2015/05/02

vol.6寄稿者&作品紹介02 西森路代さん

雑誌やウェブに数多くエッセイや取材記事を発表している西森路代さん。プロフィールでは「ライター」「フリーライター」と紹介されることが多いですが、私がいつも読んでいる日経ウーマンオンラインの連載<西森路代の「人気」研究所>には「ライター/人気評論家」とあり...人気評論家! もちろん連載タイトルとからめたものでしょうが、なんか、ぴったりだな、と。過去何度か「顔はだんだん覚えてきたけど名前がわからない」くらいの役者/タレントを、西森さんの記事で一致させたことがあったような...。

そんな西森さんが寄稿してくださったのは、昨年ユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに選ばれた「壁ドン」についての考察。この言葉、じつは私が認識したのは昨年9月初旬で(なぜ正確に覚えているかというとFacebookでの「友達」との雑談で<最近ドラマを見て覚えた言葉=「壁ドン」>と2014年9月2日09:57に記している)、最初はその概念というか状況というか<ワールド>がわからなかったが、でも瞬く間に世の中がこの新流行語を消費していき、それに合わせて私の「2014ver. 壁ドン」認識もできあがって、そしていまは「ダメよ〜ダメダメ!」とともに忘れかけてるわけですが、しかし西森さんは寄稿作「壁ドンの形骸と本質」において、この流行現象を丁寧に分析をしています。

同作によると<そもそも、「壁ドン」という行為自体はかなり前から様々な映画、ドラマ、漫画などで描かれていたが、言葉になったのは2008年頃のことらしい>と。私の記憶ではフランス映画などで男女がやり合うとそういうシーンが出てきたような。日本なら「傷だらけの天使」の小暮修とか「蘇る金狼」の朝倉哲也に似合いそうな、なんというか、ケダモノ的行為? なので昨年9月頃に知ったときは「なんでこんなのがエンタメ化してんだろう」と不思議でしたが、西森さんが男にとっての壁ドンの本質を<どうしようもない気持ちの最終形>と書いているのを読んで納得したのでした。文中に引用されている徳井義実さんの「日常生活で壁ドンするやつって正気の沙汰じゃないと思う」というコメントあたりが、近い感じ。

こういう形骸化、私は自分のフィールドに引き込んで「まあ、ジミヘンがギター燃やしたりぶっ壊したりしたのがエア・ギターになっちゃったようなもんか...」と軽く嘆いて終わりにしちゃうんですが、西森さんさすが、と思ったのは、一度形骸化した壁ドンにも未来の可能性を示唆して考察を締めているところ。全体の見通し力/バランス感覚はラジオでのトークや共著書「女子会2.0」でも発揮されているように思え、私はファンです!



 私個人が覚えている「壁ドン」シーンと言えば、1990年代にヒットした別冊マーガレット連載の少女漫画『イタズラなKiss』(多田かおる著)の中の一コマだ。この作品は日本、台湾、韓国でも何度もドラマ化されたため、若い世代にも知られている作品かと思う。
 この作品の壁ドンシーンは、今のようにパロディ化・陳腐化されたものとは違って非常に切実だ。ヒロインの琴子が片思いする直樹は学年トップの秀才だが情緒というものが少々足りない男の子。直樹とは違ってストレートな琴子の思いに最初は戸惑ってはいたが、直樹はそんな琴子に次第に惹かれていく。惹かれていくうちに琴子の天然ゆえの八方美人な行動に腹が立ったりするのだが、直樹にはその苛立つ気持ちの正体が何なのかわからない。そのモヤモヤした気持ちと、琴子に対して募る恋心がまじりあって、思わずやってしまうのが「壁ドン」なのだった。
 言ってみれば、流行語になる前の「壁ドン」は、2015年に言われる「壁ドンする人の自信満々さ」や「自信から壁ドンを実際にやってしまう痛さ」というものとはかけ離れた、むしろ逆の気持ち──自信のなさと自分の気持ちの正体の得体の知れなさ──が本質のひとつとしてあったと言ってもいいだろう。


ウィッチンケア第6号「壁ドンの形骸と本質」(P008〜P013)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

Vol.14 Coming! 20240401

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