4月25日に書き下ろしの初著書「紋切型社会──言葉で固まる現代を解きほぐす」が発行された武田砂鉄さん。武田さんのお名前は自然に覚えてしまいました...ってヘンな言い方ですが、昨年夏頃から、ネット徘徊で気になる記事には、いつも<武田砂鉄>とのクレジットが。その感覚は私には懐かしいものでして、むかし雑誌(とくに音楽誌)の署名記事で書き手を覚えたのに近かった。「おっ、この人いっつもオレの好きなものについてツボ押さえてる」...っていう倒錯感覚(もちろんツボに引き寄せられているのがオレw)。
ネットでは...少なくとも最近の私は「クレジットで読む」or「ざっと内容を確認する」がほとんどなので、誰が書いたのかは「超重要」or「気にならない」に二極化(当方が散漫なこともあるでしょうが、ネットの記事はタイトルも含めてさらりと<書かれていること>の比重が高いような)。そんななか、武田さんのゴツゴツした(さらりと流れない)文章に惹かれてしまいました。ちょっと前もcakes連載「ワダアキ考 〜テレビの中のわだかまり〜」の<ファシズム化する石原さとみの唇>がおもしろくて...もしかしてNON STYLE井上も石原さとみの罠に陥って「落とせる」発言した!? いやまったく井上さんを擁護する気はありませんが。
「紋切型社会〜」の19<もうユニクロで構わない〜ファッションを彩らない言葉>には「思春期を多摩地方で過ごした私は、ユニクロで洋服を買う、という選択がとっても恥ずかしかった時代を知っている」という一節があり、こういうこと文字で書き留める姿勢は小誌今号への寄稿作「キレなかったけど、キレたかもしれなかった」と通底しているな、と強く思いました。ものごとがなんとなく流されて上書きされたり納まったりすることに、個人の感覚で異議申し立てすること。それはもちろん自分のためでもあるでしょうが、「上書き」「納める」の過程でけっこう暴力的に「なかったこと」にされる事象への目配り(優しさ)が発端なのかも、とも。
今号掲載作は小説のような読後感を抱かせる、「武田君」と「カズちゃん」ともう一人、両人と同い年の「神戸市居住の、中学3年生、A少年」にまつわるエッセイ。武田君は<自分>、カズちゃんは<彼>と表記されることが多く、<私>や<俺>や<僕>は意識的に遠ざけられています。悲しいできごとが起こって、もちろん<自分>は悲しいのだけれどその悲しさとの折り合いが付かなくて、でもその悲しいできごとは「<自分>だけのもの」ではないのでいかんともしがたいうちにどんどん世間一般で言うところの「悲しいできごと」化していって、でもそのことを諦めたくはなくて...って私のまどろっこしい説明ではなくぜひ本編を多くの方に読んでいただきたいです!
人を殺した同級生がどこかにいる。んで、死んでしまった同級生がいる。死体の首だけを校門に置いた同級生がいる。んで、似合わない死化粧で旅立った同級生がいる。彼の鼻には綿が詰め込まれていて、それがちょこっとはみ出ていたんだ。
人の命を寸断することと、寸断されること、この境目って、テレビの中で見解を並べる人たちが単純化して震え立つほど、明確なものなのか。
自分と同じ14歳が人を殺して、自分と同じ14歳は轢き殺された。その時の自分は、妙に大人びた頭を起動させて、このどちらかにだけ寄り添ってはいけないと銘じていた。殺す気持ちも、殺された気持ちも、ちっとも分からない。分かってはいけない。でも、そのどちらもが近くにある。
親友が死んで、その存在が片付けられてしまうようなフレーズを聞くのが最も不快だった。「カズちゃんの事故は残念だったけど、カズちゃんは一生を全うしたんだよね」。全うしているわけがないだろう。なんでもかんでも数歩先を歩いていた彼に、もっともっと嫉妬したかった。またしても、坂をのぼらなくなった。
ウィッチンケア第6号「キレなかったけど、キレたかもしれなかった」(P026〜P031)より引用
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Vol.14 Coming! 20240401
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