2016/05/30

vol.7寄稿者&作品紹介37 開沼博さん

小誌今号のしんがりは開沼博さんに勤めていただきました。寄稿作は「ゼロ年代に〜」のパート3。初めて寄稿していただいたさいはまだ「アラテン(around 2010)」でちょっと前の話のような気がしていましたが、次回東京オリンピックが射程に入った感もある今年からすると、遠くはないが近いとも言えない。タマちゃん、ベッカム様、ちょいモテオヤジ、鈍感力...<失われた20年>なんて言い方からもずいぶんはみ出してきちゃったし。

今作には、ある意味でゼロ年代をもっとも象徴するような企業の逸話も登場します。<失われ>ているはずなのに<いざなみ景気>と名付けられた、小渕総理が急死してから自民党が野党に転落するあたりまでの時代。開沼さんはパート1(第5号)で予言的なことを書いていまして、ちょっと長いけど引用しますと...<いわゆる論壇の中で「ゼロ年代」と言えば、少なからぬ人が東浩紀さんや宇野常寛さん、濱野智史さんらが中心となって作品を生み出してきた情報社会論・コンテンツ論系の議論を思い浮かべるだろう。あるいは、歴史認識論争の末期や9・11からイラク戦争に向かう流れ、小泉政治や北朝鮮問題といった断続的に起こってきた個別の議論を上げる人もいるかもしれない>。そして、それを受けて<しかし、おそらく、そうではない「ゼロ年代」があるのではないかと私は思っている>と。

今作にも開沼さんが実際に見てきた、この時代の煌めいた(しかし歪んでいる!?)風景が描写されていますが、それだけではなく、パート1で漠然と感じていた<そうではない「ゼロ年代」>の気配が、具体的な言葉で考察され始めています。これも1からの引用ですが、<その後に既にやってきている現代を詳細に読み解く鍵が眠っているのではないかと感じている>と直感で捉えていたものの正体を、露わにし始めているような。

じつは今作での、最初の原稿やりとりで、私の能力では開沼さんの意図を読み切れない箇所がありました。P212の下段の<理念やイメージを表面的に語る既得権益者の欺瞞を告発し、リアリズムと対峙する中に、社会の閉塞感の解消が模索される>。もう少し詳しく、とお願いしてその前段に<「反戦」でも「弱者を守れ」でもいい。>との一文を追加していただけたので、読み解く鍵はさらに1行前の<「現代らしさ」が淡々と進んでいった>だと判断して理解した(したはず?)のですが...<淡々と進んでいった>ものごとに自身を最適化した人々が、いまの社会で働き盛りの世代にいるんだな。開沼さんのこの考察を、ぜひ多くの方に読んでいただきたいと願っています!



(前略〜)合理性と成果主義、個人の利害の最大化を皆が目指すことの何が悪いのか。それこそが社会の進展にもつながる。そんな上気した感覚があった。それは、リーマン・ショック以降も通奏低音のように続き様々な形で社会を規定していった。いまにも続く何かなのかもしれない。
 小泉純一郎が大衆的な支持を保ちながら5年5か月の総理大臣を務め上げたのが2006年。赤木智弘さんが2007年1月の月刊「論座」に寄稿した〝「丸山眞男」をひっぱたきたい──31歳、フリーター。希望は、戦争。〟が話題になり、ロスジェネ論壇と呼ばれるムーブメントが起こる一方、2008年には橋下徹が38歳で大阪府知事になり活動をはじめる。それら、あるいはその影にあった様々な新しい社会現象を「ネオリベ」「ポピュリズム」というありものの言葉で語ることは、確かに正しいのだが、その先に待っていた「現代らしさ」が淡々と進んでいったのも確かだった。「反戦」でも「弱者を守れ」でもいい。理念やイメージを表面的に語る既得権益者の欺瞞を告発し、リアリズムと対峙する中に、社会の閉塞感の解消が模索される。

ウィッチンケア第7号「ゼロ年代に見てきた風景 パート3」(P208〜P212)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/143628554368/witchenkare-vol7
開沼博さん小誌バックナンバー掲載作
ゼロ年代に見てきた風景 パート1」(第5号)/「ゼロ年代に見てきた風景 パート2」(第6号)
http://amzn.to/1BeVT7Y

Vol.14 Coming! 20240401

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