2022/05/14

VOL.12寄稿者&作品紹介33 かとうちあきさん

かとうちあきさんの今号への寄稿作を、私(←発行人)は「苦い恋愛小説だなぁ」と思いながら読みました。天性のストーリー・テラーであるかとうさんの描く物語は、これまでつねに主人公の「わたし」が引っ張っていく感じだった記憶が。いろいろ問題を抱えている「わたし」なんですが、でも結局は「わたし」が主役として強くて他の登場人物は翻弄される、みたいな。ところが今回の「鼻セレブ」では主人公のアッコさん、非常に不安定な立場に置かれていて、それが苦みを醸し出していると感じました。好意を持って接しているユリカさんが「自分にはわからないもの」を抱えていて、その「わからないもの」を問うてみることもできないまま受け止めることで関係が成り立ってきたから、ユリカさんが自分抜きである決断をしたとしても、その決断をそのまま受け止めることしかできない。読み手としても、作者の提示したその状況設定をそのまま受け止めることしかできず、さらにこの作品には「LGBTQ」「ポリアモリー」という要素も明確に含まれていまして、さらにさらにもうひとつ言えば、いわゆる「アベノマスク」絡みの一連の政治に対する強いNOも示されていて、語り口はマイルドですが、かなり「辛い」に近い苦さ。


 というわけで、なかなか一筋縄ではいかない2人の交際模様が描かれているのですが、印象的なシーン、数多し。2人とも酒が好きで、酔っ払うと楽しそうに世の中に毒づく感じとか、恋愛と友情と同志感がごちゃ混ぜになっているようでおもしろいのです。“「そもそも『ファミリーマート』って名前からして家族主義が過ぎるから、滅びるべき」”と言ったユリカさんに同意して、その後ファミマ滅亡計画を話していたら酒が足りなくなって、買いにいった先はファミマ。...おいおい、って感じですが、それはそれでリアルっぽい情景。

終盤近くに書かれた“「もっと」への飛躍は、どの時点でもたらされたのだろう”という一文が重いです。このお話、たとえばユリカさん目線で書かれていたら、かとうさんのこれまでの作品テイストに、もしかしたらすごく近かったりして。...とすると、かとうさんはなぜに今回、こんなにもやもやの残る一篇を書こうとしたのか気になるわけですけれども、まあそれを問うてもかとうさん、「あはは」という感じで教えてはくれないと思いま〜す。それでも、今作はちょっと「かとうさんの中のどこかが着火してる」感が漂ってきて刺激的でした。




 デルカップの空き瓶に注いだビールをちびちび呑みながら、ユリカさんは熱心に色んな話をする。わたしは常になにかしら試みているユリカさんの話を聞くのがおおむね好きだったし、生きやすくなるための試行錯誤や、取り組みへの真面目さを、自分にないものとして眩しく思っていた。ユリカさんは酔っぱらうとどんどん陽気になって、毎回わたしのほうが先に潰れてしまう。だいたい一緒のベッドに眠って、何度かキスをしたりした。

 年末、「やっぱり一度、話しましょう」と連絡があって久しぶりに会ったユリカさんは、わたしの派手な色のコートを見て、
「真面目に話をする格好とは思えない」って怒った。
 公園のベンチに座ると、
「傷ついた」と言う。

〜ウィッチンケア第12号〈鼻セレブ〉(P186〜P191)より引用〜

かとうちあきさん小誌バックナンバー掲載作品:〈台所まわりのこと〉(第3号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈コンロ〉(第4号)/〈カエル爆弾〉(第5号)/〈のようなものの実践所「お店のようなもの」〉(第6号)/〈似合うとか似合わないとかじゃないんです、わたしが帽子をかぶるのは〉(第7号)/〈間男ですから〉(第8号)/〈ばかなんじゃないか〉(第9号)/〈わたしのほうが好きだった〉(第10号)/チキンレース問題〉((第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介32 中野純さん

