2015/05/14

vol.6寄稿者&作品紹介18 井上健一郎さん

5月25日に国書刊行会より著書『吉祥寺「ハモニカ横丁」物語』が発行される井上健一郎さん。井上さんの今号寄稿作はタイトルにその名称はありませんが、もちろん「ハモニカ横丁」が大きく取り上げられています。吉祥寺がどんどんお洒落な街になり、一時期は駅前の怪しい一帯になっていましたが、いまではすっかり名所のように。その理由を<路地>、そして<都市の余白>という観点で多角的に解説...といっても全然堅苦しいものではなく、市井の観察者目線でわかりやすく魅力を伝えてくださいました。

井上さんの考察は、私個人にとっても目から鱗ポロポロでした。とくにチェーン店系居酒屋と、路地裏にありそうな個人経営の居酒屋を、丁寧に役割分担しているくだりなどは、なるほどそういう風な棲み分けになっているのか、と。<大人数でどこかの飲食店を探している時に、路地に入るひとはあまりいないだろう>...なるほど、そうかもなぁ。<路地裏にある店は個人経営の個性的な店が多いので、居合わせたすべての人たちの好みと合わない可能性もある>...なるほど、そうだよなぁ。そして、続く<予備知識なしに個人経営の店に入ると、多少感情の浮き沈みがある>という一節...そうそう、そうなんですよ、なるほど! この<多少感情の浮き沈み>といかに上手につきあうかが、のっぺり(感情が浮き沈まないように!?)と開発された都市における、路地の楽しみかたの秘訣なのだ、と。

作品後半では「ハモニカ横丁」に限らず、広く一般に<路地という掴みどころのない空間>の特性と存在意義についても語られています。私の世代(born in 1959)だと同じような機能はたとえば子どもの頃の空き地、公園、校舎の屋上などにもあったような思い出がありますが...いま土管の積まれた空き地ないし、このまえ通りかかった都心の公園は入場規制してたし、校舎の屋上も鍵かかってそうだし〜。一時は駅前空き地(低層の建物はあったが...)みたいになっていたハモニカ横丁が、都市で寄る辺なくなった人々の新たなコミュニケーションスペースとして再興...そう考えるとおもしろいです。

個人的には、むかしからあのへんをうろうろするのが好きでした。いまは用事がなければいかない街になってしまいましたが、思い出はけっこうありまして。最近は横丁内にもお洒落な店が増えちゃって、じつは気圧されちゃって、新しいお店にはあまり寄ったことがないです。たまに通りがかると、佐藤慶が愛した珍来亭でしょっぱいラーメン食べて、「なぎさや」でさらにとびきりしょっぱい塩鮭買って帰ってきたり。今度勇気出して、知らない店にも飛び込んでみます〜。



 これら、路地という掴みどころのない空間はどのように定義できるのだろうか。私なりの路地のイメージはこのようなものになる。
 都市という限られた空間に、道路や建物をパズルのように敷き詰めていく。その時どうしてもパズルは合わない。隅っこで余白が出てきてしまう。これが路地ではないかと思う。計画性の欠如から開発の過程で意図せず生まれてしまった空間である。
 ハモニカ横丁は、元をたどれば終戦直後に駅前に自然発生的に広がったヤミ市の生き残りである。生きるか死ぬかの時代に人間が自然と生み出した空間だ。そこに計画性などはなかった。
 幹線道路や建築物は、人間が計画的にそして能動的に造ったものであるため、生まれながらに機能や意味を与えられる。路地はそういった建設の過程で、意図せずに生まれてしまう副産物である。確たる目的があって造られたものではないから、機能や意味は与えられず、発生する。


ウィッチンケア第6号「路地という都市の余白」(P112〜P115)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

2015/05/13

vol.6寄稿者&作品紹介17 藤森陽子さん

前号掲載作では実兄の人生を通じてポジティヴな指針を示した藤森陽子さんですが、今号掲載作では自身の「エッジな部分」を見つめ直すような、自省っぽい作品を寄稿してくださいました。いつも忙しく国内外を飛び回り、誰もが素敵! と思える媒体に記事を書きまくっている藤森さんがこんな悪夢に苛まされていたとは...いや、作品冒頭に描かれる「ピアノの日」のことなのですが。<もともと気が小さいせいか、子どもの頃から心配ごとがすぐさま夢に現れる性分だった>...たしかに、夢は現実(と自分が認識している事象)そのものを精緻に反復はしませんが、○○は●●の前兆、みたいなイレギュラーな因果関係はあるよなあ、と。そしてこれは「夢」という語彙の乱用かもですが、夢見たこともないことはほんとに夢では見られない!?

