2017/05/27

vol.8寄稿者&作品紹介29 中島水緒さん

雑誌「美術手帖」や【エン-ソフ】(言論と、様々なオピニオンのためのウェブ・スペース)などで執筆中の中島水緒さん。アートだけでなく書評や映画評も手がけていらっしゃいまして、約1年前に知り合いになった後、いくつかの記事を拝読しました。浅学な私は専門的な内容になるとただただ「なるほど...」になってしまうことが多いのですが、中島さんが【エン-ソフ】に投稿した<「恋愛映画」は誰のためにあるのか――「(500)日のサマー」における「真実」と「言葉」(alternative edition)>...これはテーマが身近ですし映画も気になっていたので、SNSで〝予告編がいきなりRegina Spektorの「Us」でびっくり! 映画観て再読します〜〟なんてコメントし、鑑賞後にそのとおりにしたのでした。

ぜひ日頃は書かないようなことを書いてみてください(発表を前提に)、と中島さんに寄稿依頼のさいにお願いしました。評論系での精緻な分析が、まっさら状態ではどんな方向性を目指すのかな、なんて興味も湧いてしまったので。もしかすると掌編恋愛小説とか...いいじゃないですか。もしかすると「(500)日のサマー」評における(1)のパートにあった一節<「運命」も「物語」も、いうなれば人生の不条理に主体が溺れてしまわないための辻褄合わせ>...それを検証する創作的展開、とか。いいじゃないですか!

いただいたお原稿を一読して思ったのは、ソリッドだなあ。ええ、いまあなたがお読みになってるこの文章のようなダラダラ感の対極にある、無駄な言葉を削りに削った一篇でした。主人公は<私>なんですが、でもこの<私>は、作中では必要最小限にしか<私>として登場しません。むしろ<自分>と表現され、宿泊先のヒュッテにある薪ストーブなどと同等であるかのように描かれています。

作品の後半、なにも持たないで(携帯/財布/デジカメetc.)朝の八島ヶ原湿原を散策する<私>。<自然は人間の眼差しに先んじて、ただそこに在る。見る者は、私は、不要なのかもしれなかった>という、作品全体に通底する状況を表したような箇所もぐっときました。...そして、あることが起きるのですが、それはここでは書けません! ぜひ中島さんの作品を読んで、美しい湿原の朝をご堪能ください。


 空が、薄氷の弱々しさで朝の光を注いでいた。ヒュッテの周辺には人影ひとつなく、春らしさとは無縁な、緑色と枯れ草色が入り混じる湿原がひたすらに広がっている。風が薙いだ植物がてんでばらばらの方向を差していた。緩やかな斜面が導く先に階段状の土壇があり、さらにその遠くの高台に林が見えた。離れたところからでも木立の枝ぶりは細かく鮮明に映えて、自分の視力が研ぎ澄まされてゆくのを感じた。目を凝らせば、空気中に散乱して振動を続ける光の粒子さえも見えそうだった。

ウィッチンケア第8号「山の光」(P178〜P181)より引用
https://goo.gl/kzPJpT

Vol.14 Coming! 20240401

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