先月末に新刊『闇で味わう日本文学 失われた闇と月を求めて』を上梓したばかりの中野純さん。おそらく同書の最終校正と小誌の〆切が重なってたいへんなことだったでしょうが、きっちりと書き下ろしの一篇を届けてくれまして大感謝です。中野さん、今月は出版記念イベントがいくつもあり、そのなかのひとつ《Twitterスペース「南陀楼綾繁の今週の新着本」》でのトークでは、自著の紹介だけでなく、なんとウィッチンケア第12号についても言及してくださったらしく──らしくというのは私その日は先約があり外出していて前週分もアーカイヴがネット上にあったので戻って落ち着いて聞こうと思ってたらなんと録音しなかった回だと! ──伝聞では死ぬほど褒めてくれたみたいで、聞きたかったなぁ。でもほとんど褒められたことのない人生なので、聞いてたらたぶん死んだ。さて、そんな中野さんの今号への寄稿作は「完全に事切れる前にアリに群がられるのはイヤ」。寄稿者の皆様におかれましては長いタイトルを好むかたと短いタイトルを好むかたに別れる傾向がありますが、今号での中野さん、長いほうの第4位。そして内容はというと、まず冒頭13行の疾走感が尋常ではなく、もし同作を先日亡くなったあのかたに読ませたら間違いなく「つかみはOK!」と言いそう。要は「私はセミが好きです」ということなのですが、どのくらい好きかを伝えるためにあんな「セミ」こんな「セミ」まで引き合いに出して...ネタバレは惜しいので、ぜひ小誌にてご確認ください!


 前半のセミ狩りの話。とても納得しました。確かにカブトムシやクワガタは捕まえると誇らしいんですが、彼奴等はこちらが見つけたらほぼ勝ち、ですもんね。遊びとしては「かくれんぼ」で、音無しの構えでじっとしているのを「見ーつけた」で、ジ・エンド。しかしセミは見つけてからが戦い。空中戦ありの「鬼ごっこ」...捕まえ損ねてオシッコかけられたときの悔しさは「缶蹴り」で缶蹴られたとき級の「バーカバカ!」屈辱感。あっ、私、超高難易度のセミ狩りに挑戦したことありましたよ。虫取り網の、攩のところがないのを用意して、まず蜘蛛の巣を探す。でっ、蜘蛛の巣をうまく攩のところに貼り付ける。これをいくつか重ねて、見つけたセミに被せると...たいがい巣が破れて逃げられるんですが、何匹かは捕れた。しかし、そんなことに夢中になってられたころが懐かしい。

博学な中野さんらしく、セミ話は多方面へと広がっていきます。食べる話は、オレは無理。もしセミが海のなかを泳いでいたら、食べられるかも(以前どこかでエビやカニが森にいたら食べるか? みたいな話を聞いて、たしかに海にいるから食べるんだなと思った)。そして、蝉の鳴き声を五月蠅いと感じるかどうかの話は、とても興味深かったです。先日北関東をクルマで夜に走っていて、田んぼ沿いで降りたら蛙の五月蠅いこと! 日本の田舎は閑静ではなく、私たちはいろんな音を風流に聞き取っているんだと思いました。


 かつて日本を訪れた欧米人は、日本人が雨戸をガタガタ閉てる音や、干した布団をパンパン叩く音に驚いた。大森貝塚の発見で知られるモースは、美しい所作で静かに襖を開け閉めする日本人が、朝、雨戸をガタガタと大騒音を立てながら戸袋にしまうそのギャップに驚愕した。繊細な感性を持つ日本人が、音に対して突然とんでもなく無頓着になる。せんべいをバリバリ食べる音やそばをズルズル啜る音もそうで、いったん頓着なくなると、まったく気にしない。
 そばをズルズル啜る音に関しては、頓着ないどころか逆に「大きな音を出して食べてこそ美味い」と積極的に肯定する(最近はそうでもなくなってきたが)。せんべいをバリバリ食べる音もそんな感じだし、雨戸の音も布団を叩く音も、風趣があると肯定してもあまり違和感がない。それどころか、候補者の名を連呼しまくる選挙カーに対しても、うるさいと感じる人は少なくないものの、かなり寛容だと思う。
 こんなふうに日本人が騒音に無頓着なのは、結構、蝉時雨や秋の虫の大合唱を愛でる感性によるのではないかと思う。日本人の耳はセミに鍛えられている。それは日本の自然が豊かな証拠だ。