社会人になるまで見たという「ピアノの日」の夢。3歳から通ったピアノ教室が好きになれず、でもそのことを親に言えず中学3年まで続けていたので、コンディションが悪いと「あれ、今日はピアノ教室だっけ?」と夢に出る。それが社会人になると新ヴァージョンに...じつはこれ、私もいまだに、とても似た夢を数年に一度は見て嫌な朝を迎えています。ものすごく具体的で笑っちゃうんですが、決まって「あれ、俺、仏Ⅰの単位取れたんだっけ?」。細かい事情を説明したっておもしろくもなんともありませぬが、基本、これが原因で自分が学歴詐称に悩んだり、大学に通い直してそれも続かずへこんだり、みたいな夢。いや私、さすがにいまは「仏Ⅰの単位」よりもっと大きな苦悩も抱えていますが、しかし、夢の設定としては、いまだにこれ。あっ、藤森さんの話でした(失礼!)。

成長しない私と違い、藤森さんの夢はきちんとヴァージョンアップされているようでして、ピアノから▲▲、そして△△へと...。しかし、この悪夢に纏わる話はぬきにしても、今作には藤森さんの素顔がちらりと覗くような箇所が多く、読んでいて他人事ではありません。とくにライターとしてのスキルについて触れたくだりなど。<雑誌の記事を書いていて最も手間がかかるのは、実は短い文章だったりする。/ある意味200字の文章より、2000字のコラムを1本書く方がずっとたやすい>...200字での起承転結のつけかたや〝書き分け〟スキルで悩む様子は、また悪夢を見ませんように、とお声がけしたくなります。

たぶん同じような媒体でかつて同種の記事(しかも私の場合はタイアップ広告)を書いた経験があり、あれは超絶キツかったな、と。某酒造メーカーが新製品を納入するためのツールとしてその媒体に「■■が飲めるおいしいお店70」みたいな買い取り枠を...その70店をページに均等配分すると1枠のいわゆる「見出しと本文」が1L&150W程度で、まさかシェフおすすめの〜/旬の素材を〜/●●直送〜ばっかりで70枠埋めるわけにはいかず...すいません、また自分話でしたが、藤森さんの苦悩は私よりはるかにハイレベル&晦冥から光明への転換も含蓄に富んだもの、ですので、ぜひ本編でお楽しみください!



 以前、知り合いの編集者が、こんな秀逸なことを言っていた。
「短い文章は極上の〝ツメ〟を作るようなもの。煮詰めて煮詰めて、ツヤととろみのある濃厚なタレに仕上げるのです」
 なるほど。短い文章、それは穴子のツメなのか。
 丁寧に丁寧に火を入れ、純度を上げ、磨いて行く作業は確かに似ている。文章をただザツに削っただけでは焦げ付くばかりで、文全体にツヤも一体感も生まれない。
 しかし、深夜、キーボードを叩きながらふと思う。
 これだけ紙媒体が斜陽の一途をたどり、字詰めがあって無いようなウェブサイトの緩やかさを見ていると、一文字削るのに何時間も費やすような作業に、今やどれほどの価値があるのだろうと。
 うなされるほどのしんどい思いに、何の意味があるのかと。


ウィッチンケア第6号「バクが夢みた。」(P106〜P111)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

cf.
茶道楽の日々」/「接客芸が見たいんです。」/「4つあったら。」/「観察者は何を思う」/「欲望という名のあれやこれや

vol.6寄稿者&作品紹介16 久保憲司さん

前号にはスウィートな恋愛小説を寄稿してくださった久保憲司さん。今号掲載作「スキゾマニア」は一転、花登筺もたじたじな関西を舞台にした家族の群像劇...といっても銭や商人の話(←それも出てくるんですが)ではなく、世界が変わってしまったことに対して、どこか突き放した視点ながらも寄り添い、受け入れていく物語。ヘヴィな事柄を軽やかに語っていく文体は、ちょっと久保さんにしか書けない感じ。フォトグラファーとして、ロックの「とんでもない人」を「美しい一瞬(=写真)」に変換してしまう、そのマジックに共通するような。

