2026/04/02

くれたこ(ノベライズ・ウィッチンケア第16号)

 僕が小学生だった頃、「戦争を知らない子供たち」という流行歌があった。
同じ頃、ジョン・レノンは「イマジン」を歌っていたはず。
あれから半世紀...最近耳に残った歌といえば、朝ドラ「ばけばけ」のオープニングだよなぁ。
日に日に世界が悪くなる〜♪
なんて、ぼんやり世を憂いていたら、きた! 今年も彼女が。


そもそも、僕が最初に彼女の「きちゃった」を被ったのは2015年でして、でもその後、世の中の風潮が変わってコンプライアンスとかポリコレとか囂しくなって...でもでも、数年ほど前からはその反動なのか、そんなもん関係ねーよ、みたいな無法者が世界を跋扈するようになって、困ったもんだ。


「お待ちどおさま。今年もできたよ、ウィッチンケア第16号。持ってきたんだから、隅から隅までちゃんと読んでね」

彼女が差し出したのは、黄色いスプーンが表紙になった本。これまで渡された中で、一番チャレンジングなヴィジュアルかもしれない。

「ありがとう。第16号、か。ほんと、短くもなく続いてるね」
「もう、たいへんなんですよ、紙の本の世界は。ちょっと、あなたもあいつにひとこと言ってやってよ!」
「あいつって、誰!?」
「ああ、あの、TACOとか呼ばれてる」
「決まってるじゃない。あの常軌を逸した米国大統領!」

それからしばらく、僕たちは世界情勢について語り合ってしまったのだ。

「...あのさ、今年も訊くけど、もし僕がこの本を読まなかったら?」
「殺します!」

そう言い切って彼女は去ろうとする。なんだかいつもより急いでいるみたいなので「次の予定でもあるの?」と尋ねると、
「ホワイトハウスに行って『オマエいい加減にしろ』と言ってくる」と。
唖然として彼女を見送った僕は、殺されたくないのでウィッチンケア第16号をじっくり読み始める。


ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16) 発行日:2026年4月1日
 出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税) ISBN::978-4865381801 C0095 ¥2000E

           
あいかわらず表紙を見ただけでは、どんな内容なのか皆目わからない。こんな本が書店で、惹句を掲げた他の本とともに並べられていたら...そこに発行人のなんらかの意志を感じ取れるものの、まあそれはそれとして、ロゴと号数の配置が絶妙なのは、エディトリアル・デザインを手がける太田明日香の美意識。ちなみに第10号まで表1に配されていた《すすめ、インディーズ文芸創作誌!》というキャッチみたいなのは、今号にも見当たらず。風の噂では発行人が「『インディーズ』とか『オルタナティヴ』とかいう意識がいつのまにかなくなっちゃったんで」みたいなことを宣っていた、とか。「文に芸のある人が創作したものをまとめた」から文芸創作誌、なのらしい。


ページを繰ると、ロゴだけのシンプルな扉に続いてモノクロの、風になびく木々の写真があり、草野庸子とのクレジットが目に留まる。これもまた風の噂によると発行人が長く草野のファンで、昨年の夏にはすでに、ある人を介してコンタクトを取り始めていた、とか。なんと、デザイナーの太田には一昨年から「第16号は草野さんに頼んでみたい」と発行人が言っていた、との情報も寄せられている。テキスト中心の文芸創作誌なのに、なぜ発行人は「本の見た目」に執着するのか? 謎は深まるばかりだが、今号のヴィジュアルイメージを支配している写真家・草野庸子については2026年3月21日にアップされた《写真家・草野庸子さんについて》に目を通してもらうのが一番だと思う。


片起こしの《もくじ》が始まる。次ページ見開きも《もくじ》が続いていて、寄稿者数は46名。作品名より人の名前が上なのは、創刊以来変わっていなくて...つまりこれは「誰が何について書いているか」(「誰が書いているか」だけ、でも「何が書かれているのか」だけ、でもなくて)、ということを強調した形式なのだろう。次の見開きにはハンドルを握った手の写真がどーんと。さて、どこに誘われるのか...いよいよ、寄稿作品が始まる。