〜ウィッチンケア第12号〈完全に事切れる前にアリに群がられるのはイヤ〉(P180〜P184)より引用〜

中野純さん小誌バックナンバー掲載作品:〈十五年前のつぶやき〉(第2号)/〈美しく暗い未来のために〉(第3号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈天の蛇腹(部分)〉(第4号)/〈自宅ミュージアムのすゝめ〉(第5号)/〈つぶやかなかったこと〉(第6号)/〈金の骨とナイトスキップ〉(第7号)/〈すぐそこにある遠い世界、ハテ句入門〉(第8号)/〈全力闇─闇スポーツの世界〉(第9号)/〈夢で落ちましょう〉(第10号)東男は斜めに生きる〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介31 藤森陽子さん

藤森陽子さんの今号寄稿作に登場するふたつの甘味屋さん。巣鴨のお店はご縁がなかったのですが、最初に登場する銀座の「おかめ」。こちらはご縁ありまくりでした。私(←発行人)は社会人人生の最初の3年だけは勤め人でして、そのうちの2年強が銀座1丁目のオフィス。「おかめ」は、自分ひとりで入ったことはなかったですが、女性との打ち合わせではよくいきました。もちろん平日の日中なんで仕事の打ち合わせ(あるいは打ち合わせ後のちょいサボり)で。...なんというか、仕事相手ではあるのだが「ちょっと、一緒にいると楽しいな」くらいには思ってて、でもいずれ仕事抜きで会ったりもするのかというとそれはないだろー、くらいの距離の人と、あけすけに言いますと「仕事にかこつけて経費で落とす」みたいな(おもに20世紀末)。でっ、藤森さんとも長いお付き合いなので、もしかすると1回ぐらいはご一緒してませんかね(多人数でとかも含めて)? それはともかく、藤森さんは映画関係の仕事を多くこなしていた時代、試写会の後に遅いお昼を食べる場所がなくて、よく「おかめ」のおはぎを2個食べていたと。スタバ上陸以前の銀座の話、とあるので「〜1996年」か。たしかに、華原の朋ちゃんが「つゆだく」を流行らせた(というか、「えっ、若い女が吉野家食うのか」という驚きがあった)のが1990年代終わりあたりで(皮肉なことについ最近も「生娘を」...以下略)、あのころのそんな時間帯、男なら立ち食い蕎麦とかいけそうだったけれど、女性はたいへんだったかも。


 平日午後3時ごろの、「おかめ」店内の描写が、これはなかなか男は気づかないなという感じで素敵です。“ほうじ茶を啜りながら周りを見渡すと、「三越」や「松屋銀座」「和光」の紙袋を横の席に置いたご婦人たちがあんみつや茶めしおでんを楽しんでいる。きっとデパートで用事を済ました後に、家で晩ごはんの支度をするまでのひと時を過ごしでいるのだろう。”...たしかに、そういうマダムがいましたな。1985年の男女雇用機会均等法成立以前に一流企業に就職してすぐに家庭を持ったっぽい、キラキラ系のママさんたち。紅茶やビールに「お」を付けるのが似合いそうな。お紅茶、おビール。。。

本作の終盤、藤森さんは当時の自分を振り返って“男の役割、女の役割という、今でいう〝らしさの呪縛〟に支配され、やがて共依存に陥っていく男女間の負のループを見かけるにつけ、息苦しくて仕方がなかった”と書いています。小誌前号は原稿〆切時期がちょうど森喜朗さんの例の発言と重なっちゃって誌面もエラいことでしたが、平成前期なんて、そういう〝世間〟からのプレッシャー、半端なかったよなぁ。ええと、現在の藤森さんがどんなお考えなのかは、ぜひ小誌を手にしてお確かめください!



