2019/05/20

vol.10寄稿者&作品紹介18 長田果純さん

ウィッチンケア第10号のすべての写真は、長田果純さんの作品。写真家・長田さんについては当ブログの3月21日に紹介致しましたが、後日談も少々...あっ、そうだ。長田さんのInstagramにて、ご本人の小誌掲載写真についてのコメントが読めますよ! それで、本が刷り上がった後、私は都内の書店いくつかに直接納品してまわりまして、実物を手渡すと、何人かの店主さんから「おおっ! 表紙いいですね」とのお言葉をいただきました。長田さんの写真が褒められたのですから、ほんとは「ですよね。私もそう思います」と言わなきゃいけないのに、つい嬉しくなって「ありがとうございます」なんて、自分の手柄のように振る舞ってしまったこと、ここに正直に告白するとともに(スイマセン...)、あらためて長田さんに御礼申し上げます!

そして、今回は寄稿者・長田さんの作品について。〈叶わない〉と題された一篇の冒頭には、写真家としての夢が「大切な人の遺影を撮ること」と書いてあり、以下、なぜそのような夢を抱いているのかが説明されています。カメラを手にする人らしい感受性だなぁ、と思ったのは、「別れを言うために葬儀場へ行」って「目の前にいる本人」と対面する(死という事実に向き合う)と、遺影(それは「急な死への間に合わせだと簡単に想像することが出来」るもの/「卒業アルバムの写真や、旅行などの合間に撮られた記念写真の一部」など)とのギャップで感情が乱される、という部分。通夜や告別式というのは、ある意味では「儀式」としてつつがなく取り計らうしか仕方がないこと(近年の「お別れの会」は少し違うニュアンスだと思いますが...)、という考え方も、いまの私はわからなくもなかったりもしまして、でも写真というものにセンシティヴな長田さんが、とってつけたような遺影の笑顔に「それ、私やみんなにお別れをする顔じゃないでしょ」と“嘘”を見抜いちゃう気持ちも、とってもわかります。そして本作では、「人生最後の日に、故人は写真を選ぶことが出来ない」という不条理(〈叶わない〉こと)を、自身でなんとかできないだろうか、と。...ちなみに私の父親は「オレは坊主も葬式も嫌」と書き残してスピード逝去しまして、長男としてはそれをなんとか叶えてやろうとてづくりお別れ会を開いたのですが、参列者や頭の固い親戚に文句言われたりして、疲れた...まあ、20年前だけど。

作品の中頃以降は、長田さんの家族への思いが綴られています。とくに、祖母に対する優しい気持ちと、家族に対するぎこちない様子は、印象的。何度か登場する「身体の中がゾワゾワとする」という表現...これに共感する人も、少なくないのでは? 寄稿作最終ページの対向面には、そんな長田さんに敬意を表して、作中で語られている写真を掲載させていただきました。



これは子供の頃からある感覚で、家族がたまたま数人集まり、それらしい会話をしたり、いわゆる家庭っぽいことをしていると感じる時に、身体の中がゾワゾワとする。肉体的にというよりは、血管や血、心臓の辺りに不快感があり、血が繋がっている人や家族がいるということに、何故だか気持ち悪さを感じてしまうのだ。だからというわけではないが、家族に対してカメラを向けたいと思ったことが一度もないのも事実で、そのため、私が撮った家族の写真は〝居間に差し込む光が綺麗だった〟という理由で撮った、洗濯物を畳む祖母の後ろ姿、その一枚しかない。もちろん、それでも大切な存在には変わりなく、上京してからは客観的に家族のことを考えるようになり、自然と興味が湧いてきた。それは完全に好奇心だったが、それでも、家族のことを写真に残したいという気持ちが芽生えたことに、自分自身で驚いていた。

ウィッチンケア第10号〈叶わない〉(P114〜P118)より引用

長田果純さんさん小誌バックナンバー掲載作品
八春秋〉(第9号)

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Vol.14 Coming! 20240401

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