今号のトップは第5号からの寄稿者・柳瀬博一。両親と子供の「ダブルケア」が必要な世代が体感する諸問題を鋭く解き明かした。次は山本アマネの、時間と自由にまつわるエッセイ。突然の解散総選挙で始まった2026年初頭の危うい空気感を刻印した一篇となった。佐々木敦は、小学生の時の同級生・A君についての忘れ得ぬ思いを私的エッセイに。続いて、絶対に終電を逃さない女は、自身2冊目の著書「虚弱に生きる」が売れて増刷を繰り返す日々についての雑感を率直に記した。稲葉将樹は、6月に控える斜視の手術を前に、「時計じかけのオレンジ」のあのシーンなども想起しながら過去の自分は平面世界に生きていたかも、と。久しぶりに小誌へ帰還した姫乃たまは、双極性障害をこじらせて入院した2020年夏の出来事を赤裸々に(負けないでよかった)。武田徹は、世間ではむしろ平和を象徴する詩人として知られる草野心平の、戦時下の実相について検証した。美馬亜貴子は、第1回から(関係者としても)関わってきたフジロックを題材に、近未来小説スタイルでロックの真髄に迫る。宮崎智之の今作での問題意識は明快だ。文学について、「感受」をキーワードとし、中原中也を例に引いて持論を開陳する。蜂本みさの今回の小説は、とにかく舞台設定からして一筋縄ではいかない。スキマバイトは戦いなのか? 九龍ジョーは、今号には小説での参加。「ホットケーキ」というタイトルからは想像しがたい人間関係の綾を描いた。今号が初寄稿となるモノ・ホーミーは、自身が最近のテーマとして追い続けてきたイタリアの詩人・ペトラルカについてのエッセイを。武田砂鉄は今号でも漆原CEOを架空インタビュー。言い合いバトルではなく、微妙に噛み合わない会話がそこはかとなく笑いを醸す。今年2月に町田市議会議員に当選したうのつのぶこは、初挑戦だった選挙のドキュメントを日付とともに記した。鶴見済は、近年ハマっていたアメリカのフィメールラップについて、独自の観点からその魅力について語る。早乙女ぐりこは上梓したばかりの小説「珍獣に合鍵」にまつわる、誕生秘話とも呼べそうなアナザーストーリーをエッセイで。矢野利裕は自身が「ブルー」と感じる音楽について、ジャンルの壁を取り払った考察を重ねてみた。綿野恵太は2025年の2月のある行動を日記形式で。これは、いずれ著書として世に問うための予告編感が濃厚に漂う一篇。星野文月は、夢とも現ともわからない「わたし」の意識の流れを精緻に描いていた小説を。今号が初寄稿となる竹永知弘は、たまらなく好きなあるマンガ作品についての愛を惜しげもなく披露しつつ、文学研究者として自身の矜持も。オルタナ旧市街の小説は、日常と非日常との境目が崩壊したような、身の回り感と途方もなさを兼ね備えたSF的作品。渡辺祐真のエッセイは、自分がなぜ空海にハマってしまったのかを、彼の歴史的な数々の偉業に照らして語った。野村佑香のエッセイからは、家族愛がひしひしと感じられる。作中の「わかめ」や「たらこ」は、いかなる事象の比喩なのか? 多田洋一の小説の舞台は新宿。たとえば、とくに説明もなく放り込まれている「スコッチ」...あれは1983年の出来事。トミヤマユキコは、生活環境の変化なども遠因で患ってしまった「めまい」について、率直な思いをしたためた。我妻俊樹の小説は、謎めいたインゲッピシ・ドトオフロップシェについて。これは生命体なのか、それとも? 小川たまかのフィクションは、タイトル通りかなり「性格が悪い」感が漂っていて、ある意味で人間研究における格好のテキストなの、かも。長谷川町蔵は、叔父の死に関わってしまった「ぼく」が、淡々とやるべきことをこなしていく様子を描いた、私小説的な一篇を。藤森陽子は「カンパコ」という、ライター仕事での、ある種の職人的技法について考察を重ねた。中野純は、近年巷で増えている植物のライトアップについて、多角的に疑問を呈する。木俣冬は近所の町猫が消えたことを語りつつ、専門分野である近年の朝ドラの傾向についても雑感を。荻原魚雷はSNSには一切手を出さず、でも長く書き続けているブログについて、思いを語った。3月クララの小説は、ちょっと不思議な状況で子育てをする夫婦の日常を、夫の視点から描いた。仲俣暁生は、自身の出版レーベル「破船房」でウィッチンケア過去掲載作を1冊にまとめた「自由について」のスピンオフ的なエッセイを。かとうちあきの小説は、自由に生きてきた「わたし」が、ふとした瞬間にもう若くはない、と感じた一瞬を書き留めている。コメカは、近未来のゲームセンターでの出来事を小説に。「接続されていない快感」という一節がリアルに響く。加藤一陽のエッセイは、日常の何気ない人との関わりを、自意識MAXで細やかに分析した。吉田亮人は、自身が設立した写真集出版社「Three Books」から出すことになったキム・ウンジュの写真集について、その背景を語る。ふくだりょうこの小説は、ある朝起きたら夫が見知らぬ女を家に連れてきていた、という修羅場展開...。武藤充は、前号でのアーティスト・足立幸子との逸話の後日談を、さらに詳しく書き記した。久保憲司の小説はレント・パーティという、日本ではまだ馴染みの薄い家賃収集方法にまつわる一篇。谷亜ヒロコは、大人になってからの友達の作り方について、男女の違いも含めて考察した。木村重樹は映画、とくにホラー系の作品について、かなり専門的に踏み込む。なお、冒頭で語られている「チェンソーマン」については本稿執筆後に終了を知った、とのこと。すずめ園は、自身が抱える広場恐怖症の生きづらさと、それでも旅をする楽しさを、率直な語り口でエッセイに。久禮亮太はフラヌール書店の店主として、ブックカルテ(選書サービス)を通じて顧客と交流する醍醐味を語った。東間嶺は前号に引き続き戯曲スタイル。自身を二分して対話させるという、実験的な作風の一篇だ。


