今年1月に初著書「批評メディア論──戦前期日本の論壇と文壇」を上梓した大澤聡さん。私は昨年の秋、まさか大澤さんがこんな労作を世に問うために身を削っている最中とも知らず、寄稿依頼をしてしまったのですが...今年になり同書が出版されてからの大澤さんの活躍はめざましく、その様子はまさに「気鋭の学者、颯爽と登場!」という感じ。寄稿作「流れさる批評たち──リサイクル編」は、多忙な日々を過ごしながら大澤さんが書き留めてくれた著書発表後のいくつかのできごとの記録、そして同書にまつわるスピンオフ的な論考です。
大澤さんに寄稿をお願いしようと思ったきっかけは、TBSラジオ「文化系トークラジオLife」の「論壇のいま、Lifeのこれから」(2013年3月24日O.A.)。リアルタイムではなくポッドキャストで聞き、大澤さんの話していたことがとても印象に残ったからでした。登場してすぐのフェイシャルエステの話から、議論が進んでの「壇」「ギルド」「ライター」等への見解...なんと豊富な知識と尺の長い視野で物事を語る学者さんなのだろう、しかも、極めて平易な話しかたで。いま聞き直すと「批評メディア論〜」では敢えて評論する時代を限定し、それに合わせた文体を選んだのだな、と感じさせます。同時に、大澤さんは1930年代を掘り下げることが、現代の言論(批評)に新たな視点を投じることになると考えていたのだな、と。
「文化系トークラジオLife」は2013年の夏にまとめ聞きしました。その春に引っ越して、それまでは作業場にテレビがあったが、敢えてテレビを「見にいく場所」に置いた結果、まあ快適な新作業場なんですが、やっぱり人寂しい...それでその夏はポッドキャストやYou Tubeをやたら見聞きしたなぁ。寄稿作で大澤さんは<ポストプロダクションの問題>とともに<アーカイブの問題>を指摘していますが、「みんなが見ている(んだろう、と思っていた)テレビ」から離れてみたら、<「批評」や「言論」の輪郭はメディア技術の進展によって随時改変されていく>ということも少し実感しました。
掲載作の下記引用内にある<「商品」として耐えうる水準を確保すべく>という箇所、私は長くスタッフ系ライター(対談の構成etc.)をしてきた身なので、この<水準>こそが腕の見せどころだと思っています。読者(購読者)に対する<「商品」として耐えうる水準>ってことだけでなく、対談をした方にも「(あのときはまとまりのないフリートークだったけど)そうそう、私はこういうことが言いたかったんですよ」と感謝されるような...もちろん対価を払ってくださる出版社に対してもそれに見合う<水準を確保すべく>。
<前略>まぁ、まさにこうしてね、チキさんが毎日、ラジオに出てぇ、ゲストを前に、対話をしていること自体も、きわめて批評的な行為なんですよね。だけど……
当該話題、しばらく続くが、このへんでやめておこう。続きはウェブで(古い)。
さしあたって指摘すべきは二つ。一つ目はポストプロダクションの問題。以前しゃべったことをいま自分で実験的に可能なかぎり忠実にテープリライトしてみたわけだけれど(テープじゃないけど)、通常のインタビュー記事や対談記事ならば、まずこんなことはしない。「商品」として耐えうる水準を確保すべく、音声の書字化や構成の段階で常識的な調整=編集が必ず介入する――いとうせいこうさんの短篇小説「今井さん」(『鼻に挟み撃ち 他三編』所収)はまさにこの問題をモチーフにしていた(『群像』に書評を書いた)。右の書き起こし部分は約七四〇字。音源は約一分二〇秒。ふつうはこれを三分の一以下に圧縮するだろう。そのうえで、話者自身の内容上の事後の加筆修正が入る。たとえば、こんなかんじだろうか――
この本に照らしつつお話しさせていただくと、たとえば、言論や批評という営為が出版と密接にリンクした一〇〇年だったと思います。ですが、少し考えれば分かるとおり、それはごく限定されたシステムのもとでの批評にすぎない。<後略>
ウィッチンケア第6号「流れさる批評たち──リサイクル編」(P052〜P061)より引用
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Vol.14 Coming! 20240401
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