主人公の「俺」は精神を病んでしまった父親の看病のため、東京生活に区切りをつけ実家のある京都で暮らし始めます。私は関西に土地勘がないのでよくわかりませんが、きっと大阪に近い京都の、どこかの町なのだと。実家のあるのが川崎市のどこか、<街のど真ん中>にあると描かれている父親が入院中の施設は御茶ノ水とか池袋あたりとか、そんな距離感なのかな、と。この地域は「俺」ファミリーの生活の拠点で、親戚なども暮らし続けていて、ひさしぶりに実家に戻った「俺」とその人たちとの交流も復活するのですが、そのあたりの描写が、これまでの久保さんの寄稿作(在東京の主人公)とはずいぶん違って血縁に縛られているっぽい。あっ、でもドロドロした感じのエピソードも血液サラサラ風に流れていくので、不思議なんですが!

ひときわ印象的な登場人物が「悪い親戚」と表現されている男です。<僕のいなくなった母親のお父さんの従兄弟>だそうで血は繋がっていないとのこと。なんか私もむかしは親戚の集まりなどあると「この人と繋がりがあると言われてもファミリーツリー意外の接点をどう見つければいいのか?」みたいな人と同席になり固まっていたりしましたがそんな時でも先方は「親戚だから」という理由でけっこう距離詰めてきたりして...ってなに思い出してるんだ!? とにかく「俺」はこの「悪い親戚」が<LSDを飲ませ、預金通帳を全部持ち出し、お金を引き出したのだろうか? いや、たぶん、父親はあの親戚の甘い口車に乗って、投資でもさせられ、全額巻き上げられ、そのショックで気が狂ったのかも>と想像し、<……親父、お金のことで気が狂うなんて悲しすぎるぜ>との思いに駆られるのです。

作品内の「俺」は父親や親戚との関係だけでなく、ほんとうに<世界>...つまりこの世の中が変わった、という思いも持っています。新幹線ができて、さらに新幹線の速度が増したから世界は変わってしまったのかもしれない...飛行機についても<本当に人間は800キロのスピードに耐えることが出来るのだろうか>と。「俺」は20年前に日本とイギリスを往復しすぎ、その時すでに<「もう一つの世界」へと移動していたのかもしれない>と。父親の発病は世界が変わったことに気づく「きっかけ」なのかも、と。虚実綯い交ぜの物語はどこに辿り着くのか、ぜひ本編を手にしてお楽しみください!



 会わずに帰ることにした。半日以上も気の狂った父親に付き添ってくれたおばちゃんに「すいません、すいません」と何度も謝り、ついでに「どうだったんですか」と経緯を聞いてみた。助けて、と叫びながら父親は交番に駆け込んだそうで、ますますLSDでも飲まされたのかなと思えてきた。
 父親の家に行ってみた。部屋がゴミ屋敷のようになっていた。気のふれた人が書くような、わけの分からない、読むだけでこちらも病気になりそうな文章のチラシが、いたるところに散らばっていた。
 父親の日記もあって、狂っていくまでの様子が記録されていた。どうも一週間前くらいからおかしくなっていったようだ。なぜか岡本太郎について克明に描かれていたり、難しい漢字を異常にたくさん書いていたり……それは喪失していく自分を一生懸命取り戻そうとしているかのようだった。筒井康隆の小説に「残像に口紅を」というだんだんと文字がなくなっていく話があって、最後に「あ」と書いて主人公が消え去るのだが、まさにそんな感じだった。父は岡本太郎と書いて、この地上から消えていったような気がした。なぜ岡本太郎だったのだろう。
 僕は「気が狂う」というのは一瞬にして起こることなのかなと思っていたが、そうではなく「だんだんと狂っていく」ものなんだと分かった。父親の気が狂った部屋で僕は寝た。