46篇の書き下ろし後に、今号に関わった人のVOICEを掲載。その後にバックナンバー(創刊号~第15号)を紹介。QRコードが付いているのでWitchenkare STOREでその場で購入できるとは、世の中便利になったものだ。……こんなに読み応えのある本が、諸物価高騰の折にお値段据え置き(本体:2,000円+税)でして、お願いだから米国大統領、余計なことをしてこれ以上の迷惑をかけないでくれ!


それで、今回もまた繰り返すしかないのだが「ウィッチンケア」とは、なんともややこしい名前の本だ。とくに「ィ」と「ッ」が小文字なのは、書き間違いやすく、今号でも<ウイッチンケア>で検索すると、小誌を紹介してくださっているポストがいくつかあった。他には<ウッチンケア><ウッチン・ケア>...まあ、漫才のサンドウィッチマンも<サンドイッチマン>ってよく書かれていそうだし、そもそも発刊時に「いままでなかった言葉の誌名にしよう」と思い立った発行人のせいなのだから...初志貫徹しかないだろう。「名前変えたら?」というアドバイスは、ありがたく「聞くだけ」にしておけばよい。
そしてそもそも「ウィッチンケア」とは「Kitchenware」の「k」と「W」を入れ替えたものなのだが、そのキッチンウェアはプリファブ・スプラウトが初めてアルバムを出した「Kitchenware Record」に由来する、と。やはりこのことは重ねて述べておきたい、とだんだん話が袋小路に陥ってきた(というか、いつも同じ)なので、このへんにて。








Vol.16 Coming! 20260401

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