はじめての一人旅の目的地が金沢、それも「絵に描いたような失恋旅行」。傷心の仲俣青年は「ウォークマン(あるいはカセットボーイ?)」(AIWAだ!)でアズテック・カメラの『ナイフ』を聞いていた、と。なんと<ウェット>がサマになる風景であることか、と私は感じ入ったのでありました。その頃の世の中はDCブランドブーム全盛でしたが、たぶん仲俣青年ははき慣れたジーンズかチノパン&デイパック。音楽ではチェッカーズや中森明菜、C-C-Bの「Romanticが止まらない」等には耳もくれずネオアコ...きっとアズカメはデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズやペイル・ファウンテンズでも代替可? 本はなにを持っていたのだろう...まちがっても「ルンルンを買っておうちに帰ろう」や「気くばりのすすめ」じゃないだろうな、と。
作品は思い出の旅行に続き、信越本線の途中にある父方の郷里(牟礼)、そしてニンベンの付いた「仲俣」姓の話へと展開していきます。家族のルーツの謎解き...仲俣さんは小誌第3号への寄稿以来、緩やかに一貫して「家族の話」を書いてくださっていますが、プライベートな題材を扱うとその筆致にも優しいお人柄の部分が瑞々しく滲み出てくるようにも(先の「水気のない仕事」だなんて、そんなそんな...)。意外な結末部分は、ぜひ本編で多くの方に読んでいただきたいです。
個人的には作品内で仲俣さんが使った「オバさん」という言葉にも私は強く共振したのでした。1980年代半ば頃のハタチくらいの青年にとって当時の(いまで言う)アラフォー女性は、自分の倍近く生きている「人間のベテラン」に見えたし、また当時の女性も「それなりの成り」をしていたような記憶があります。もちろんオジさんもしっかりオジさんしていて。しかしながら仲俣青年の同年代が社会人になり「Hanako」も創刊し、そのあたりが、美魔女的生命体発生の起源のような...。
片町の映画館では、封切りされたばかりのフランシス・コッポラ監督の『コットンクラブ』を観た。その帰りに立ち寄った香林坊のバーでは、早稲田を中退して東京から家出してきたという若いバーテンが、フリートウッド・マックとフリーのアルバムをかけてくれた。結婚仲介業をしているというオバさん(といっても、いま思えばたぶん三十代)とそのバーで盛り上がった。翌日は内灘の海岸まで足を伸ばし、一泊で東京に戻った。
のちに私は吉田健一という作家が好きになったが、そのきっかけも「金沢」という小説だった。いつかあの町であんなふうに酒を飲みたいと願いつづけているのだが、まだかなわない。
ウィッチンケア第6号「1985年のセンチメンタルジャーニー」(P004〜P007)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1
cf.
「父という謎」/「国破れて」/「ダイアリーとライブラリーのあいだに」