昭和四年生まれの私の父親はもう10年以上まえに亡くなりましたが、生前にあまりちゃんとした話をしたことはなかった。自分のことをちっとも喋らない人でした。...なんか、私の父方の祖母は祖父の3人目の妻、私の父親は2番目の妻の子...とか、いろいろ複雑で。私が生まれたころにはふつうのサラリーマンだったらしいんですが、でも大学を卒業してから勤め人になるまでのことも、よくわからない。仲俣暁生さんの作品タイトルみたいですが、思い出してみると謎だらけ。日常的には社交的でフランクな人間だったのですが、黙することはずっと黙していた。
小誌の校正も手がける大西寿男さんは、ウィッチンケア vol.3への寄稿を機に昭和五年生まれの父親とじっくり話をして、掲載作品を完成させました。「校正のこころ」「校正のレッスン」などの著者である大西さんは、インタビュアーとしても自身のスタンスを変えていないように思えます。大工の棟梁である父親を“作品”に見立てて、聞こえてくる言葉を正確に捉えようとしている。ちょっと、羨ましいです。作品を読んで、私も一度は自分から父親に「話を聞かせてほしい」と持ちかけるべきだったかもしれないなぁ、と。私のなかにある「私の父親像」は私が勝手につくりあげて自己完結しているもの...「自分のことをちっとも喋らない人」というのも、私の印象でしかないものですし。じつは黙していたのではなく、誰からも聞かれなかっただけかもしれない。
「棟梁のこころ──日本で木造住宅を建てる、ということ」の語り手:大西與五郎さんのお話には、住宅に関心のある人にとっても興味深いエピソードが数多く含まれています。建築技術について語っていても、やはり職人の気質が伝わってくる。大工さんにはならかったけれど、父親の気質はしっかり継承したんですね、大西寿男さん!
棟梁●昭和三〇年代後半(一九六〇年〜)に、木工事の工具が変わった。カンナ、ノコギリ、ドリルが電動になって、材木を切ったり削ったりするだけやなく、穴あけ、釘打ちも電動の木工機械を使うようになった。工具専門メーカーのマキタ電機とかが開発してな。
電動化で工期が大幅に短縮された。建築の費用は、材料代よりも工賃の占める割合が大きい。そやから、工期が短くなるということは、コストも安くあがることにつながるわけ。
昭和四〇年代(一九六五年〜)になると、輸入材が安く入るようになった。アメリカ、カナダ、ソ連から。ただし、外材は、湿気の多い日本の気候に合わない。弱いんよ。日本材より三倍くらい早く腐ってしまう。それでも、外材は節のない木目の通ったきれいな木が安く手に入るんで、みんな飛びついたんや。それまで内地材の、節のいっぱいある木(スギ、ヒノキ)を美観的に使ってたからね。
そのためにね、日本の林業が衰退していくわけや。値段的にたちうちできない。山が荒れて、植林しても間伐せえへん。その間伐材も、以前は住宅建設の現場では丸太を足場に組んで使ってたのが、平成(一九八九年〜)になってから、鋼管足場いうて、鉄パイプを足場に組むのに変わったんや、安全上の問題もあって。むかしは足場からよう落ちてケガしとったけど、いまでは間伐材の足場で事故が起きても労災に認められなくなってきたんよ。ケガはね、電動工具が発達してケガの程度も深く大きくなったな。
──よしあしやなぁ。
棟梁●ほかにもな、木材の接着剤がよくなったんやな。これは大きいよ。端たんざい材を接着剤で貼り合わせて、柱や壁なんかの構造木材が作れる。一本の木から切り出すよりも貼り合わせたほうが、じょうぶで狂いがすくないからね。
Witchenkare vol.3「棟梁のこころ──日本で木造住宅を建てる、ということ」(P098〜P107)より引用/写真:徳吉久
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Vol.14 Coming! 20240401
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