稲葉なおとさんとはベーグルを食べながら打ち合わせをしました。
稲葉さんとはつい先日、○○研究会(と称したごく少数での親睦会)でお会いしまして、そのさい「いったい私たちはいつから知り合いなのか?」について確認しました。おたがい、高校時代からだとばかり思っていましたが、どうも正確には、共通の友人を介して浪人時代からのようだなぁ...それにしても、光陰ウサイン・ボルトの如し。
でっ、その会の後半、研究課題そっちのけでついつい音楽話(相手が音楽好きだと俄然張り切っちゃうのです、私)。中学生のころ流行っていた洋楽を思い出していて、稲葉さんが曲は覚えていてもミュージシャン名を記憶していなかったのは、ラズベリーズ。でも「Go All The Way」も「Let's Pretend」も「Tonight」も、みんないまでも口遊めそうじゃないですか〜。あっ、「Overnight Sensation (Hit Record)」は覚えてなかったみたいで、それはちょっと残念だったなぁ...それにしても、同じラヂオの音を聴いた仲。
そんな稲葉さんの渾身の長編小説「0マイル」文庫版の解説で、重松清氏は以下のように書いています。ちなみに同作品は、父親と息子の二人きりのアメリカ旅行を描いたもの。
「(前略)この物語はスタイリッシュではあってもキザではない。美しい情景の数々も決して絵葉書のような平板なものではない。主人公や旅のルートは世の父親がうらやむ設定でも、物語そのものには、甘ったるさは微塵もないのだ。/この旅に満ちているのは、後悔、やるせなさ、持って行き場のないいらだち……。/苦い旅である。なにをやっても、なかなか思い通り進まない。息子との関係も、すぐにぎくしゃくしてしまう。/その苦みを噛みしめることから、僕たち読者の『読む』という旅は始まる。」(「0マイル」文庫版P521より引用)
稲葉さんが寄稿してくれた「ニューヨークの流れ星」は、重層的な構造のなかに寓話性を持ち込んだ、チャレンジングな作品。世界中を旅して数々のホテルに滞在し、「まだ見ぬホテルへ」「名建築に泊まる」といった著書をものしてきた(写真も)稲葉さんにとって、ニューヨークもまた自分の身の丈にあった町なのでしょう。当ブログのどこぞに記されている「WitchenkareはKitchenwareのアナグラム。身の丈にあった生活まわりの文芸創作(後略)」という一文に、ぴったりではないですか! そして、この物語においても重松氏の解説はまことに的を射たものでありまして...ほんと、稲葉さんは知り合ったころからずっと変わらず、磊落にしてセンシティヴ〜。
「何か質問は?」
訊かれて思い浮かぶことがあった。肝心なことを確認しておかなければ。
「合格かどうかは……?」
「三人目の仕事をきみが終えた時点で空を見上げれば、そこに合否が描かれるはずだ」
やはりそうなのだ。以前、同僚からも聞いたことがある。光の点が下降すれば、それは「否」を意図する。上に向かって流れれば、「合」を表わす。
遠い昔の人間たちは、地平線に向かって尾を引く光が、我々の失意につながる知らせであることを知っていた。だから、気落ちする見習い天使を励ますために手を合わせてくれたのだ。それがいつしか行為そのものが履き違えられ、手を合わせる人間自身の願いを叶えるための儀式にすり替わってしまった。
願いを叶えてもらうためには、光が消えるまでに三回願いごとを唱えなければいけない。
そんなことが、一部の人間の間でまことしやかに囁かれているようだが、わたしにいわせれば、不合格通知に向かって自分の願いごとを、それもよりにもよって三回も唱えるなど、愚かな行為だ。
わたしが人間であれば、「否」の知らせではなく、遥かに眼にする機会の少ない「合」の知らせに向かって、たとえその光が消えたあとでも手を合わせるだろう。
理由? 見習いから“正”に昇格したばかりの天使の浮き立つこころが、つい揺り動かされてしまうかもしれないからだ。自分の合格を祝ってくれているようにも見えるその人間に対しては、ひとつくらい願いごとを叶えてあげてもいいかな、と。
「では、幸運を祈る」
先輩はいい残すと、ふわりと身体を浮かせた。
〜「Witchenkare vol.2」P185より引用〜
Vol.14 Coming! 20240401
- yoichijerry
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