2019/05/16

vol.10寄稿者&作品紹介14 西田亮介さん

最近は映像メディアでお見かけすることが増えた社会学者・西田亮介さん。あれは桜の咲き始め、たしか小誌が校了のころ(きちんと調べたら2019年3月20日でした)、拙宅では朝、母親が羽鳥モーニングショーをつけていることが多いのですが、あの、なにかと発言がネット上で話題になる玉川徹さんの代わりに西田さんが出演していたことがあって、おおっ、と。そして、平成カウントダウンのAbemaTV「平成から令和へ 25時間テレビ けやヒルSP」での討論も、とても見応えがあるものでした。同番組ではなぜか、ひろゆきさんが西田さんに議論を吹っかけるシーンが何度かありまして、しかし西田さんは挑発には乗らずにどっしり構えて、対話の方向(持論を理解させる)へと展開させていたのが印象に残りました。個人的には「ああ、時代はいまやホリエモンやひろゆきが、かつての朝生での西部邁みたいな役回りなのか」と世代交代を感じさせる内容でしたが、しかし西田さん、アクセル踏み込めばもっと相手を論破できそうなのに個人プレーには走らず、全体を見渡して余裕の法定速度遵守(排気量が大きそう)。あと、色の濃いシャツを身につけても知的で華やかなのは、カッコイイです。

西田さんの小誌今号への寄稿作〈「育てられる人」がえらい。〉には「少子高齢化を解消できなかったツケは現役世代に重くのしかかっている」との一文があり、これは前号への寄稿作〈エリートと生活者の利益相反〉でも指摘されていたこと。というか、「平成から令和へ 25時間〜」に出演していた落合陽一さんや西田さんなど、1980年代以降に生まれた人にとっては、「ちょっと、これから老人になる人たち、なにしてたんだよ!?」と言いたくもなる現実が、すぐそこに。私はいわゆる「団塊の世代」ではないものの、でも年内に年金を納め終わる(...長かったよ)年齢なので、耳が痛い。

寄稿作中に出てくる「育てられる人」というのは、未来への提言として含蓄のある表現だと感じました。自身が大学で教鞭をとる西田さんは、肩書きとしての“先生”に対しては、むしろ謙虚なスタンス。しかし、ある時期から日本に染み付いた「自己責任論に基づく、選択と集中モデル」をよしとする風潮を変えていくには、「トレードオフのゲームを全体のパイを大きくするゲームにゲーム・チェンジできる人」が必要だと説いています。なんだろう、最初は「野球エリート校がスター選手を集めて使い捨てるようなやりかたではなく全員野球を目指せ」みたいなことに似ているような気もしたけれど、でも、違うな。真逆。それは旧来の「勝ち負け野球」の枠内での理屈だから。むしろ西田さんが言っているのは「ゲーム・チェンジ」...つまり未来の日本のために野球そのものをアップデートしてしまおう、ということと受け取りました。みなさま、ぜひ小誌を手にして、西田さんの使った「育てられる人」という言葉の真意を確かめてください!



 教育無償化というが、基本的には授業料(学費)相当が中心で、進学に際しての諸経費の手当は十分とはいえない。かつて家族負担をあてにできた、高等教育の経費も英米圏のように自己負担自己責任型へと転換しようとしている。世界中で格差と分断が問題視されるなか、我々の社会は20年遅れの自己責任論に基づく選択と集中を容認しがちだ。
 選択と集中はトレードオフのゲームだ。誰かが勝てば、誰かが負ける。ひとつのポストを手に入れるために、誰かを負かすようなゲームだ。その勝者に次のステージが用意される。
 こうした変化やあり方をグローバル・スタンダードというのはたやすいが、自国や自国民に利点の乏しい国際標準礼賛は端的に無意味だ。そのこともまたすっかり忘れ去られている。

ウィッチンケア第10号〈「育てられる人」がえらい。〉(P084〜P087)より引用

西田亮介さん小誌バックナンバー掲載作品
エリートと生活者の利益相反〉(第9号)

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Vol.14 Coming! 20240401

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