ウィッチンケア第6号「スキゾマニア」(P098〜P105)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

cf.
僕と川崎さん」/「川崎さんとカムジャタン」/「デモごっこ

vol.6寄稿者&作品紹介15 西牟田靖さん

今年3月に発行された西牟田靖さんの「本で床は抜けるのか」はすでに四刷、そういえば昨日の朝日新聞のサンヤツにも同書の広告が掲載されていました(ちなみに本日は武田砂鉄さんの「紋切型社会〜」が)。私は神保町の三省堂書店で買いましたが、じわじわと書店で見かける機会が多くなっている感じで、ロングセラーおめでとうございます! もともとは仲俣暁生さんが編集人(今年4月からは発行人も)を務める「マガジン航」の人気連載企画。書籍化にあたり加筆修正が施され、紙の本(←底抜けの原因!)として登場。世の愛読家にとっては、まさに「他人事ではない」テーマですもの。同書には仲俣さんを始め中野純さん、武田徹さんなど、以前から小誌にご縁のあるかたも登場します。

私の居住空間でもかつては順調に本が増えておりました。ごく単純に、学生時代から愛読する雑誌のBNを並べているだけでも、どんどん危険な状態に(...「ミュージック・マガジン」本棚とか、泣笑!)。私は他に音源収集癖もありますのでこの2つを併行させると将来どうなるのかとあるとき真剣に考えまして、テキストに関わる仕事をしている身ながら音源を優先することに。...しかし人生の黄昏時に差し掛かって「音源は所有しなくてもOK」な時代が到来するとは! もーっ、先に言ってよ、みたいな気持ちでiTunesの音楽と関わる日々。音源(聞くもの)で起こった変化は本(読んだり見たりするもの)でも同じように起こるのか?

今号寄稿作『「報い」』は、西牟田さんが初めて手がけた小説です。小誌巻末の「参加者のプロフィール」欄では<類似する事件は存在するが、本作は完全なフィクショ>と説明されていますが、これまでに西牟田さんが発表したルポなどを丹念に読んできたかたなら、きっと思い当たるふしがある!? また、お原稿を受け取るまでの過程で、西牟田さんは「もっとずっと長いものを削りに削って今回発表するものにした」と仰っていました。フィジカルな本=誌面の都合で小誌では長尺ヴァージョンを掲載できなかったことが残念。ぜひ将来、できれば独立した1冊の本(←底抜けの原因!!)として、本作に再会できることを願います。

物語の主人公・冬岩五郎は、もの書きの使命感で篠塚則子失踪事件の真相を追います。冬岩に真相解明を託し協力する和歌山県警OB・黒木誠とのやりとりは、結末部分でも印象的。そして事件の本筋と同時進行する、この作品のサブストーリーでありながらメインテーマとも読める、冬岩と妻との関係性。タイトルが「報い」と括弧付きなのは、このあたりの複雑な心境を反映させてのものだと私は感じました。<自分が追いかけた事件のせいで妻が壊れたことは間違いなかった>という一節は、一読者としてホントに切なくなっちゃいました...。


 ガラス破損の件には略式起訴で30万円支払い命令が下った。それを機に、冬岩の妻は妄想にとらわれるようになった。
「あの男が家に来るわ。私たちを殺しに。早く逃げなきゃ」
 妄想は次第に冬岩への恨みへと転化していった。
「私はもともと結婚したときから不公平を感じてたのよ。あなた、次こそは売れるっていって頑張るのはいいけど、単にわがまま放題してただけでしょ。私を犠牲にして。あなたのせいでめちゃくちゃになったわ。どうしてくれるの。あなたがお金にもならない事件を追いかけたせいよ。私は娘と一緒に実家に帰ります。じゃあ」
 下村がわざわざ東京までやってくるとは思えなかった。しかし、自分が追いかけた事件のせいで妻が壊れたことは間違いなかった。人がやらないぐらいにテーマを深追いすることで、何か必ず成果を得られるし、報われるのだと冬岩は思っていたが、そんなことは幻想だし、甘えなのだということを、彼は家族の絆が壊れることで思い知った。


