2012/05/27

vol.3寄稿者紹介19(やまきひろみさん)

こんなにおしゃべりな私ですがそれでも長ずるにつれて心というか感情というかそういうものはどんどん閉ざす方向に進んでいまして、もうね、最近は余生全部天気の話だけしていようかとも...ってなにが言いたいのかというとたとえば「オレは心を閉ざしているんだ」とリアルタイムの言葉で表明することの虚しさでして「それってつまり言いたいことがあるならいま言えばいいじゃん」みたいな斬り返し一撃でOK!? じつは個々の個性ってそれほど個性的ではなかったりしてだから言葉にするそばから「それってつまり〜じゃん」ってな既存の言説に還元されちゃったりしてそれもなんだかなぁ、個にとってはとても大事で唯一の個の問題でしかありえないのに。小説という言葉の表現は、そのへんの虚しさに対しては比較的耐久性が強いのではないかと信じています、きちんと読んでもらえればだけれども...。

ライターとして着実なキャリアをこなしてきたやまきひろみさんは、個人的な小説を書くことで、心に秘めているなにがしかの感情を注意深く解いているのかもしれません。それはウィッチンケア vol.2掲載作「ふたがあくまで」でも感じたことで、煎じ詰めれば「人になにかを伝えたい」ということなのだと推察しますが、しかし自分の思っていることを言葉にすることと、それが人に伝わることはまったくの別問題でして。感情にまかせて思いの丈をぶちまけてさらに「なんでオレのことわかってくれないんだ!?」とか、そういうのはぶっちゃけじゃなくてただの馬鹿。

福島県出身のやまきさんにとって、あのできごとは私なんぞの想像を遥かに超えて自分の一部です。それでも寄稿作品「小さな亡骸」はあのできごとについて書かれたものではなく、たぶん、「伝えられなかった」ことに区切りをつけるための物語。「それってつまり三角関係の縺れじゃん」ってな言説にびくともしない、静謐で強い作品ですね、やまきひろみさん!



 あれから三十年以上たった今、そんなことであそこまで頑なになった自分の小ささを私は恥じている。しかし当時の私はあいつに対しても百合子に対しても心を閉ざした。あいつがどんなに話そうとしてきても徹底的に無視した。さらにこれは意図せぬことだったが高校三年になる春に家の事情で私は東京に引っ越すことになり、あいつとも百合子とも二度と顔を合わせることはなくなった。
 恵子は東京の私に時々手紙を送ってくれた。高校卒業後、あいつは地元の原子力発電所の関連会社に就職し、その四年後に百合子と結婚した。そういうこともすべて恵子が手紙で教えてくれた。
 よかったな、とあいつのことを思った。東京で新しい生活を始めた自分には、生まれ育った町のこともあいつのことも初恋のこともすでに遠い記憶の中にあり、そこに懐かしさや置いてきた何かに対する感傷めいたものを見いだすことはもはやなくなっていた。
 なにもかも忘れたつもりでいた。しかし忘れたわけではなかった。

Witchenkare vol.3「小さな亡骸」(P140〜P147)より引用/写真:徳吉久
http://yoichijerry.tumblr.com/post/22651920579/witchenkare-vol-3-20120508

Vol.14 Coming! 20240401

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