前号(第12号)では《自分のことを半分妖怪だと思うようになってだいぶ経ちます》というスリリングな書き出しの一篇、「わたしはそろそろスピりたい」をご寄稿くださったトミヤマユキコさん。今年3月には『10代の悩みに効くマンガ、あります! 』(岩波ジュニア新書 965)と『文庫版 大学1年生の歩き方 』(集英社文庫/清田隆之さんとの共著) という2冊の本が出て、GW明けの5月10日には『女子マンガに答えがある ─「らしさ」をはみ出すヒロインたち』(中央公論新社)も発行予定。そんなトミヤマさんのウィッチンケア第13号への寄稿作は、ご自身が〝トミヤマユキコ〟というちょっと変名なペンネームで活動していることをも踏まえたうえで、名前と文体の関係性について考察した、「変名で生きてみるのもええじゃないか」。どこでなにを書いても多田洋一(本名)で通してきちゃった私(発行人)では気づかない、パーソナリティーと言葉についての微妙な綾が語られていて興味深いです。
ある仕事では《偉そうなおじさん》みたいな《男性っぽい名前》を使用している、というトミヤマさん。作中のエピソードでひとつ、とても重要な問題提起がなされています。あるとき、トミヤマさんはその変名で《わたしは自分たち夫婦に子どもがいないことを、「自分は子を持たないので」みたいに書いた》と。するとパートナーである「おかもっちゃん」さんが、《「男の人は『我が家には子どもがいない』とか書くんじゃないかな〜」と言うのである》と。。じつは私も既婚/子どもいない環境のシスジェンダー男性ですが、たぶん、な〜んにも考えないで“フツー”に喋ると、たぶん「ウチ子どもいないんです」だろうな、と。逆にそこで「自分」という言葉が出てくるか、甚だ疑わしい。...ここで想像力を働かせてみますと、もし自分が数度目の独身で再婚を望んでいるとすると「自分には子どもがいない」と言いそう。あるいは(飛躍してみて)、もし御落胤を秘さなければいけない立場だったら「自分には子どもがいない」と。
トミヤマさんは「おかもっちゃん」さんの意見を《腑に落ちるものがある》と書いています。しかし、と同時に、《これぞまごうかたなき家父長制の感覚》とも。たしかに、言われてみればそうかもしれない。たしかに、自分で産むことは不可能なので、一直線に「家」と繋がっちゃうかもしれない。...世の様々な環境で生活している男女のみなさまはいかがでしょうか? ぜひ小誌を手に取ってトミヤマさんの作品を読み、じっくり考えてみてくだされば嬉しく存じます。
そんなわけで、新しい名前を考えなくてはならなくなった。せっかく別の名前で書くのだから、すぐにわたしだとバレてはつまらない。そこで非常に安直だが、男性っぽい名前をつけることにした。文章の雰囲気も変えたいと思った。これもなるべく自分からは遠い感じでいきたかった。わたしよりかなり年上で、よく言うと威厳があって、悪く言うと偉そうなおじさんはどうだろう。偉そうなおじさんに憧れはない。むしろ彼らには迷惑をかけられてきた人生だ。はっきりと敵だったこともある。しかし、だからこそ無視できないし、変名という形で「概念としての偉そうなおじさん」になってみたかったのだ。
毎回の原稿で取り上げるテーマや、そこに綴られた思いは、わたし自身のもので、まったく脚色していない。ただ名前と文章の雰囲気を変えるだけである。でも、なんかもう、いつものわたしじゃない。「何を言うかじゃない、誰が言うかだ」みたいな言葉があるけど、本当にそう。同じことを言ってるのに、すげえ尊大なんだよなあ。なのにほんの少しでもへりくだろうもんなら、一気に「実はいいひとなんじゃないか?」感が出るんだよなあ。
〜ウィッチンケア第13号掲載「変名で生きてみるのもええじゃないか」より引用〜
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