2016/05/26

vol.7寄稿者&作品紹介32 荒木優太さん

荒木さんの最近の活躍ぶりを寄稿者の1人がSNSでシンデレラボーイ、と評していましたが...いやホント、昨年秋には論文「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」が第59回群像新人評論賞優秀作に。そして私も昨年の紹介文で触れていたEn-Sophでの連載「在野研究のススメ」は、受賞前から書籍化の話があったとのことで、これもめでたく「これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得」(東京書籍)というタイトルで今年2月に出版され、大きな反響が! なお同書が本になるまでの経緯は「マガジン航」にて読めます。

そんな荒木さんの小誌今号への寄稿作は、宮本百合子の「雲母片」を題材に、文字(〜によって「書くこと」や「表現すること」かな!?)と涙を対比しながら論じたもの。「雲母片」は<大正一三年三月、『女性改造』に発表され>とありまして、それは百合子さんの最初の結婚生活が破綻した頃か...しかし最近伊藤野枝とか、この時代の〝凄い女の人〟の話に触れること多いな、自分。たまたま、か!?

「これエリ」(「これからのエリック〜」の略称だそう)に比べると、荒木さんの本流であるところの文学研究者然とした作品ですが、しかし作中には<書記の機械によって書記の機会を奪われた私たちの健忘症を想起せよ>なんて、駄洒落めいたおもしろいことも書いてあったり(荒木さんらしい)。そして全体からほんのり伝わってくるのは「これエリ」と同じく、「しっかり勉強しようぜ!」という、これも荒木さんらしい檄。<無‒力であること、独立するのに必要な生得的アプリケーションを欠いているということ、それは後天的に獲得可能な能力のインストール可能性を示している>...。

作品の終盤に<成長するということは、涙を拭いてときに涙を我慢するということだ>という一節があり、最初に原稿を拝読したとき、私はここに「そうだよな〜」と心打たれたのでした。でっ、唐突に思ったのは、文学に限らず、よく映画や音楽でも「泣きたいときに観る/聞く」みたいな言われ方がされますが、心ならず持っていかれたならともかく、最初からそんな動機で〝自分のもの〟じゃないものに頼るのってどうよ、と。とにかく、荒木さんの論じる文字と涙の関係、ぜひ小誌を手にとってお確かめください!



 けれども、文字を操れるからといって、書道に通じているとは限らない。文字の書き方は一つではない。〈筆‒半紙‒墨〉という書記の物的環境と〈万年筆‒ノート‒インク〉という物的環境は異なる。〈筆‒半紙‒墨〉は、〈指‒窓ガラス‒霜〉と違うし、〈枝‒地面‒凹み〉とも違う。当然、〈キーボード‒モニター‒フォント〉とは似ても似つかない。書記の物的環境が異なれば、そこで発揮される身体性は姿勢だけにとどまらずに変化する(文字を毒として退けたプラトンと共に、書記の機械によって書記の機会を奪われた私たちの健忘症を想起せよ)。もしかしたら、「私」は文字を操る術は覚えても、未だに〈筆‒半紙‒墨〉の物的環境に適応した身体を手に入れていないのかもしれない。このテクストはタイプライターで、或いは代筆で書かれたのかもしれない!

ウィッチンケア第7号<宮本百合子「雲母片」小論>(P180〜P183)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/143628554368/witchenkare-vol7
荒木優太さん小誌バックナンバー掲載作
人間の屑、テクストの屑」(第6号)
http://amzn.to/1BeVT7Y

Vol.14 Coming! 20240401

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