らず原稿は書けず。フリーランスというか、要するに中高年フリーターだよ! 職業についての質問をされると、いつもぐっと詰まっては言いよどむよ! !
不幸でも不運でもなく、のんべんだらりと暮らしてきて、今年、四十になろうとしている。不惑を迎える、しかし、いかんともしがたいぐらいにあいかわらず惑いっぱなしで、近頃はテレビで生命保険のCMを見るたびにイヤな気持ちになる。年下のライフプランナーに懇々と説教をされるという被害妄想に駆られて、ギャッと変な声が出そうになるのである。
ウィッチンケア第5号「本を食べて人のいのちをつなぐ方法」(P014〜P019)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1
Vol.14 Coming! 20240401
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