 そうか、一人で食事がしづらい世代のお母さん方にとって、デパートの大食堂と甘味処は誰に気兼ねすることなく一人の時間を過ごせる聖域なのだ。確か向田邦子だったか、嫁と姑でデパートへお遣いに行き、帰りに遠慮がちにこっそり外食をする。そんな一篇があったなぁ……などと考えているうちにふいに泣きそうになる。
 そうして思ったのだ。自分があのお母さんたちの世代になる頃には、気兼ねなんかせず一人で飲み食いできる世の中になっていますように。そして自分も、いつかの旅で見かけた、シャンゼリゼ通りのカフェで悠然とオムレツを食べていたパリのマダムのように、カッコよく一人で食事ができる大人になれますように、と。

〜ウィッチンケア第12号〈おはぎとあんことジェンダーフリー〉(P176〜P179)より引用〜

藤森陽子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈茶道楽の日々〉(第Ⅰ号)/〈接客芸が見たいんです。〉(第2号)/〈4つあったら。〉(第3号)/〈観察者は何を思う〉(第4号)/〈欲望という名のあれやこれや〉(第5号)/〈バクが夢みた。〉(第6号)/〈小僧さんに会いに〉(第7号)/〈フランネルの滴り〉(第9号)/〈らせんの彼方へ〉(第10号)上書きセンチメンタル〉(第11号)


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2022/05/13

VOL.12寄稿者&作品紹介30 吉田亮人さん

吉田亮人さんとはこれまで、寄稿依頼の後に「今度はどんな方向性で書きましょうか」みたいな事前擦り合わせをすることが多く、そこでいくつかの案をやりとりしたりしてきたのですが、今号への寄稿作については、この方向でというのが一発で決まりました。表題からもおわかりのように、写真家としての話というより、物書き・吉田亮人さんとしての意思表明。やはり昨年2月に「しゃにむに写真家」を上梓したことが大きいのではないかと推察します。本作では同書が完成するまでの長いプロセスが率直に語られていて、物書きっていうのはときに真っ赤なウソを平然とものしたりするものですが、吉田さんに限ってはそんな方向に進む気配も感じられず、なんだかほっとしてしまいました。被写体と真摯に対峙して撮影するのと同じように、自身の心に写った思いを、文字に変換していく。“「撮りたい」という気持ちと同じく、「書きたい」という気持ちが自分の中に備わったことだ”という一文から、吉田さんの「書くこと」への決意のほどが窺えました。 


作中では亜紀書房・斉藤さんとのことが多く語られています。そして不肖私のことにも触れてくださり、恐縮です。“「始まりの旅」と題して、2014年ウィッチンケア第5号に掲載してもらった。”...この年には2020年東京オリンピックの公式エンブレムが使用中止になったり、ISによって日本人人質が殺害されたり、ずいぶん長い時間が経ったなと、あらためて振り返ると感慨深いです。あっ、同作はいまでもnote版ウィッチンケア文庫の1作としてネット上で読めますので、みなさまぜひアクセスしてみてください!

「書くこと」だけではなく、やはり「撮ること」についても、吉田さんらしいお考えが記されています。“漫然と撮るだけではそこに写るのはただの像であって、写真がそれ以上の意味を持つことはない。やはり、撮るんだという強い気持ちを内在させて被写体に向き合った時に初めて、写真は意味と言葉と時間を獲得し語り始める”...「意味」「言葉」「時間」を「像」に獲得させるためには「強い気持ち」が必要、なんて、たとえば写真の専門学校とかで教えてくれるのかな? 私にはこのような(言葉による)表現、吉田さんならではのものだと感じられました。



 しかし相変わらず僕の本を「書く」歩みはのろまで、遅々として進まず、結局書き下ろすまでに7年もの時間を要することになる。
 その間に斉藤さんは晶文社から亜紀書房に移ったため、「就職しないで生きるには21」シリーズで書く機会は失われてしまったが、僕の本の企画はそのまま亜紀書房で生き続け、同社のWEBマガジン「あき地」での連載を経てようやく刊行されることとなったのだ。
 ここまで随分長く待たせてしまった斉藤さんには申し訳なかったけれど、自分の内側から湧き起こってくる「書くんだ」という気持ちがなければ何を書いてもきっと読者に伝わらないだろうし、本の執筆という長期戦も戦い抜けない。だからその気持ちを持ち合わせるために僕にはこれだけの時間が必要だったのだ。

〜ウィッチンケア第12号〈撮ることも書くことも〉(P172〜P175)より引用〜

吉田亮人さん小誌バックナンバー掲載作品:〈始まりの旅〉(第5号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈写真で食っていくということ〉(第6号)/〈写真家の存在〉(第7号)/〈写真集を作ること〉(第8号)/〈荒木さんのこと〉(第9号)/〈カメラと眼〉(第10号)/対象〉(第11号)

