2011/05/10

WTK2寄稿者紹介07(大西寿男さん)

大西寿男さんとはもう日も暮れちゃったんで「ビールもあり!」で打ち合わせをしました。

本づくりと校正を手がける「ぼっと舎」の主宰者・大西さんとは「好きな本の著者と読者」という関係でお会いしました。大西さんについては、じつは私、昨年2月13日の当ブログで触れていまして(っていうか、ぼやいていて...)、というのは、Witchenkare vol.1をなるべく誤植の少ない本に仕上げたくて、藁をもつかむようにアマゾンを検索して、それで出会ったのが「校正のこころ 積極的受け身のすすめ」という大西さんの著書だったのです。でっ、当初は実用書的に我流校正作業の参考にしようと思っていたはずが、あっというまに読了して、いい本だなぁ、としみじみ(内容はもちろんこと、装幀や文字のたたずまいも綺麗な本!)。

正直申しまして、若いころの私は校正者から逃げ回っていました。かつて某出版社の某部署では同じフロアに校正者もいらっしゃいまして、そこによく出入りしていた私は原稿がアップするとなるべく早めにとんずら(外出/メシ/帰宅etc.)するようにしていました。だって、「校正のおじさん」につかまると、いろいろ細かいこと言われてめんどくさかったんだもん! ...年を経て自分もおじさんになり、いまでは校正者がどれだけ重要な役割を担っているのか、ずいぶん理解できるようになりました(の、はず)。ひとことで言うと、書き手と校正者は協業の関係を築くのがベスト。ウィッチンケア vol.2では大西さんに最終的な校正作業を手伝っていただきまして、そのことだけ書いていても数千字になりそうなのですが...少なくとも、私の書いたものは大西さんの眼力によって致命的なミスを何カ所も救われています! ほんとうにありがとうございました!(×∞)。

あっ、ここでは寄稿者・大西寿男さんについて書きたかったのだ。私なんぞとは比べものにならないほど多様な文章に関わってきた大西さんに、私は前述のように一読者(ファン)として原稿を依頼しました。実用書のつもりで読み始めた本に感動したのは、大西さんの生み出す文章、そしてその背景にある「ものの見かた/考えかた」に魅了されたから。であれば、きっと「校正者という枠」を離れても、このかたはすてきな作品を書いてくれるにちがいない、と確信して。それと、会うまえのメールでのやりとり、そして、初対面であれこれ話しているうちに、あっ、この人は音楽が好きだな、とひしひし感じたことも大きかったなぁ(私、相手が音楽好きだとわかると俄然張り切っちゃうのです)。

大西さんが寄稿してくれた「『冬の兵士』の肉声を読む」は、自伝的モノローグと往復書簡をミックスさせた実験的な作品。数多くの「既存の作品」を見てきたであろう大西さんが、敢えてこういうスタイルを選択して提示したメッセージ...読者にどんな届きかたをしたのか、編集者として興味津々であります!


 本の歴史のなかで黙読が発明されたのは、西欧では紀元前5世紀のギリシャなのだそうです。それまでは読書といえば朗読でした。朗読が黙読にとってかわられたのは中世初期といいますから、5000年の本の歴史を考えると、そう遠い昔のことではないのですね。藤澤さんの聴覚にすくいとられ刻みこまれたことで、本書は読書の原点にもつながっているようにおもわれます。
 校正者は、仕事のうえで、言葉と奇妙な向かいあい方をします。ゲラに組まれた言葉に深く沈みこんで読むとき、ある声が聞こえてきます。それは著者の肉声でも、ぼく自身の肉声でもなく、ゲラの言葉自身の肉声としか呼べないものです。同じ作者の文章でも、作品が変わればちがう声がしますし、作品ごとに固有の色、リズム、テンポがあります。そのゲラの肉声をつかまえるところまでいけば、校正に必要な読みの条件が整ったといえます。
 校正者にとって、言葉は自律したいのちをもったものとして立ち現れます。あたたかい言葉はよりあたたかく、冷たい言葉はより冷たく、言葉のいのちを支えエンパワメントするのが校正の仕事だとぼくは理解しています。

 朗読会でぼくは「冬の兵士」の肉声を聴きました。今度は、ぼく自身の肉声をつかまえなければなりません。それが、本づくりにたずさわる者として、また、一市民として、「冬の兵士」という本を〝読む〟ことだ、とおもっています。

〜「Witchenkare vol.2」P102〜103より引用〜

Vol.14 Coming! 20240401

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