ウィッチンケア第6号『「報い」』(P092〜P097)より引用

http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

2015/05/12

vol.6寄稿者&作品紹介14 小川たまかさん

小川たまかさんの、小誌への3作目となる寄稿作「南の島のカップル」。前2作は一度作品世界に入り込んでしまうと主人公(やその相手)と一緒に物語を過ごしているような読み心地の作品でしたが、今作はもう少し複雑な構造(と設定)が組み込まれている...って私が野暮な解説するより、ご自身が今作について言及した文章がnoteで公開されていますので、読んだかた、これから読むかたはぜひサブリーダーとして併読してみてください(「作画崩壊」などでは決してなく、すべては私の読解力の至らなさです...)! 

主人公のアサコはモルディブで、日本人客も少なくない宿泊施設の現地案内係(コンシェルジュ?)のような仕事をしています。客や同僚との付き合いを通じて仕事観を自問自答するのですが、自身では<客を観察して、その性格や職業を推測すること。それは自分の頭の中にあるカテゴリに出会った人たちを分類していく作業だ>と考えつつも、仕事を始めた頃には<人ってそんなに単純じゃない>と<ためらいがあった>り。マネージャーのサラは<主観で仕事をすることは、自惚れや傲慢と同意じゃない。自分の主観を持ちつつ、謙虚に淡々と仕事をする。その積み重ねで自分のパターンを増やす>と、「分類すること」へのためらいより「きめ細やかな分類ができるようになること」が自身のキャリアアップに繋がる、という考えで、私は物語の展開を追いつつ、この二人の考えかたを対比するように読みました。

私は就社経験が2年半しかなく個人で仕事を始めてからもいまでいうB to B(Business to Business)的な立ち位置での仕事がほとんどなので、アサコさんとサラさんのお客様に対する考えは想像するしかないか(...いやB to Bでも相手はお客様だったりもするのですけれど)...視点ずらして、私の過去の旅行はほぼ「自分で勝手に行動するだけ」でしたがこういう輩は「あんまりかまわないほうがいい客」に分類できるのか...そういえばホテル勤務の古い友人は「名刺を持ってなかったり名前だけの人がきたときこそ接客は要注意」と言ってた...ってなぜ自問自答の袋小路に陥るのか私。

そして本作を読んでもうひとつ個人的に感じたこと。SNSがあたりまえに登場する作品なのですが、私は海外旅行などもう10数年していませんでして、Facebookやインスタグラムがあたりまえになった時代のそれはむかしとずいぶん違うんだろうな、とこれも想像するしかない。いや、海外旅行中の人との交流は自宅でするんですが...いまは意識不明にでもならないかぎりコミュニティ(過去のコミュニティなんかもリアルタイムで含むところが空恐ろしい!)から隔絶することは難しい世の中なのかなあ、などとも。



 アサコがこのリゾートに呼ばれたのは日本語で日本人とコミュニケーションができるからだけじゃない。同じようなスーツケースを持った若い日本人カップルでも、片方は旅慣れていて、もう一方はリゾートが初めてということもある。その違いを見抜くには、同じ文化で育った者の方が有利だ。それはわかっているけれど……。
「友達として何年も付き合っていくなら、カテゴリに当てはめるなんて良くないのかもね。でも、私たちが彼らにサービスする期間は長くても10日間、短い場合は3、4日間。その短い期間でできるだけのことをするなら、まずは自分の経験に従ってパターンに当てはめることだよ」
 そのパターンから抜け落ちるものだって当然あるでしょう? アサコが聞くとサラはニコニコ笑いながら続けた。
「気付いたときにそれもパターンの一つに加えればいいじゃない。主観で仕事をすることは、自惚れや傲慢と同意じゃない。自分の主観を持ちつつ、謙虚に淡々と仕事をする。その積み重ねで自分のパターンを増やすの」
 こんな南国で、そんなことを悩んでいるのはもったいないよと言われている気がした。ウィンクが得意で若々しく見えるサラだけど、実はアサコの年齢と同じぐらいのキャリアがある。


ウィッチンケア第6号「南の島のカップル」(P086〜P091)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

cf.
シモキタウサギ」/「三軒茶屋 10 years after

Vol.16 Coming! 20260401

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