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VOL.12寄稿者&作品紹介29 久山めぐみさん

久山めぐみさんの小誌今号への寄稿作「壁の傍」では、佐藤寿保監督の映画『αとβのフーガ』(公開題『変態病棟 SM診療室』、1989年)における、《壁》の意味や役割を考察。本作について、久山さんはSNSで「好きな映画のことを、楽しく、一筆書きのようにして書きました」とコメントしています。前号への寄稿作「立てた両膝のあいだに……一九八〇年代ロマンポルノの愉しみ」は、映画作品内においてのジェンダー、フェミニズム的な論考も含まれていましたが、今作は「好きな映画」に一点集中しての作品論。これは私も該当作を、とネットで調べてみるといくつかの動画サイトで正規に視聴可能でした。ただ、問題は、私(←発行人)が、「痛いの」苦手、なこと。とくに「切る」系の痛そうなのは、むかしガマの油売りの実演を縁日で見てて刀で腕を斬るところで貧血起こしたり、あと『パピヨン』という映画で死体の首が切れていたのを観てて館内の椅子席で貧血起こしたりと...それでも粘り強く各サイトをまわっていたら2分間だけお試し視聴できたところがあって、それでも充分痛そうでしたが雰囲気は伝わりました。また静止画像もアップされていて、壁も久山さんが「白いコンクリートブロックの経年劣化による黒ずみやざらついた質感」だなぁ、と。


調べていく過程でおもしろかったのは「ピンクサイドを歩け」というサイトの主宰者・hideさんのご意見。「佐藤寿保のメタリックで冷徹な映像感覚と夢野史郎の妄執的なドラマツルギーが、限界まで暴走したようなアンダーグラウンドでアヴァンギャルドなピンク映画の極北」「もはや、これをピンク映画と言ってしまっていいのかとさえ思い半ば呆れてしまった」「本作は、SM嗜好の強い人やバイオレンス映画好きの方くらいにしか性的高揚をもたらさない実に佐藤寿保した実験作」と。その後、久山さんの寄稿作をあらためて読み、本作の結論となる《壁》の意味が、おぼろげながらも理解できたのでした。

『αとβのフーガ』を離れた、ロケーション主体の低予算映画に登場する壁についての考察もおもしろかったです。「それはどこにでもあるものである。なんの変哲もないものである」「スタジオシステムの映画ではさまざまな色をし、的確な装飾を配置させつつもどこか抽象的であったそれとは正反対の空間性を伝えている」と。最近は映画を2倍速で観る人が増えているようですが、映像作品って情報量が多いんですよね。久山さんのように丁寧に鑑賞して、そこから独自の思索を組み立てるかたが小誌へご寄稿くださること、頼もしく嬉しいです。



 注目すべきは、ここでSMシーンが二つ連続している点である。女はこのとき責められながら、白昼夢をみる。その幻想のなかで、女はメスを握った手術着姿の男に責められている。しばらくこの幻想的なSMシーンが続いたのち、最初の責めの場に戻る。つまり最初の責めと、責められている最中に女がみる白昼夢としての責めが入れ子構造になっているのである。
 女性の性的妄想を扱う映画で、女性が責められるさまを白昼夢としてみる描写はみかける。しかしこのように、責めの夢から醒めて戻る場もまた責めである、というのは珍しい。最初の責めはマゾヒストの女にとって十全な欲望充足とはなりえず、責めが責めの夢を呼び込む。映画冒頭では視点人物だった男の欲望物語は、ここで女の欲望物語に呑み込まれ、ヘゲモニーの逆転が起きている。

〜ウィッチンケア第12号〈壁の傍〉(P168〜P171)より引用〜

久山めぐみさん小誌バックナンバー掲載作品:〈神代辰巳と小沼勝、日活ロマンポルノのふたつの物語形式〉(第9号)/〈川の町のポルノグラフィ〉(第10号)/〈立てた両膝のあいだに……一九八〇年代ロマンポルノの愉しみ〉(第11号)

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Vol.16 Coming! 20260401

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yoichijerryは当ブログ主宰者(個人)がなにかおもしろそうなことをやってみるときの屋号みたいなものです。 http://www.facebook.com/Witchenkare